松井江の考察・解釈 後編
刀剣乱舞 松井江の考察・解釈をまとめた記事の後編です。
前編では『松井江が何の物語を持っているか』、について解説しており、後編ではその解釈を元に『それぞれの台詞や要素が誰のどんな逸話を元にしているか』についての考察を書いています。
解説を省略している箇所が多いので、まだ読まれていない方は前編から読むことをお勧めします。
※破壊台詞に触れています。
審神者就任記念や乱舞レベルで解放される台詞は直接は書いていませんが、ニュアンスに言及している箇所があります。
※個人的な解釈です。誰かの解釈を否定したり、自分の解釈を押し付けたりする意図はありません。
※歴史に詳しくない者がネットの情報をもとに書いたものです。参考程度に読んでください。
はじめに
松井江は、ゲーム内にある台詞や設定文などの情報がおそらく意図的に分かりにくく書かれており、どの台詞がどんな歴史を元にした台詞なのかを突き止めるのが非常に難しい。
しかし前回の記事で私は
「松井江は八代城主(小西行長・加藤清正・細川忠興・松井興長)の要素を持っており、刀剣乱舞は松井江で八代城が見てきた八代城主の物語を伝えようとしている」
という結論を出した。
今回は、その解釈をもとに松井江の台詞・回想・デザインなどが誰のどのような逸話を元にしたものかを考察していく。
前回と比べて雑多な構成になっていることや、解説を省いていたり文章量にバラつきがあることなど、読みづらい点も多々あると思うが、最後までお付き合いいただけると幸いだ。
設定文・刀帳
設定文
この文章は、前半は事実を述べているが、後半は「~か。」と言い切らないような形で語られている。
なのでこれらの文章は、「そうとは限らない」と読むことができ、事実は違うことが考えられる。
これらを八代城主由来として読むと以下のようになる。
・戦も実務も得意な万能さは元主の影響か
→松井興長ひとりではなく、八代城主由来。八代城主はみんな戦もそれ以外の面も評価されている。
・血への執着も彼の刀としての物語から来るものか
→八代城主由来。松井江には血への執着に繋がるような逸話は残されていないが、八代城主には死傷者の多い戦への戦歴がある。
また、細川忠興は戦歴以外に血なまぐさい逸話が多い。それに小西行長はキリスト教信仰を持っているので、人を斬るという流血の罪とそれに対する贖罪としての流血もある。これらが松井江の血への執着に繋がっていると考えられる。
以上のことから、松井江の設定文は八代城主を由来とした内容と考える。
刀帳
この文章も、松井江が八代城主の物語を持っていることを前提に読むと説明がつく。
・血に塗れてはいるが、こう見えて実務が得意
→八代城主由来。とくに細川忠興。細川忠興は血なまぐさい逸話が目立つが、それ以外に優秀な面が多い人だった。戦歴から見ても、八代城主は4名とも実務面での優秀さより戦歴の印象の方が強いように思われる。
・僕は例外だからねぇ
→八代城主の物語を持って顕現していることが例外。基本的に刀剣男士は、その刀自身の持つ伝説や逸話などから顕現したり、以前の主の逸話から顕現している。松井興長のみでなく、八代城主という松井江自身と直接関係ない人物の要素を持っている松井江は例外と言えるだろう。
以上のことから、松井江の刀帳は八代城主の物語を中心に書かれていると考える。
台詞
松井江の血に関する台詞は、基本的に小西行長由来(キリスト教由来)のものと、細川忠興(血なまぐさい逸話由来)のものに分けて考えられる。
血を流さなければいけない、というものは聖書に書かれている贖いの方法。
戦場などで好戦的になっているものは、細川忠興の血なまぐさい逸話によるものと思われる。
今回はその台詞の中で、なにか特定の逸話等が元になっていると思われる台詞を中心に自分の考えを述べていく。
血
聖書には「命は血の中にある」という記述がある。
つまり血=命なので、これは「新しい命が入ったね」という台詞だろう。
業
これは小西行長由来と考えられる。
血=命なので
血を浴びる=人を斬ること、命を奪うこと
血を流し続ける=人の血を流したことに対する贖い
松井江は刀なので、人を斬るという業からは逃れられないということだろう。
業に関しては後ほど説明するので、今はここだけ覚えていただきたい。
土を耕す
松井江はこのように土を耕すことを嫌がるが、これはおそらくキリスト教に由来するものだろう。
創世記に、土を耕すことと血に関する記述がある。
創世記4章、カインとアベルの話だ。
簡単に説明すると、兄カインは農耕を、弟アベルは牧畜を担当していた。
とある理由でアベルを殺したカインは、「今後おまえが土を耕しても作物は実を付けることはない」と告げられる。
松井江が土を耕すことを嫌がるのはこの話が元になっていて、「多くの血を流した自分が土を耕しても作物は実を付けない」と考えているのではないだろうか。
松井江は設定文にも書かれている通り「万能」とされており、刀装失敗時の台詞からも自分の器用さに自信を持っていることが伺える。
その松井江が特定のものにだけ苦手と言及するのは、やはり宗教的な理由が絡んでいるのではないだろうか。
「土に還りたい」に関しては、聖書の中に「死んだら土に返る」という記述がある。
松井江の土に還りたいという台詞も「死んだ方がマシ」というニュアンスで使われているものと思われる。
おそらく聖書が元になっているものだろう。
浪費
おそらく松井興長由来。浪費癖のあった主君に対して諫言状を提出したという逸話が元と思われる。
瀉血
小西行長と細川忠興の要素、両方なのではないかと考えている。
台詞の意味合いとしては、放置時の台詞なので「戦場で流すことができないから、自分で流すしかないのかと……」という台詞だろう。
「瀉血」という医学的な用語が出てきたが、これは細川忠興が医学への造詣が深かったことが理由ではないだろうか。
食について
これらはおそらく、細川忠興が食に気を遣っていたことが由来の台詞ではないだろうか。
忠興は偏食を嫌い、息子の忠利に対しても偏食を避けるよう注意している。
食べ物の味ではなく栄養分を重視しているのは、細川忠興由来と考える。
鬼
細川忠興由来と思われる。
細川忠興がガラシャに「蛇のような女だ」と言った際に「鬼の妻には蛇のような女が似合いでしょう」と返された逸話があるが、この逸話を元に一番残酷な鬼は……と言ったのではないだろうか。
身につけるものへの拘り
細川忠興由来と考えられる。
細川忠興は武具への拘りを持っていたという記録が残っており、細川忠興の逸話を元に顕現している歌仙兼定も武具に対して拘りを持っている様子を見せている。
修行見送り
これもおそらく細川忠興由来。
修行に出た刀剣男士を心配する審神者に対しての「彼を心配する気持ちは分かる。僕だって仲間を心配する気持ちは持っているから」という台詞だと解釈している。
細川忠興は三男の忠利を元服前から江戸に人質に出していた。忠利が人質でなくなった後も忠興と忠利は江戸と九州等を交互に往復していたため離れている期間が多かったが、頻繁に連絡を取り合っており、政治的な情報交換のほかに雑談や体調を気遣ったアドバイスなども送っていた。
このように、細川忠興には離れている息子の身を案じる一面も持っていることが記録として残されているため、この台詞は細川忠興のイメージと重ねた台詞と考えられる。
回想
其の76 『言えない過去』
豊前江と松井江の二振りによる回想。内容としては、辛そうに何かを伝えようとする松井江を豊前江が「言わなくていい」と宥めるというもの。
回想の発生条件は 3-1「織豊の記憶:関ヶ原」ボスマス勝利後となっている。
この回想の疑問点としては、
1 なぜ発生条件が関ヶ原のボスマス勝利後なのか
2 松井江はなぜ辛そうなのか
3 松井江は何を言おうとしたのか
の3つが挙げられる。
この3つのうち、1と2に関しては八代城主由来と見ることで説明がつく。
八代城主の中で、関ヶ原の戦いの本戦に参戦したのは小西行長と細川忠興の二人だ。松井興長は会津征伐で負傷したため療養中で、加藤清正は謹慎を命じられていた。
関ヶ原のボスマス後というのは、関ヶ原の戦いが史実通りに終わったことを見届けたあとだろう。
小西行長はこの戦いで敗北し、斬首刑となっている。
この回想で松井江が辛そうなのは、小西行長が斬首される歴史を守ったことが理由ではないだろうか。
小西行長亡き後、加藤清正の領地となった肥後南半国のキリシタンは弾圧の一途を辿る。
斬首される際の小西行長の心情に思いを馳せているのか、肥後国のキリシタンのその後に胸を痛めているのか。
3の松井江が何を言おうとしたのか、については分からない。この解釈から想像するなら、小西行長の死に関するものではないだろうか。
ちなみに、細川忠興はこの戦で136の首級をあげたとされている。
小西行長の死と、細川忠興の血に塗れた逸話が残る関ヶ原の戦いは、松井江にとってはとくに重要な戦だったのではないだろうか。
其の77 『すていじ あくと3』
篭手切江の呼びかけで豊前江と桑名江はすていじのれっすんをすることになり、松井江もそれに付き合うことになる、という内容。
この回想で特に解釈に悩む台詞は、篭手切江の「嬉しくて鼻血が出そう」に対する松井江の「……できる」という台詞。
この台詞は、「篭手切がここまで喜んでくれるなら頑張れる」という台詞だと解釈している。
理由としては、篭手切江の以前の主である細川忠利と、八代城主のひとりである細川忠興の関係だ。
刀剣乱舞は、松井江と篭手切江の関係で「忠興と忠利は仲が良かった」ということを示しているのではないだろうか。
忠利は忠興から家督を継いで細川家の当主となっているが、忠興の三男だ。
長男の忠隆は忠興に勘当されており、次男の興秋は忠興から自害を命じられている。
このような部分から、忠興は身内に厳しいという印象を持つ人も少なくないのではないだろうか。
しかしこれらはそこに至る理由があったからで、忠利に対しては父親として親しく接している様子が手紙に残されてる。
内容は政治的な情報交換から雑談、体調不良時のアドバイスなど、親子らしい交流も見られる。
ちなみに、長男の忠隆(長岡休無)とは後に復縁しており、八代城にて正式和解している。つまり、八代城には細川忠興の父親としての穏やかな一面が歴史として残っているのだ。
こうした八代城での逸話も影響して、松井江は細川忠興の父親としての一面を持っているのかもしれない。
すていじあくと4でも松井江は篭手切江を気にかけている。
3では 「嬉しくて鼻血が出そう」→「……できる」
4では 「どうした篭手切、鼻血か?」
と、両方血に反応しているような文脈だが、すていじあくと3は「篭手切江が喜んでくれるなら頑張れる」という台詞で、すていじあくと4は「純粋に篭手切江を気にかけているだけ」と解釈できないだろうか。
外見
肥後拵
刀剣乱舞の松井江の拵は、現存する朱塗鞘ではなく歌仙拵だ。
その理由は、松井江が歌仙兼定と共通の逸話を持っているからだと思われる。
歌仙兼定や細川忠興に関係する要素を持っていることを示すヒントという解釈もできるだろう。
歌仙兼定との共通点に関しては前編で語っているのでそちらを確認していただきたい。
軽装
松井江は、軽装にて花の描かれたスカーフを巻いているが、この花はおそらく桔梗だと思われる。
桔梗というと、細川忠興の妻ガラシャの実家、明智家の家紋の花が連想される。
つまりこのスカーフは、忠興の妻であり、キリシタンであったガラシャに由来するものだろう。
吸血鬼のような見た目
松井江は吸血鬼のような見た目をしているが、これは小西行長の影響と考えられる。
その理由は、
・死者が吸血鬼として蘇る理由
・小西行長の遺書
・松井江の持つ「業」
この3つに関連性が見られるからだ。
・死者が吸血鬼として蘇る理由
吸血鬼は、死者が何らかの理由で蘇ったものとされている。
吸血鬼として蘇る理由は伝承により様々だが、その中に
「生前に罪を犯した」「現世に未練を残した」というものがある。
松井江は吸血鬼の見た目をしているということは、人の身を得る前にこの「罪」と「未練」を持っていたと考えられる。
そしてその罪と未練とは、「血を浴びること」「血を流すこと」だろう。
・小西行長の遺書
小西行長は関ヶ原の戦いで西軍として参戦し、敗れ、斬首された。
斬首される前に、小西行長は遺書を残している。
この文章は、小西行長が数多くの罪を犯してきたことと、今起きている苦しみはそれらに対する償いであるというように認識している文章だ。
これを読んだうえで松井江の破壊台詞を見てほしい。
この台詞は、小西行長の最期の言葉※と解釈することができないだろうか。
※”刀剣乱舞という作品内における小西行長”の解釈です。
史実における小西行長の最期の心情を想像している訳ではないことをご留意ください。
つまり小西行長は、
「自分が数多くの罪を犯し、その罪を贖う為に血を捧げたが、これで自分の全ての罪が贖えたとは思えない」
と思っていたのではないか。
その小西行長の罪と未練を抱えて顕現したのが松井江であると解釈した。
・松井江の持つ「業」
この台詞で語られているのは、松井江は殺人という罪とその贖罪を繰り返す業を背負っているということ。
つまりこの台詞は、殺人という罪と贖罪という未練を抱えて蘇った小西行長の心が「人を殺め、贖い続ける運命からは逃れられない」と言っているのだろう。
まとめ
・吸血鬼は、死者が生前犯した罪と未練が理由で蘇ったもの
・小西行長は、遺書の内容から罪と未練を抱えていたと想像できる。※
・松井江は、小西行長の罪と未練を抱えて顕現した
以上のことから、松井江が吸血鬼のような見た目をしているのは小西行長の影響であると考える。
※繰り返しになるが、ここで出てくる小西行長は刀剣乱舞という作品内における小西行長である。「刀剣乱舞は小西行長の最期をこうであると設定したので松井江にこういう台詞を与えている」という考察であって、史実における小西行長が遺書に書いてあること以上の何かを抱えていたということを主張したい訳ではないことをご理解いただきたい。
疑問点・予想
小西行長の刀
小西行長が持っていたとされる刀に芦葉江という太刀がある。
松井江は、この刀の影響を受けているのではないだろうか。
根拠としては、松井江のリボンの先に付いている装飾の形状が革先金物に似ていることが挙げられる。
革先金物は太刀の拵に見られるもので、太刀を腰に下げるための太刀緒と刀の鞘をつなぐ足革の先に付けられる装飾だ。当然、打刀である松井江の本体にこの装飾はない。
松井江にこの革先金物に似た装飾がある理由は、太刀の影響を受けているからであると想像できる。
ではどの太刀の影響かというと、小西行長の持ち刀である芦葉江の影響ではないだろうか。
芦葉江は、小西行長の持ち刀であったという話以外に、細川忠興が詠んだ句を元に名前が付けられたという逸話を持っている。小西行長と細川忠興の物語を持つ松井江が、小西行長の持ち刀であり細川忠興由来の名前を持つ芦葉江の影響を受けている可能性は十分に考えられるだろう。
芦葉江は革包太刀拵という豪華な拵えが特徴的だ。
以前、芦葉江の展示を見に行ったのだが、革先金物はもちろん、鍔や鞘などから松井江のデザインを彷彿とさせるものを感じた。
もし刀剣乱舞に芦葉江が実装されたら、松井江と似ている部分があるかもしれない。
正確に言うなら、松井江は芦葉江に似ている部分があるのかもしれない。
前に述べた歌仙兼定とのデザインの類似点と合わせると、
小西行長と細川忠興の要素を多く持つ松井江が、小西行長の刀である芦葉江と細川忠興の刀である歌仙兼定と似た外見を持っている。
という構図が予想できる。
芦葉江はゲーム内では名前すら出ていないので実装されるかどうかも分からないが、もし実装されるなら……と妄想が広がる。
現在、香川県高松市で芦葉江を中心とした名刀の展示をしているそうなので、ぜひ足を運んでみてください。
さいごに
松井江というとキリスト教や島原の乱との関連性が注目されており、私も当初はその視点から考察を進めていたのだが、どうしても「説明できない部分」が多かった。とくに刀帳など、松井江が何の話をしているのか全く理解できずにいた。
なので松井江の考察を続けていくうちに、最終的な目標は「なるべく説明できるようになる」というものになった。
今回「八代城主」という視点から考察を進めたことで、その目標はおおむね達成できたように思う。
八代城主という視点に至ったきっかけは、松井江の「僕は例外だからねぇ」という刀帳の台詞。「例外」というワードから八代城のwikipediaを読み、小西行長の名前が目に入った瞬間に「八代城を築城したのはキリシタンだったのか」という気付きを得たのがこの視点による考察の始まりだった。
八代城主という視点なら、キリスト教や島原の乱どころか、それ以前の「なぜこの地にはこれほどキリシタンがいたのか」という「肥後国のキリシタンの歴史」から知ることができる。
「刀剣乱舞が松井江で伝えたいのはここだ」と確信し、考察を進めることができた。
この八代城主という視点の考察を始めたのは2023年の1月。松井江が実装されて3年と少し経ってやっと別の視点を持てた思うと結構な長さだ。
松井江の極が実装される前にこの記事を公開したかったので、ひとまず公開できて安心している。
この解釈がどれだけ刀剣乱舞の意図しているものに近いのか現時点では全く分からないので、早くそれが分かるような回想が増えてほしい所だ。そのうち極も実装されると思うので、その時が答え合わせになるかもしれない。
ここまで読んでくださった方々も、この記事の中でしっくりきた点や納得いかなかった点が多々あると思う。多くの歴史資料を参考にできたわけではないので、少しでも疑問を抱いた点や不明瞭に感じた点は各々で資料を探して確認してほしい。
もちろんこの記事は私の解釈を正解とするものでもなければ押し付けるものでもない。この記事をきっかけに自分の松井江の解釈を見つめ直したり、今の自分の解釈の方が良いと思えたなら、それはあなたの本丸の松井江にとっても良いことだと思うので、皆様の思う松井江の解釈を大事にしてほしい。
それでは、長々とお付き合いいただきありがとうございました。