見出し画像

怪談「屋上の紐」

Aさんが中学3年生の頃の話だ。

当時のAさんは本人曰く「無気力な帰宅部員」だったという。押し付けられるように生徒会の副会長を務めていたことを除くと、放課後はいつも暇をしていた。

部活に入っていないせいか、特に親しい間柄の友人もいない。そのため、授業間の休み時間にもすることがない。

そんな彼が見つけた癒しの場が、校舎の屋上だった。

屋上へ通じる扉は、いつも施錠されており「安全上の理由」から生徒は立ち入り禁止だった。しかし生徒会副会長であるAさんには、倉庫などを開けるための鍵束が預けられていて、そのなかの1つが屋上の鍵だったという。

「多分、教師は知らなかったんじゃないかな」とAさんは語る。「きっと先代か先々代か……もっと前の生徒会役員がこっそり紛れ込ませたんだと思う」

そうして彼は放課後も、休み時間も、周りの目を盗んでは屋上に上がり、寝転んで空を眺めて過ごした。ふちに近づかなければ下から見られることもないし、唯一の出入り口であるドアさえ気にしておけば、誰かに見つかることはない。屋上は、彼にとって最高の秘密基地だった。


この密かな楽しみを知っている人間が、彼以外にももう1人いた。Aさんの、年の離れたお兄さんである。

「あそこ、開放感あっていいよな。でも、俺が2年に上がる前に閉鎖になっちゃったんだよなぁ」

屋上のことを話すと、お兄さんはそう言って羨ましがったという。ただ、年の離れた兄弟にはよくあることなのだろうか、Aさんに対して少々過保護気味だったお兄さんは、必ずいつも「落ちないように気を付けろよ」と付け加えるのを忘れなかった。


その日も、Aさんは屋上にいた。

放課後だったという。学習塾の時間までの暇つぶしだったか、細かい理由は忘れてしまったが、とにかく屋上で午後の太陽を浴びていた。

心地いい日だった。さんさんと照らす日光が適度に暖かく、離れたところから聞こえる吹奏楽部が練習する音や、野球部の掛け声が耳に心地よい。それが子守歌になったのか、いつの間にか眠ってしまっていた。

目を覚ますと、周囲が薄暗い。

既に日が沈もうとしている時間だった。しまった、と思いながら屋上を後にしようとしたAさんの目が、妙なものを捉えた。

紐だ。

校舎に通ずるドアのノブに、黄色い紐がグルグルに巻き付けられている。紐は、ドアのすぐ横にある排水管とドアノブを固く結び付けていて、ドアを開けられない状態になっていた。

「誰かに悪戯されたに違いない」と咄嗟に思ったという。Aさんが屋上に上がっていく姿を目にした誰かが、こっそり後をつけて、Aさんが寝ているのを目にし、閉じ込めてやろうと紐を結んだのだ。

イライラしながら紐を外そうとするが、これがなかなか外れない。執拗に固く結ばれている紐と格闘しているうちに、先ほど自分が考えた推論がおかしいことに気が付いた。

紐は、こちら側に結ばれている――。

屋上への入り口は、このドア1つだけである。屋上側に紐が結ばれている以上、紐を結んだ誰かも屋上側にいたことになる。ドアは開かないので、当然その人物も校舎側へと戻ることはできない。つまり……

まだ屋上にいる。

ゾッとして周囲を見渡す。夕日に照らされた屋上は、薄暗いが障害物もなく見晴らしは良い。見える限り、誰の姿もない。

それでもいくつか死角があった。ドアの付いた建屋の裏側や、使われていない貯水槽の陰などだ。Aさんは慌てて周囲を駆け回って探した。が、誰もいない。

そうこうしているうちに日はどんどん落ちていき、闇が屋上を支配していった。視界の隅の暗がりに誰かが潜んでいるような気がして、背筋が寒くなる。

とにかく、ここを出よう。その一心で、再度紐と格闘した。見られているような気がして、生きた心地がしない。手汗でなかなかうまくほどけない。

日がどっぷりと沈んだ頃になって、ようやくドアを開けることができた。

同時に、黄色い紐の正体もわかった。

靴紐だ。

より具体的に言えば、Aさんの通う学校指定の、上履きの靴紐だった。妙に薄汚れてはいるが、Aさんの履いている上履きに通っている赤い靴紐とまったく同じ形をしていた。

Aさんの学校では、学年ごとに靴紐の色が決まっている。Aさんの学年は3年間ずっと赤色、1つ下の学年は青色、さらに1つ下は黄色、という按配だった。このルールはずいぶん昔から変わらないようで、Aさんのお兄さんは青い紐の上履きを履いていたのを覚えている。

つまりこの黄色い紐の持ち主は、1年生ということになる。

この事実はAさんをいらだたせた。Aさんに1年生の知り合いはいない。つまり見ず知らずの1年生が、Aさんが屋上に上がるのを見て、一泡吹かせようとしたわけだ。顔も知らないその生徒のことを考えると、無性に腹が立った。そいつがどうやって屋上から逃げ出したかはわからないが、きっとAさんの知らないルートがあるのだろうと自分を納得させた。

おそらく教師に訴えて犯人捜しをすれば、すぐに犯人は見つかるだろう。なんといっても、上履きの靴紐がない1年生を探せばいいわけだ。しかし、Aさんにはそれができない。犯人捜しをすれば、立ち入り禁止の屋上にいた事実を公にすることになる。そのことが、Aさんを一層むしゃくしゃさせた。

仕方なく、お兄さんに愚痴ることにした。

帰宅したAさんがことの顛末を話すと、お兄さんは妙に神妙な顔になった。

「お前、なんで屋上が立ち入り禁止になったか知らないんだっけ」

知らない、と言うとお兄さんは意外そうな顔をして続けた。

「俺と一緒であんまりそういうの気にしないんだろうなぁ、と思ってたけど、そうか知らずにいたのか。俺の1年の冬にさ、3年の先輩が飛び降りたんだよ」

自殺だったという。屋上には、遺書と、揃えた上履きが残っていたそうだ。

「もう一回聞くけど、それって上履きの紐だったんだよな。何色だった?」

Aさんの脳裏に、靴紐のない上履きが屋上にふちに揃えられている光景が浮かんだ。

Aさんはそれから卒業まで、一度も屋上に行かなかった。

(終)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?