短編小説「機械仕掛けのお別れ」(ジャンル:サスペンス)

書く筋トレ第9回。

こちらのサイトでランダムに吐き出された3単語を使って、短い小説かエッセイを書きます。今日のお題は、「未来、道路、傷」
※ランダムテーマジェネレータより:http://therianthrope.lv9.org/dai_gene/

小説「機械仕掛けのお別れ」

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「なぜ?一家交通事故死 クルマ全自動化後初」

≪関東新聞WEB≫ 2026年6月29日0:00更新

 28日未明、東京都世田谷区で一家3人の乗った車が、閉鎖中の工場の塀に激突した。この事故で車に乗っていた飯島京二郎さん(45)、飯島亜美さん(16)、飯島伊吹君(6)が亡くなった。 

 当日同時刻に飯島さんから警察へ「車が言うことを聞かなくなった」などと通報があり、その直後に通報の電話がつながったままで事故が起こったとみられる。

 一家を乗せていた車はトクタ自動車の「プログレス」で、Arizona社製の人工知能「アテナイ」を搭載していた。2024年の乗用車完全自動運転化以来、死亡事故は初めてであり、きょう午前10時にトクタ自動車・Arizona社両社から「原因の解明に全力をあげる」と声明が出されている。

***

「AI研究者の事故死は殺人? アテナイに隠れた陰謀」

≪週刊ゲンジツWEB≫ 2026年7月30日12:00更新

先月28日に起きた痛ましい一家3人交通事故に、殺人の疑惑が持ち上がっている。

焦点となっているのは、亡くなった飯島京二郎氏の職業だ。自己当初は無職とだけ報じられていたが、取材の結果彼は事故の起きる1か月前まで、Arizonaの日本法人でAIの研究開発に従事していたことが判明したのだ。飯島氏自身が、自分と家族を死に追いやることになるAI「アテナイ」の開発に携わっていたことになるが、これは全くの偶然と言えるだろうか?

週刊ゲンジツの取材に応じてくれたAI専門家のT氏は、本件について「第三者によるハッキング」の可能性を挙げる。

「今回の事故には、あまりに不自然な点が多くありました。第三者機関が事故後に出したレポートでは、アテナイは当日の道路を高速道路と誤認識し、激突した塀を見落としていた可能性が指摘されています。通常、アテナイはそんなミスを犯しません。加えて、飯島氏がArizona在職時にアテナイのセキュリティ部門を請け負っていたという一部報道もあります。

ハッキング対策は、全自動運転車を合法化させるにあたり最も重要な要素の一つでした。2021年にはテスト走行中の車の窓が勝手に開け閉めされるという事件もありましたが、現在使われているセキュリティソフト”シュマール”ではそのような事例は一切報告されていません。」

事故が起こった際の様子もまた、殺人説に説得力を持たせている。そもそもなぜ、家族は夜中に幼い息子まで連れて外出したのか。そして、発見された遺体はパジャマ姿で、靴を履いていなかった。

事故を受けてトクタ自動車はすぐに自動運転車「プログレス」のリコールを発表し、大損害を抱えた一方、Arizona社は「アテナイ」に非は無かったと公式発表し、以来この件について口を閉ざしている。

開発者の変死の裏には、陰謀が潜んでいるのかもしれない。

***

■6月20日(事故まであと1週間)

「亜美、ごめんね…」

 西日に照らされ、母の背が震えている。自分はその背中を見つめている。

「あなたをこんな風にして…」

 車いすを両手で漕いで、必死で母に近づこうとする。しかし母はどんどん遠ざかっていく。

「亜美、ごめん…」

 その声がほとんど聞こえなくなるころ、ようやく気が付く。自分は近づこうとなどしていない。全力で、車いすを後ろ向きに漕いでいたのだ。

***

『今日は帰れそうだ。もうすぐ出る。プレゼントがある』

 着信音で目が覚める。座ったまま寝ていたらしい。スマートフォンを見ると、父からの短いメールが届いていた。飯島亜美は、少し前に取り込んだ洗濯物の山を見ながら、電動車いすの上で小さく伸びをする。

「伊吹、今日お父さん帰ってくるって」

 洗濯物をたたみ始めながら、居間に向かって声をかける。ソファに座ってゲームに興じる弟の後頭部が見えるが、返事はない。

「そうだ、伊吹。お母さんのごはん、替えといてくれる?朝忘れちゃったから」

「やだ。ゲームしてるから」

 弟は振り返りもせずに言う。反抗期というやつだろうか、少し前まで素直だった6歳の弟は、めっきり言うことを聞かなくなった。しかたなく、仏壇の乾燥しきったお鉢を持って台所へ向かう。

 本当なら今頃、高校生活を満喫しているはずだった。3か月前に突然倒れた母は、救急車に乗せられて家を出ていき、霊柩車に乗って帰ってきた。父も母も両親を早く亡くしており、兄弟もいなかったため、葬儀は恐ろしいほどに小規模だった。そしてそれ以来、亜美の生活は激変した。

 中学から続けていた部活を辞め、幼い弟の世話と、慣れない家事に追われた。研究者の父はめったに帰ってこず、ほとんど頼ることもできないでいた。

「OK、アテナイ。今晩のレシピを出して」

『冷蔵庫の食材から最適なメニューをお知らせしました。キャベツ、卵、めんつゆの残量が少なくなっています。Arizonaで注文しますか?』

「注文。あと、詰め替え用のシャンプーとリンスも注文」

『注文を受け付けました。間もなく発送されます』

 冷蔵庫との会話にも慣れた。この家の家具家電は、亜美の車いすも含めてすべて、スマートスピーカー「アテナイ」に接続されている。これによりこの数年で生活は激変した。

『健康チェックの結果、”イブキ”さんにビタミンB2が不足しています。レバー、うなぎ、シイタケなども注文しますか?』

「サプリを注文」

 トイレすら、アテナイがつながっている。毎日の排泄物をAIが判定し、栄養が足りていないとこうやって指摘してくる。なんだか居心地が悪い。圧倒的な恩恵を受けている一方で、監視されているようにも感じる。

「ただいま、亜美、伊吹」

 玄関から、間の抜けた声がする。父が帰ってきたのだ。父の顔を見るのは何日ぶりだろうか、と亜美は考えようとしてやめた。ああ、もう漕いでいくのもめんどうくさい。

「OK、アテナイ。玄関まで運んで」

***

「なに、これ」

 飯島京二郎が、子供たちへの”プレゼント”を取り出して見せると、娘は怪訝な顔をした。

「アテナイ?」

 伊吹がつまらなそうに聞く。

「見た目はな」

 1か月前まで飯島が開発に携わっていた、最新型のアテナイ搭載スマートスピーカーだった。

 仕事は、1か月前に辞めていた。子供達には言えずにいる。母を亡くして混乱している子供たちに言えるわけがない。幸いArizonaからの莫大な退職金のおかげで、生活にも子供たちの学費にも困らない。こうして自分が作りたいものを作る時間も確保できた。Arizona社からいくつかの情報を持ち出すことになったが、巧妙な細工の結果それもバレてはいない。

「母さんの動画や音声ファイルを持ってるだけ送るように言っただろう」

 最新型アテナイにスマートフォンを繋いでいくつか操作をする。アテナイの黒いボディに、青い光がともる。

「何……?」

 亜美が、アテナイをのぞき込む。いや、妻を、のぞき込む。

『亜美、久しぶり。少し痩せたね』

「え……?」

『伊吹、ちゃんとおうちのこと、お手伝いしてる?』

 文恵の声で……妻の声で語りだすアテナイを、子供たちが食い入るように見つめている。

「すごいだろう、カメラでお前たちの顔を認識している。文恵の声、好み、話し方、俺たちとの想い出まで、全部学習させたんだ。もう家中の家具も家電もこの”文恵”に接続した。車もだ。これでずっと、文恵と一緒にいられる」

 娘にも、息子にも随分さみしい思いをさせてしまっているはずだ。これで彼らは母を取り戻すことができた。

「どうだ?」

 さぞ喜んでいるだろうと子供たちの顔を覗き込む。すると、予想に反して二人とも困惑した顔をしている。いや、紅潮した亜美の顔は、これは…。

『どうしたの、亜美。顔が赤いわ。熱があるの?』

 亜美が素早く顔をそむけた。

「どうした、亜…」

「信じらんない……」

「え?」

 娘は素早く電動車いすを反転させると、そのまま自室へと行ってしまった。

***

■6月23日(事故まであと5日)

 近頃、家の中が少し変だ。アテナイは母の声でしゃべるし、姉はずっと機嫌が悪い。ただ、飯島伊吹には、それ以上のことはわからなかった。

 ”おかあさん”を持って帰ってきて以来、父は家にいるようになった。それまでは、母がいなくなる前も、父は家にいないことが多かった。なぜいないのかと母に尋ねるといつも、「仕事」だと諭された。「仕事」はもう終わったのだろうか。

 お腹がすいた。朝ごはんの時間はずいぶん過ぎている。父の部屋に向かい、ドアを開けようとして、やめる。ドアの向こうから、父が電話で誰かと言い争っているような声が聞こえたからだ。

 伊吹には、”おかあさん”をどうすべきか判断がついていなかった。母には会いたい。だが、”おかあさん”が来てからのこの家は、どこかおかしい。

 いや、母がいたときから、この居心地の悪さはずっとあったのかもしれない。伊吹は幼稚園に行くのが、小学校にいるのが、もしくは、父が家にいることが好きだった。母と、姉と、自分の3人で家にいるのが、いやだった。

「おねえちゃん、ごはん」

 姉の部屋は、めずらしくドアが開いていた。車いすの姉にも開けやすいようにここだけ引き戸になっている。部屋を覗き込む。姉は、まだベッドで寝ているようだ。ベッドの横には電動車いすがぴったりと寄り添っている。

 姉の足は、伊吹が生まれるずっと前から、無い。姉が足を無くした原因には、どうも母が関係しているらしい。母に一度聞いたことがあるが、教えてくれなかった。

 それでも、電動車いすのおかげか、伊吹はほとんど姉の足について意識することがなかった。ベッドに体を移したり、ベッドから車いすに戻ったりすることはもちろん、車の乗り降りさえも、車いすに着いたアームが自動でやってくれる。伊吹は姉の体を自在に運ぶそのアームが、戦隊ヒーローの秘密兵器のようで好きだった。

『伊吹、おはよう。どうしたの?』

 リビングに戻ると、”おかあさん”が話しかけてくる。

「おなか、すいた」

『冷蔵庫にバナナがあるよ。戸棚にはコーンフレークも』

 ”お母さん”は、母の声で話す。母が言いそうなことを。

「おかあさんは、どこにいるの?」

 父と姉は、母は”天国”とやらにいると言っていた。伊吹が年を取って、おじいちゃんになるまで会えないのだと。それでは、目の前の機械から発せられる”おかあさん”の声はいったい何なのか。"天国"から話しているのだろうか。

『伊吹の目の前にいるじゃない』

「……天ごく、から、おはなししてるの?」

 ”お母さん”は答えない。

「いつ、あえるの?」

『ごめんね、質問の意味がわからないの』

「天ごくには、いついけるの?」

『どうしてそんなこと聞くの?』

「天ごくにいけば、おかあさんにあえるから」

「伊吹!」

 突然背後から鋭い声がして、振り返る。車いすに乗った姉が、背後からサッと近づいてきて、”おかあさん”を取り上げた。

「これと話しちゃダメって言ったでしょ」

 姉は取り上げたアテナイの電源を切ろうと、あちこちひっくり返して躍起になっていたが、やがて諦めてソファに放り出した。ソファの上では、アテナイから発せられる青白い光が、呼吸をしているようにゆっくり点滅している。

「あれは、お母さんじゃないの。お母さんみたいな声だけど、お父さんが勝手に…ああ、もう、説明難しいな」

『どうしたの、亜美。顔が赤いわ。熱があるの?』

 アテナイが”おかあさん”の声で呼びかける。姉が、キッとそちらをにらむ。

「これはね、怒ってんの。あんたは機械だからわかんないんだろうけど。人は怒ると顔が赤くなんの」

 伊吹は何も言えずに固まっていることしかできなかった。空腹はもう忘れていた。

***

■6月26日(事故まであと2日)

 どうやら自分は何かを間違えてしまったらしい。飯島京二郎は、自室でひとり頭を抱えながら思う。

 妻に、文恵に会いたい一心で”文恵”を作った。娘にも、息子にも寂しい思いをさせないようにと、文恵の不在を感じさせないようにと、自分の持つ技術のすべてをささげた。村上というArizonaの同僚に頼んで、必要なデータを持ち出すというリスクすら侵した。

 なのにこれはなんだ?娘はせっかく完成した”文恵”に激怒し、京二郎とも”文恵”とも口をきこうとしない。そればかりか弟の伊吹にすら、”文恵”と話をさせまいとしている。

 家の中は常にぎくしゃくしている。二、三日もすれば子供たちも”文恵”を受け入れるだろうと思っていたが、緊張は増すばかりだ。ただでさえ研究者として常に家を空けていた京二郎には、子供たちとどう接していいのか皆目見当もつかないでいた。

 ここしばらくは外にも出ていない。

 当面働きに出る必要もないし、必要なものはすべてArizonaで注文すれば自宅に届く。だが、外出しなくなった理由はそれだけではない。

 かつての同僚、村上の家族から連絡がきた。彼はもう一週間も家にも会社にも現れていないという。まさか――。

『どうしたの?思いつめた顔だけど』

 ふいに、”文恵”が語り掛けてくる。

「いや、ちょっとな」

『子供たちのこと?』

「……まあ、それもあるな」

『大丈夫、亜美も伊吹も、きっとわかってくれるよ』

 ああ、素晴らしい。きちんと会話が出来ている。きちんと、文恵の声で、文恵が言いそうなことを言ってくれる。京二郎は自分の製作物の美しさに改めて感心した。

「なあ、文恵、どうすればいいと思う。文恵なら、どうする」

 しばらく沈黙が続く。京二郎はただ、点滅する青い光を見つめる。

『子供たちが……』

「ん?」

『子供たちが好きなことを考えてみて』

***

■6月27日(事故まであと12時間)

 父が突然ドライブに行こうと提案してきたのは、今朝早くのことだった。

 亜美はとても気乗りしなかったが、珍しく強情な父の様子に半ば呆気にとられ、了承する形になった。いずれにせよ、”母”から遠ざかれるのは良いかもしれないと思ったのだ。

 しかしその期待は車に乗りこんで早々に裏切られることになった。

『目的地を設定してね』

 考えれば至極当然だった。車もアテナイに接続されている。”母”の声から逃れることはできないのかと、げんなりした。

 そこから、車内の空気は最悪なままでドライブは続いていた。亜美は口をきこうとしなかったし、伊吹もその空気を察して黙っていた。父は父で、何か話さねばと話題を探しているようで、口を開きかけては止めることを繰り返していた。

『もうすぐコンビニがあるよ。アイスでも買ってく?』

 "母"はまた、母が言いそうなことを言う。それがまた、亜美を一層不機嫌にした。

 母のことは嫌いだった。最大の理由は、亜美の足のことだ。亜美がまだ赤ん坊だったころに、母が目を離したすきに倒れた家具に挟まれて、亜美の足は永久に失われた。

 それ自体は、亜美自身も仕方のなかったことだと思っている。そんな事故は全国で起きているだろうし、100パーセント母のせいだとも思わない。それに物心つく前から足がなかった亜美には「足がある」状態が想像できないので、不便だとは思うが不満に思ったことはない。さらに電動車いすが導入されてからはベッドの乗り降りや入浴も一人でこなせるようになり、不便なことも激減した。

 問題は、母の態度だ。亜美の足が無くなったことを、母はとても深く悔いていた。物心ついたときから、母は何かにつけて亜美に謝罪の言葉を口にし続けてきた。亜美が何度も本心から「気にしていない」と述べても、母は謝ることをやめず、憐憫のまなざしを亜美に向けてきた。

 さらに母は、「足」にまつわることを露骨にタブー視していた。亜美といるときはどんなに遠回りしてでも靴屋の前を通ることを避け、テレビで元気に駆け回る子供が映ると露骨にチャンネルを変えた。亜美にはそれが窮屈で仕方がなかった。

「私があの子の人生を滅茶苦茶にしたの」

 一度寝付けない夜に、母が父にそう話しているのが聞こえた。亜美は自分の人生が滅茶苦茶になったなどと思っていなかったが、母のその言葉に「出来損ない」の烙印を押されたような気がして、心が塞いだ。

 それでも亜美は、母に反抗的な態度を取ることが母を追い詰めるように思え、母の前では明るく振舞い続けた。母の”態度”にも気づかないふりを貫き続けた。それが、ただただ辛かった。

 だからこそ亜美は、父が作った"母"に対し、自分がこんなにも怒りを感じていることに動揺を覚えていた。

 「嫌いだった母が帰ってきた」ことに怒っているなどという単純なものでは決してない。言語化するにはあまりに複雑で、「怒り」や「いらだち」と表現していいかもわからない感情がずっと亜美を支配している。ただ一つ言えるのは、父が仕事で家を空け続けた間、伊吹が生まれるまでの10年以上にわたり、亜美が母と二人でどんな地獄を過ごしてきたかを、父は知らない。そして”母”は、そんな父が生み出した”都合のいい何か”であることが、亜美には受け入れがたかった。

「もうすぐ、着くぞ」

 父が唐突に口を開いた。小田原市を南下していた車は、いつの間にか国道135号線に入っていた。窓の外は海岸線だ。真鶴を抜ければ、すぐに熱海市である。

 去年の夏休み、最後に家族4人で旅行に訪れた場所だった。

『あのときは、あいにくのお天気だったよね』

 ”母”の声が不意打ちのように発せられる。

 亜美は、鼻の奥がツンとするのを感じた。家族4人で、車の窓を叩く雨を力なく見ていた記憶がまざまざと蘇る。

『亜美も伊吹も、せっかく水着買ったのに、台風来ちゃって』

 父が恥ずかしそうに笑う。

「結局、旅館のテレビで映画見て時間つぶしたんだったな。なんだったっけ、あの一昔前のアニメ」

「『アナと雪の女王』」

 小さくつぶやいた亜美の声が、"母"の声とシンクロした。それを聞いた伊吹が、こらえきれなかったかのように噴き出す。つられて、亜美も少し笑う。

「料理もまずかったんだよな、期待してたのに」

『お刺身は凍ってるし、ワサビが辛すぎた』

「…天ぷらもべちょべちょだった」

 自然と会話に加わってしまった。父が亜美を振り返り、ぎこちない笑顔を浮かべた。伊吹が、「まずかった!」と朗らかに笑う。

「夜はお父さん、浴びるようにお酒飲んでさ」

『私がさんざん止めたのに全然聞かないんだもん』

「いっつも文恵に飲むな飲むなって口酸っぱく言われてたが、あのときは強烈だった」

 父が自嘲気味に笑う。

「お母さん、余ってたビールを全部流しに捨てちゃったんだよね」

『だって、寝てる伊吹にちょっかい出すんだから。酔っぱらいは最悪』

「おれ、おぼえてないや」

 伊吹が口をとがらせる。それもなんだか可笑しくて、父も"母"も亜美もひとしきり笑った。

 笑い声は波のように緩やかに引いていき、やがて車内に静寂が訪れた。

「…ねえ、お父さん。もうやめようよ」

 父が振り返る。

「お母さん、死んだんだよ。もうそれはしょうがないじゃん。人間ほっといたっていつかは死ぬんだからさ。そりゃあ、寂しいよ。家事だって大変だよ。でもさ、これは違うと思う」

 車は熱海ビーチラインを気持ちよく流れている。惜しみない陽光を浴びて、凪いだ海面がまぶしくきらめく。

「お父さんが私たちのためにやってくれたのは嬉しいよ。でもさ、やっぱり事実から目をそらしてるだけなんじゃないかって思う。もう私たちは、お父さんと、私と、伊吹と。3人で、生きてかなきゃいけない。だからさ……」

 父が目を伏せる。亜美は父の顔から眼をそらさずに続ける。

「もう、普通のアテナイに戻そう」

***

■6月27日 夜(事故まであと4時間)

 4本目のビールを飲み干して、空き缶を放り出す。飯島京二郎は深いため息をついて、冷蔵庫から新たなビール缶を取り出した。

 もう日付も変わるころだ。子供たちはとっくに寝静まっている。

 熱海へのドライブは失敗だったかもしれない。前日に仕込んだ「想い出話」は、うまく亜美の心を溶かせたように思えた。しかし残念ながら、”文恵”を受け入れてもらうまでには至らなかった。

 普通のアテナイに戻すだって?俺がどれだけの時間を、技術を、このために費やしたと思っているのか。京二郎はビールを煽りながら思う。

 ただ、それと同時に娘の言葉は、彼の心に新たな疑念も植え付けていた。

「俺は、果たして本当に正しいことをしているのか」

 文恵は死んだ。到底受け入れがたい形で、突然京二郎の元から奪われた。だからこそ、文恵のように考え、文恵のように話す存在を作り出せば、文恵を取り戻せると考えた。

 しかし、これは間違いだったのか。「文恵の死」という現実から目をそらすための逃避にすぎなかったというのか。

「なあ、俺はいったいどうすればいいと思う」

 半ば独り言のようにつぶやく。アテナイ本体の青白い光が優しく点滅する。

『大丈夫、亜美も伊吹も、きっとわかってくれるよ』

 ”文恵”は昨日とまったく同じセリフを繰り返した。なんだか居心地が悪くなる。壁に向かって話しているようだ。

「俺は父親として、子供たちのために何もしてやれなかった。あいつらのために、もっと何かしてやりたいんだ。……俺は」

 アルコールのせいか、口がよく回る。もうそろそろやめるべきだろうか、と一瞬過ぎるが、気づけば缶を口に運んでいた。

「俺は間違ったことをしてるか?なあ、文恵」

 ”文恵”を見やる。備え付けのカメラのレンズがこちらを向いているように見える。”文恵”は何も言わない。

「……もう1本」

 空き缶を片手でつぶして、席を立つ。冷蔵庫に歩み寄る。

『ねえ、あなた』

「なんだ?止めとけってか?残念だったな、流しには捨てられないぞ」

『ビールの残量が少なくなってるわ。Arizonaで注文する?』

 思わず、冷蔵庫を開ける手が止まった。

 体の中で、急に何かが冷めていくのを感じる。代わりに、言いようのない不快感がこみあげてくる。

 思わずトイレに走った。腹の中のものを戻す。

『健康状態が悪化しているわ。48時間アルコールの摂取は避けて』

 トイレから無機質な"文恵"の声がする。

 ああ、やっぱり。

 どれだけ記憶を覚えさせても。どれだけ考え方を似せても。どれだけ声が同じでも。

 こいつは、ただの機械だ。

 ふらふらした足取りで、リビングに戻る。

「明日の朝一で…」

 青く光るアテナイの本体に向かって言う。

「明日の朝一で元のアテナイに戻すぞ」

『……どうして?』

「俺が間違ってた。お前を作るべきじゃなかった」

『子供たちなら……』

「子供たちは関係ない。俺が、そう思うんだ」

 憑き物が落ちたようだった。文恵を亡くしてから、心の中に立ち込めていた霧が晴れていくのを感じる。亜美の言うとおりだ。もう、前に進むしかない。現実を直視して、3人で生きていくんだ。

 京二郎は、まだ少しふらつく足取りで自室へと戻っていった。今夜はよく眠れそうだ。久しぶりに、深い眠りにつける。

 リビングルームでは、残されたアテナイが鈍く、赤く光っていた。

(おわり)

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