「ゲルハルト・リヒター」に行ってきました・
豊田市美術館で開催中の企画展「ゲルハルト・リヒター」に行ってきました。
東京で観た人たちの感想が流れてきて、行けてよかった、と皆さんが書いていたので、行っておきたくて。
電車で行ったので、こちらから入館しました。
一部を除いて撮影可能です。でも、きりがなくなるので、私はほとんど撮っていません。
私が行ったのは、月曜日の祝日の、次の火曜日。
月曜日のうちに、豊田市美術館の公式ツイッターで、明日は開館しているとの情報が流れてきたので。
会期終了間近は混む、絶対あのとき行けばよかった、と思う、行くしかない、と思って行ってきました。
その状況、かつ、着いたら昼で、観客はまばら。
なのでこのような写真も、他のお客様を入れることなく撮ることができました。
それまでまったく彼のことを知らなかった私の知識のなさと語彙力のなさで、どう感想を書いたらいいかわからないのですが、そんな私が、圧倒されて帰ってきました。近づいたり離れたり、もう一度戻ったりして堪能。
どうしてこんなことを思いつくんだろう、頭の中はどうなっているんだろう、と思いながら数々の作品を見て回ったのですが、いちばん衝撃を受けたのは、「ビルケナウ」でした。
引用記事の中にもあるように、ひとつの展示室がまるごとその作品で占められています。正直に言うと、かなりきついです。戦争の話だとか、犯罪のルポタージュだとか、目を背けてはいけないと思いつつ、私自身の精神が病みそうになるので、目にすることが困難なのですが、こちらは、その空間にいるしかない状態になります。もちろんそこだけ通り抜けることも可能ではあります。が、しかし。
展示空間が明るかったのが、せめてもの救いかもしれないです。それでもかなりきつかったです。でも目を離せない。怖い、つらい、でもその心の叫びが聞こえてきました。自分とは切り離せないものとして、向き合って作品にしたゲルハルト・リヒターの思いが、痛いほど伝わってきました。元となった出来事と写真については、言うに及びません。
展示のしかたにも、ヒリヒリしました。油彩と写真バージョンを向き合わせたこと、元の写真と鏡を向き合わせたこと。私が行った時は、私と、いてもあと1人2人だったのですが、混雑しているときに、この空間に大勢の人がいる状況を想像したら、まったく違う観え方になると思いました。そして、それは、私をゾッとさせるのに充分でした。
ゾッとしているだけではだめで、では私に何ができるのか、何を考えてどう行動に移せばいいのか。
もともと美術館等へは1人で行くのが好きなのですが、これはほんとうに1人で行ってよかったです。車でなく電車で行ったのも正解でした。観終わったあとも、頭の中でずっとぐるぐるぐるぐる考えてしまって、どっと疲れました。疲れて終われる私は幸せな場所にいるということを実感しつつ、実感しているだけでいいのか、と自分自身に問いかけつつ。
今回の展示でとてもよかったのは、展示室の最初に、豊田市美術館発行の小冊子が置かれていたことでした。もちろん、持ち帰れるように。
作品リストはよくありますが、こちらの冊子には、会場マップと、「リヒター作品を読み解くためのキーワード」が書かれていて、展示室の真ん中でこちらを読んでから作品をじっくり観る、ということができました。文字を読んでいるときに、作品を観たい人の邪魔をしているかも、という不安が解消されて、とてもよかったです。観終わった作品について振り返るためにも、あって助かりました。
「鏡、血のような赤」に映り込んだ私が持っているのが、それです。
個人的には、心身ともに体力があるときに行ったほうがいいと思います。
私は、眠いけれど、今しかない、と思って行って、目と、特に頭が疲れました。帰りの電車の中で爆睡して、乗り過ごしそうになりました。それでも、あのとき行ってよかった、と思うので、逃すくらいなら、行っておいたほうがいいと思います。
いまだに心の中に、ずどん、と鉛のようなものが落ちています。
「ゲルハルト・リヒター」は、豊田市美術館で、1月29日まで。