月の下には不安が眠っている。

『月の下には不安が眠っている!』
そう一緒に飲んだフラフラの男は信じて欲しそうであった。『何故って、真っ暗な夜空にあんなに明るいわけなじゃないか。俺はあの明るさが目障りで、この二三日眠れなかったんだ。しかしいまにわかるよ。月の下には不安が眠ってる。言いたいことはそれだけだ。』

 どうして俺が毎晩家へ帰って来る道で、俺の部屋の数ある道具のうちの、よりによってちっぽけな薄っぺらいもの、お気に入りのペンを使うためにあるノートの一枚が、Wikipediaのようにすぐわかるのか――おまえはそれがわからないと言ったが――そして俺にもやはりそれがわからないのだが――それもこれもやっぱり同じようなことにちがいない。

 しかしどんな夜でも、いわゆる深夜になるあたりには、その澄んだ空気のなかへ一層妖艶な光を届けるのだ。『それは…。』と言ってさっきまで回ってた舌が完全に止まり寝息をたて、また、ここまで話して上手くやってやったと夢を見ているように、(これはもう帰らなくてはな。)と帰路に立たせるものだ。それは俺を激励する、不快な、生き生きとした、言葉だ。

 俺は彼を担いだ。とても息が臭い。

 しかし、昨日、一昨日、俺の心をひどく陰気にしたものがそれなのだ。俺にはその言葉の優しさがなにか信じられないもののような気がした。俺はすぐに不安になり、憂鬱になり、空虚な気持になった。しかし、俺はいまやっとわかった。
「お前、煌々と光輝く月の下へ、不安を抱えた俺みたいなのが歩いてると想像してみるがいい。何が俺をそんなに不安にしていたかがお前には納得がいくだろう。」
 馬車のような人間、愛嬌を振りまく人間、そして人間になりたい人間、人間はみなちょっとしたことで生きる気力がなくなり、堪まらなく悲しい。それでいてなんでもないような顔をしてそこら辺を歩いてる。月の光を恰好の餌食を見つけたイカのように、それを捕食し、ウニの足のような動きで、俺たちを追いかける。
 何があんな光を作り、何があんな筋を作っているのか、俺はレーザーのような水晶を通したような光が、静かな時を止めて、人混みの中から一人、UFOのよう連れてゆくのが見えるようだ。
「お前は何をそう苦しそうな顔をしているのだ。正しい人格コントロールじゃないか。俺はいまようやく瞳を据えて月光が見られるようになったのだ。昨日、一昨日、俺を不安がらせた明かりから自由になったのだ。」
 二三日前、俺は、ここの飲み屋街へ赴き、飲み屋を梯子歩きしていた。その喧騒からは、あちらからもこちらからも、遠波が桑田佳祐のように寄せて来て、港のテトラポットをめがけて打ち上がって。
「お前も…ふぅ…重いな…。知っているとおり、俺はそろそろ美しい結婚をするのだ。」
 しばらく歩いていると、俺は変なものに出喰した。それは波が乾いた車止めへ、水溜を残している、その塩水のなかだった。そこへ石油を流したような虹色が、一面に浮いているのだ。
「お前…ふふ…はそれを何だったと思う。はは、それは何滴とも数の知れない、絵の具だったのだ。隙間なく水の面を被っている、彼らのかさなりあった色が、光に通らないほど濁って流しているのだ。そこが、ある絵描きの不安だったのだと思った。
 俺はそれを見たとき、胸に穴が空いた気がした。誰かの不幸話を聞いて酒を飲む異端者のような残念なよろこびを俺は味わった。あぁ…。」
 この帰路ではなにも俺をよろこばすものはない。もう彼は体の全ての体重を俺の体に預けて、真っ青な顔して、すっかり寝ている。ただそれだけでは、もうろうとした頭に過ぎない。俺には不安が必要なんだ。その平衡があって、はじめて俺の人格は明確になって来る。俺の心は吸血鬼のように憂鬱に渇いている。俺の心に憂鬱が完成するときにばかり、俺の心は和なごんでくる。
「おまえ、腋の下に汗をかいてるな。冷汗が出るのか。それは俺も同じことだ。何もそれを不快がることはない。べたべたとまるで、ふふ、俺たちのようだと思ってごらん。それで俺達の憂鬱は完成するのだ。」
『ああ…月の下には不安が眠っている…!』
 急に起きたその男はそれだけを言うとそのまままた軽さを無くした。今はもういつのまにか彼のことが愛しくてたまらなくなっていて、どんなに頭を振っても酔いしか回らなかった。
 これから俺は彼を担いでラブホテルに行く。今こそ俺たちは、あの月の下で手を繋ぐ恋人たちと同じ権利で、いつか月見の酒が呑めていたような気がする。

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