あなたと私

 ある一軒家に、仕事が大好き!今日も今日の仕事のことが頭から離れない者と、今日は今日!一切の全てを過去にする者が一緒に住んでいた。仕事が好きな方は、「明日なになにのどこどこの人と商談がうんたらかんたら。」と、宣う一方で、「明日は、ちょっと…疲れたし休む。」という様子であった。

 さてここで、『兎と亀』を思い出して欲しい。兎は亀には勝てなかったのだ。あれは、おそらく『亀でも努力すれば勝てる』ことが教訓であったろうが、この話はまたちょっと違う。
 兎は、自身に自信があり(駄洒落ではない)、自分はもっと上に行けると思っている。亀は、自分ができる一生懸命をし、なんなら、その兎をば、身を捧げて助けたいと思っている様子であった。実を言えば、その2匹は、均衡を保ち、シーソーのようにふらふらはせど、お互いにとって不満はなかった。
 いやむしろ、お互いがお互いを羨ましいとさえ思っていただろう。2匹が生きていく中では『自由に生きる』ことが目標であり、でも、『普通でありたい』と思う、そのエネルギーによって構成されているのだ。
 そういえば、かけっこなどやってはいなかったのだ。兎は走るのが得意かも知れないが、亀だって早く走ることはできる。ただ、四肢の違いや、また、その性質により違う。ドッグレースや、競馬は、同じ者で競わなくてはならない。ましてや、オリンピックにチーターが100mに出ようものなら、誰一人して勝つ事はできないのだから。
「今日は、暑くて寒いね。」
 と、いう隣では、
「今日は暑いだろう。」
 と、返すものもいる。
 水田一碧とはならないのだ。水平線と空は、やや距離がある。しかしながら、お互いを羨望の目で見るのは仕方がない。暑いものを寒いと感じれるのと同意だ。
 一方で、では亀は何をしているかというと、頼まれてもいないのに、洗濯をする。それを兎が着るのだ。頼まれてもいないのに、掃除をする。そこに兎は住まうのだ。頼まれてもいないのに、兎の愚痴を聞く。居た堪れず、その話に対して大して(駄洒落ではない)返答もできないが、「うんうん。」と聞くことが出来る。
 そう、兎は亀によって走らせてもらっている。それは、信仰に近い。足が速い事は、種別をもって明らかだが、兎が速く、または、真っ直ぐに走る事はわからないではないか。
 結果を話そう。亀がこの『かけっこ』に勝つのだ。兎が余裕を見せ休んだせいだが、今回の話にそれは出てこない。
 休んだつもりはないのだ。だが、限界は来るのだ。限界がくると、兎は亀のところに戻る。なぜなら、亀に話を聞いて欲しいからだ。そして、亀は兎を慰める。
「不安なんだ。」
「でも、できない事だよ。」
「そうなのかな。」
「きっとそう。」
 この言葉を聞いて、兎は走り出すが、目の前には、やはり、亀がいた。追い越せない。ここまで来たのと、やはり、亀が引っ張ってきたのだから。
 目の前にゴールテープ。それは亀によって千切られた。その時、安堵した。兎は、この先にゴールテープが無いことに安堵した。それはきっと、すべからく、目標にしていたものに違いないのに、亀が通り過ぎてからは、ただの通過点であったのだ。依存だ。兎は亀に引っ張られてなお、いまこの状況で駆けていたいと思っているのだ。ゴールテープがまるでスタートラインだ。
 
 さて、彼女は僕をどこまで連れて行くつもりだろうか。

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