見出し画像

推理する者の責任

 2024年も早いもので8月を迎えた。学生たちは夏休みを迎え、朝の電車も少し空くかと思いきや、部活に向かうユニフォーム姿が目立つようになったものの、思ったほど空いてはいない。職場は冷房が効いており、夏を感じるのは通勤時間と外歩きだけというのでは、あまりにも虚しい社会人になってしまう。だからこそ、夏ならば夏が舞台の小説を読みたくなる。例えば『真夏の方程式』は、ここ数年、夏になる度に読み返している。

 『真夏の方程式』は東野圭吾の推理小説、ガリレオシリーズの長編第3作目にあたる作品である。夏休みを親戚の営む旅館で過ごすことになった少年恭平は、美しい海を持つ町である玻璃ヶ浦へ向かう列車の中で、海底資源開発のアドバイザーとして招かれた物理学者の湯川と出会う。彼らは同じ旅館に宿泊することになるのだが、その日の夜に宿泊客の1人である塚原が姿を消し、翌朝に海岸沿いで遺体で発見される。地元警察は当初は単なる事故の可能性が高いとしていたが、死亡した塚原は警視庁捜査一課の元刑事であることが明らかになる。捜査一課の草薙刑事は、その死に疑問を抱く上司からの指示を受けて、友人である湯川と連絡を取りながら捜査を進めて行くことになる。そして、塚原元刑事が過去に担当した事件の被疑者、そして旅館を経営する一家はいずれも玻璃ヶ浦とつながりがあることが判明する。事件の真相に迫る中で、湯川はこの事件によって「ある人物の人生が捻じ曲げられる」可能性があることに気づいてしまうというのが大まかな流れである。

 前回の記事で、事件は日常のすれ違いが引き起こすものだと書いた。そして、推理によって事件の真相を解明しようとする行為は、必然的に他人の日常、ひいてはその先の人生に干渉する行為となりうる。それは、推理する者とされる者の間に緊張感を生み、誤解や認識のすれ違いを生じさせる可能性が高い。つまり、ある事件を推理をすることは、場合によってはもう1つ事件を起こすのと同じくらいリスクを伴う行為であるともいえるだろう。
 例えば、ある人物が行方不明になったという事件が発生したとする。探偵は依頼主からの要望でその人物の行方を捜索することになる。探偵の名推理により、当該人物を無事発見することができた。めでたしめでたし、とは必ずしもいかない。もし、行方不明になっていた人物は依頼主には明かせない重大な秘密を抱えてていて、なんとか隠し続けていたのに見つかってしまったという場合、探偵は善意で見つけたつもりであっても、当該人物からは敵とみなされ、危害を加えられる可能性もある。

 これまでのガリレオシリーズの事件では、湯川はあくまでも警察から捜査協力を依頼されて事件解決に協力する立場であった。彼はあくまで事件のトリックを科学的・論理的に推理することが興味の対象であり、事件の関係者がどう扱われるのかは警察の領分であった。しかし、今回の事件については、草薙から捜査協力の要請を受ける前に湯川は動き出していた。かつては子どもを「論理的ではない」と嫌っていた湯川であったが、今回の事件の真相については恭平少年に対しても子供だからと隠したりせず、彼が理解できるような形で伝えた。科学は万人にとって平等だ。例えば、同じ条件で打ち上げられたペットボトルロケットは同じ運動エネルギーを持つ。それを発射したのが大人であっても子供であっても結果は同じになるはずだ。そういう観点で見れば、湯川が恭平少年に対して真実を伝えようとしたのは、科学者として当然のことだったのだろう。
 最終的にこの事件の真相に辿り着いた湯川は「すべてを知ったうえで自分の進むべき道を選べばいい」そして「その結論を急いで出す必要はなく、答えが出せるまで一緒に悩み続けよう」と恭平少年に語った。多くの大人は「そんな難しいことは知らなかったんだから、君は悪くない」と安易に慰めそうだが、湯川はそうはしなかった。真実から目を逸らすことが何の解決にもならないことは彼らも理解していたに違いない。彼らは玻璃ヶ浦の同じ宿で過ごす間、共に語り、時には実験をしながら科学を通じてつながることができた。それはつまり彼らは「日常」を共有したことになる。事件が起こった日以降、恭平少年にとって自分がしたことを悩み続けることが日常になった。そしてそれは彼が玻璃ヶ浦を離れた後もずっと続くことになる。それに対して湯川が「一緒に悩み続けよう」と述べたことは、彼の日常に寄り添い続けるという意思を示したと考えられる。

 日常のすれ違いが事件を引き起こすのならば、その傷を癒すことができるのは、誰かがその人の日常に寄り添い続けようとすることではないだろうか。そのためには、他人の日常、つまり自分ではないものを自分の脳で扱う推理の力が必要になってくる。探偵はあくまでも一市民であり、警察官でも検察官でも裁判官でもない。被疑者を逮捕し、その行為がどのような罪にあたるのかを判断し、どのような判決を下すのかはそれぞれの専門家の仕事である。しかし、探偵にも自分が明らかにした真実を伝えることはできる。たとえ自分が行った行為が法的には罪に問われないとしても、人は悩み苦しみ続ける。そんな時、自分以外にも真実を知っている人がいて、共に悩み続けてくれる人がいてくれることは、その人のその後の日常、あるいは人生にとってどれほど心強いことだろう。真実を平等に伝えること。そして、時には共に悩みづけること。それこそが誰かの日常をを守ることにつながるのであり、推理する者にとっての責任なのではないだろうか。


いいなと思ったら応援しよう!