宮沢賢治と2つの鉄道 そして再挑戦
1月上旬、僕ははやぶさ101号に乗って時速320kmで北へ向かっていた。目指すのは岩手県。今回の旅行は5年越しの再挑戦でもあり、新たな旅でもあった。
前日譚
話は2020年の3月下旬に遡る。東日本大震災以来一部不通となっていたJR山田線が三陸鉄道として2019年3月に全線で運転を再開した。僕は以前から三陸鉄道に乗りたいと思っていたのだが、同年10月の台風の影響により、一部区間が再び不通になってしまった。そして2020年3月20日、再び全線で運転を再開するのに合わせて、三陸鉄道を全線乗車するという旅行を計画していた。当時の計画では東北新幹線で八戸駅まで進み、八戸線で三陸鉄道の北端である久慈駅へ向かって釜石駅まで三陸鉄道に乗車して釜石で1泊。翌日は釜石駅から南端の盛駅まで再び三陸鉄道に乗車した後、JR線を乗り継いで仙台方面へ向かい、同じく3月に運転を再開した常磐線に乗車して関東に戻ってくる想定だった。
しかし、旅行開始日から北日本に強力な低気圧が接近し天候が悪化した。東北新幹線は強風で遅延し、八戸駅にようやくたどり着いたと思ったら、沿岸部を走る八戸線は運休。宿を予約している釜石まで向かうまでにはどうしたらよいか考えた結果、何とか動いている在来線で岩手県の内陸部を経由して花巻駅まで向かい、そこから釜石線を経由して沿岸部の釜石まで抜けるルートを行くことにした。しかし、このルートも釜石線の途中駅である遠野駅で列車が運休になってしまい、最終的には代行バスで釜石までなんとか到達するという結果になった。翌日、三陸鉄道は運転をしていたが、今から全線を乗り通すことは日程的に厳しく、三陸鉄道に少しでも長く乗るために釜石駅から三陸鉄道で北上し久慈駅方面へ向かった。そのため、釜石駅の遠野駅から釜石駅と三陸鉄道の釜石駅から盛駅が未乗車区間となっていた。
新花巻周辺
前置きが長くなってしまったが、こうした経緯もありつつ、新たな目的地として花巻市と遠野市を加えて今回の2泊3日の旅行のルートは決まった。
まずは、新花巻駅で途中下車する。新花巻駅は花巻市の中心から少し外れた位置にある駅で、釜石線との乗換駅でもある。駅の待合室兼観光案内所は花巻にゆかりのある宮沢賢治と大谷翔平の展示物がたくさん飾られていた。
駅舎の外に出ると積雪はあるものの天気は落ち着いていたので、宮沢賢治記念館まで徒歩で向かうことにした。記念館までは駅から2kmほどで、一定の距離ごとに宮沢賢治の作品をモチーフにしたオブジェのようなものが設置されているので、それをたどれば迷うことなく行くことができた。
そうして進むと最後に300段近い階段があり、それを登り終えるとようやく宮沢賢治記念館へと到着する。記念館には宮沢賢治の作品の世界観を知るための展示や、賢治が愛用していた私物などが展示されていた。賢治は岩手県をモチーフにしたイーハトーブを理想郷とし、そこに暮らす人々や心象風景から数々の作品を生み出した。賢治も利用していた岩手軽便鉄道の写真や作中に名前がでてくる鉱物も展示されていた。賢治の作品には様々な用語がでてくるので、一度展示を見ておくと賢治の作品を読んだときに理解が深まるような気がした。
新花巻駅へ戻り、駅の食堂でリアスラーメンを食べた。リアスラーメンはワカメとメカブが入った醤油味で、あっさりとしていて美味しかった。昼食を食べた後は釜石線で花巻駅へと向かう。大きな新幹線ホームの下の不釣り合いなほど小さなホームに2両編成のディーゼルカーがやってきた。ここから花巻駅までの間だけはSuicaが使えるようになっていた。
賢治と2つの鉄道(岩手軽便鉄道1)
新花巻駅からは似内駅を通過し、10分ほどで列車は花巻駅に到着した。花巻駅に来たのは5年ぶりだった。前回は乗り継ぎに使ったたけだったので、今回は宮沢賢治や花巻周辺の鉄道ゆかりの地を中心に市街地を散策することにした。
まずは、岩手軽便鉄道の跡地をめぐる。岩手軽便鉄道は花巻駅の東側から延びていた路線で、現在の釜石線の前身にあたる路線である。そのため、基本的には現在の釜石線と同じルートをたどっているのだが、花巻駅から似内駅の間はルートが大きく異なっていた。そもそも軽便鉄道とは一般的な鉄道よりも簡易な規格で建設された鉄道である。そのため、急勾配や急曲線が多く、軌間(レールの間隔)もJR線の1067mmより狭く、多くは762mmのため、小さな機関車や客車で運行していた。
岩手軽便鉄道は1915年(大正4年)に花巻から仙人峠までの区間が開業した。軽便鉄道時代には花巻市の市街地の中心部に近いルートを走っており、花巻駅と似内駅の間には鳥谷ヶ崎駅という駅があった。鳥谷ヶ崎駅周辺には賢治が2年間教鞭を執った稗貫農学校や花巻高等女学校、稗貫郡の役所などがあり多くの人で賑わっていたようで、賢治の詩「岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)」にその光景がよまれている。
軽便鉄道の跡をたどってさらに5分ほど歩くと、街を見下ろす高台に花巻城の跡がある。跡地には賢治の母校である花巻小学校や武徳殿という武道館のような施設がある。
さらに歩いてゆくと瀬川の鉄橋跡と書かれた石碑がある。当時は写真の方向に向かって鉄橋が架けられていたようだが、瀬川そのものの場所が切り替えられてしまったこともあり、現在ではその面影はほとんど残っていない。賢治の初期の作品で、稗貫農学校付近から小舟渡方面へ歩いた風景が書かれた「山地の稜」に瀬川鉄橋を渡る様子が登場している。
賢治と2つの鉄道(花巻電鉄)
軽便鉄道の跡をたどって花巻駅の近くまで戻る。実は花巻駅からは花巻電鉄という別の鉄道が運行されていた。電鉄という名の通り、花巻の中心部と東側にある花巻温泉や西鉛温泉など周辺の温泉地を結んでいた電車であるが、1972年に廃止された。花巻電鉄と岩手軽便鉄道は軌間が共に762mmであったため、花巻電鉄は東北本線を乗り越えて東側にある岩手軽便鉄道の中央花巻駅に乗り入れていた。現在の花巻駅付近にはその痕跡はほとんど見られなかったが、東北本線の線路沿いにはかつての花巻電鉄の電柱を思わせるようなオブジェが並んでおり、遠くには跨線橋が見えた。
このまま駅に戻るよりも、奥に見える跨線橋を渡った方が早く線路の向こう側へ行けそうな気がしたので、跨線橋を渡ることにした。跨線橋の上からは花巻駅と東北本線の線路が良く見える。中央花巻駅は、眼下に見える東北本線の複線化、電化の際に線路を超えることが困難となり、1965年に廃止されてしまった。
反対側へ渡ってしばらく歩くと材木町公園がある。この公園には当時花巻電鉄で運行されていたデハ3電車が保存されている。この電車は「馬面電車」ともよばれており、その横幅は1600mmで、向かい合った旅客どうしで足が触れ合う程の狭さだった。花巻電鉄は賢治も学生時代の地質調査や家族が鉛温泉に療養に行く際に使用していたようで、花巻電鉄や沿線の風景は賢治の作品にもたびたび登場している。
そろそろ遠野へ向かうための釜石線の列車が近づいてきたので、花巻電鉄の廃線跡をたどって花巻駅へ戻ることにする。隣を走る道路よりわずかに盛り上がった廃線跡は自転車と歩行者の専用道となっていて、帰宅する学生がたびたびそこを通って行った。
緩やかな配線跡をたどって花巻駅に到着する。花巻駅の西側には花巻電鉄の花巻駅があり、こちらは1972年の廃止まで使われていた。現在は小さなロータリーと高校別に分けられたかなり長い駐輪場があり、かつて小さな電車が走っていた道は、現在は学生の通学の道として使われているようだ。
花巻駅から釜石線に乗って宿泊地である遠野へ向かう。花巻駅から遠野駅までの区間は初めに述べたように5年前に乗車はしているものの景色を楽しむ余裕はなかった。列車は緑の中を抜け、新花巻駅で新幹線からの乗り換え客を乗せると、釜石方面へ向かって夕暮れの北上高地をひたすら進む。途中で「めがね橋」としても有名な宮守川橋梁を渡るのだが、列車本数が少ないため、訪問は翌日することにした。
遠野駅には午後5時頃に着いた。ホテルにチェックインし夕飯を食べようと外に出たのだが、中心部で開いている店は少なく、駅の近くまで歩いて、近くにあったピザ店でピザを食べて夕食とした。
賢治と2つの鉄道(岩手軽便鉄道編2)
2日目の朝、目が覚めて外を見るとよく晴れていた。朝のローカルニュースを見ながら着替えて、ホテルのバイキングで朝食を食べる。前回、道東の釧路で宿にたどり着けずにカラオケで一夜を明かしたのは天と地の差だ。
まずは昨日通過した宮守川橋梁へと向かう。宮守はかつて別の町だったが、現在は合併して遠野市の一部となっている。休日の朝ということもあってか一両の列車の乗客は少なく、宮守駅で降りたのは僕一人だけだった。ホームにはかなり雪が積もっていて、歩くとポリポリと音を立てて新雪に足跡が記録される。
宮守駅の駅舎は最近建て替えられたようで、かなりシンプルなものだった。駅前の道から階段を下ると、釜石線と同じく釜石と花巻を結ぶ国道283号線に出る。歩道にはいくつかの足跡が一直線にあるものの、誰も歩いていない。その足跡をたどってしばらく進むうちに、その橋は突然姿を現した。
橋の袂まで歩いていくと写真を撮っている人が数人いた。この先に道の駅があるようで、そこにはたくさんの車が停まっていた。この橋は釜石線の中でも写真撮影の名所として知られている。そしてよく見ると現在釜石線が走っているコンクリート製のアーチ橋の前にそれより細い橋脚の跡が残っていることがわかる。実はこちらが大正時代に岩手軽便鉄道の橋梁として建設されたもので、現在使われている橋梁は1943年に釜石線として改修する際に新たに建設されたものである。
12時近くに観光列車がやってくるが、それまで少し時間があったので、隣接する「道の駅みやもり」で昼食とお土産を買うことにした。道の駅とはいうもののの、左半分はホームセンターになっていて、右半分が道の駅となっていた。中には食堂や地元の特産品を売る店、遠野や宮沢賢治に関する観光スポットの案内があり、賑わいを見せていた。
12時近くになり、遠くから踏切の音が聞こえてくるとまもなく列車がやってきた。土日や休日は釜石線には「ひなび(陽旅)」という観光列車が運行されている。白いコンクリートのアーチ橋に赤いラインが入った車体が見事なコントラストだった。
列車を撮り終えたところで宮守駅へ戻り、釜石方面へと向かう。今回乗車するのは「快速はまゆり」で、先頭の1号車が指定席になっている。釜石駅までは長旅になるし、道の駅で買った昼食を食べたかったので、列車の待ち時間スマホから指定席を予約しようとした。しかし、遠野駅までは窓側の空席がなかったので、遠野から釜石の区間で指定席をとることにした。
宮守駅は無人駅なので、車内を巡回する車掌に声をかけてきっぷを買う。釜石線の新花巻より東はSuica利用エリア外なのに、車内ではSuicaで釜石までの乗車券を買うことができるというのはなんとも不思議なものだ。
遠野駅で車内の乗客がある程度入れ替わるのに合わせて、自分が予約した1号車の指定席へ向かった。ここからは前回乗車することができなかった区間に入る。リクライニング座席にテーブルもついており、快適に過ごせそうだ。昼食は道の駅で買った赤飯おにぎり。ただ、僕が知っている赤飯よりいくらか豆が大きい。どうやら金時豆が入っているようで、とても甘い赤飯だった。
昼食を食べ終えると、列車はいよいよΩ(オメガ)ループの区間に入る。遠野と釜石の間には極めて標高差の高い仙人峠が存在し、賢治の時代には鉄道で超えることができなかった。賢治が三陸を旅して釜石から花巻へ帰る際には釜石鉱山鉄道の終点である陸中大橋駅から岩手軽便鉄道の終点である仙人峠駅までこの峠を歩いて越えたと記されている。そして上有住と陸中大橋の間が開通し、花巻と釜石が直接鉄道で結ばれたのは戦後の1950年のことだった。この区間にはいくつもの長いトンネルが建設され、勾配を緩和するためにギリシア文字のΩのような形で線路が敷かれている。そのため車窓の眼下にこれから通る線路を見下ろすことができる。
三陸鉄道 再挑戦
こうして仙人峠を下り終えると列車は釜石の市街地へと入り、釜石駅へと到着する。釜石駅では乗り換え時間が短いため、釜石線全線乗車の感慨にひたる間もなく、急いできっぷを買って三陸鉄道リアス線に乗車した。三陸鉄道の車両は1両で乗客は10人ほどだった。
三陸鉄道は全線開通したのが1984年と比較的新しい路線である。東日本大震災により被災したが、釜石から盛までの区間は2014年までに運転を再開した。リアス海岸の地形を貫くために数多くのトンネルがあり、さながら海が見える地下鉄のようである。吉浜駅の手前では吉浜湾を眺めることができ、三陸の地形を目で見て実感することができた。
1時間ほどで列車は終点の盛駅に到着した。これで5年越しに三陸鉄道リアス線の全線を乗り通したことになる。盛駅は大船渡市に所在する駅で、三陸鉄道リアス線の他にJR東日本の大船渡線BRT、貨物専用の岩手開発鉄道の3社が乗り入れている。大船渡線はかつては鉄道であったが、東日本大震災によって被災し、鉄道の跡を専用道として走行するBRTとして復旧したという経緯がある。岩手開発鉄道は近くの鉱山で採掘される石灰石を沿岸部のセメント工場へと運ぶ貨物線で、駅構内には石灰を運ぶための長い貨車が連なって置かれていた。
岩手開発鉄道の線路に沿ってしばらく歩くと、遠くにセメント工場の煙突が見えた。このセメント工場は、東日本大震災からの復旧・復興の際にはセメントを供給するだけでなく災害廃棄物の処理にも大きく貢献した。
盛駅に戻ると日はかなり落ちていた。この後は来たルートをたどって再び遠野のホテルまで戻った。3日目は遠野市内を散策したのだが、大きくテーマが変わるのでここで一区切りとする。