お笑い芸人『サンドウィッチマン』人気の理由①
今回はQuoraでいただいた質問に対して回答を作成し、
2022/06/30に投稿した記事を書き直しました。
1.質問『TV番組で好きな芸人ランキング1位がサンドウィッチマンでしたが人気の理由は何だと思いますか?』
質問ありがとうございます。
2.サンドウィッチマンの人気の2つの要素
『サンドウィッチマン』の人気の要素は、端的に言って二つです。
確かなネタと技術。
好感度が高い。
簡潔すぎるので、この二つを具体的に説明するために、
『サンドウィッチマン』コンビ結成からの活動を、時系列で見てみるのが一番わかりやすいと思います。
3.『サンドウィッチマン』結成から東京上京
『伊達みきお』・『富澤たけし』の二人は宮城県仙台市の商業高校の同級生、ラグビー部の同期として知り合った。
1995年 高校卒業後、『伊達みきお』は、福祉系の会社に就職。
『富澤たけし』はお笑い芸人結成を目指し、相方として伊達を誘ったが断られた。
富澤は、別の小中からの幼馴染と『ゆやゆよん』というお笑いコンビを結成。
この『ゆやゆよん』は所属するはずだった『吉本興業仙台事務所』撤退のため、自然消滅。
富澤はその後、3年にわたって伊達を口説き続けた。
1998年9月 コンビ結成。この時のコンビ名は『親不孝』
コンビ結成と同時に、本格的な活動をするため、
仙台を離れて東京に上京。
東京都内
家賃¥68,000
1LDK
のアパートに、2人で住んだ。
以降M-1グランプリで優勝するまで、この同じアパートでの二人暮らしは継続する。
4.ホリプロ預かりから完全フリー
初めは『ホリプロ』に預かり(所属ではない)という状態。
1990年代後半のホリプロは、新人は毎週水曜、演出家の前で『ネタ見せ』するシステムだった。
しかし講師となる演出家が大変厳しい人だった。
このスパルタ授業が性に合わず、二人はレッスンに行かなくなり、完全フリーになる。
この際、コンビ名を『銭と拳』(かねとこぶし)に改名。
所属事務所なしのフリー。
お笑い不毛の地仙台出身。
つまり人脈・コネがなかったことが、個人的には不遇期間が長かった理由だと思っています。
5.長い不遇時代がお笑い技術を醸成
伊達と富澤の二人は、以降10年近い期間、全く知名度のないまま、実質フリーター状態。
ほとんど生活費捻出のためのアルバイト生活の中、たまに入ってくる営業や、お笑いライブへの出演で、
ネタと技術を磨いていく。
ネタ作り担当=『富澤たけし』
基本は『コント師』だが、『漫才』をやるときもある。
主にテレビ番組に合わせて、コントのネタを漫才にアレンジするときもある。
6.コンビ名『サンドウィッチマン』決定
1999年〜2000年にかけて、ホリプロ時代の後輩を入れて、トリオで活動。
その際、『サンドウィッチマン』に改名する。
『サンドウィッチマン』という名前の由来=
『トリオになったので、3(さん)の入った名前にした』という単純な理由。
たった一年で後輩は脱退したが、コンビ名は『サンドウィッチマン』のまま。
以降、
そのコンビ名『サンドウィッチマン』を継続。
7.『エンタの神様』出演
2005年 東京芸人が集まるお笑いライブに出演したとき、
偶然取材で日本テレビのカメラが入っていた。
それがきっかけで、当時の日本テレビプロデューサー『五味一男』に見出された。
日本テレビ『エンタの神様』に出演が決まった。
サンドにとって初めてに近いテレビ出演。
『エンタの神様』というネタ番組は収録だが、お笑いライブと同じように、スタジオに観客が入り、その観客の笑い声がオンエアーにも使用される。
サンドにとって最初の収録の時、
彼らは無名だった
若くもない
ハンサムでもない
当然サンドが登場しても、歓声はなかった。
しかし彼らがネタを始めると、つかみでドッとウケた。
その後も、ドッカンドッカンウケた。
観客の笑い声が大き過ぎて、サンドの衣装に付けたピンマイクが観客の笑い声を拾ってしまった。
そのため音声さんからのNGで、同じネタの収録を撮り直した。
番組史上、滅多にない事態だという。
8.日本テレビ『五味一男』プロデューサー
さらに収録後、
五味一男プロデューサー:「お前らみたいなのが、今までどこに埋もれてたんだ?」
サンドにとって最高の褒め言葉だった。
さらに五味プロデューサーは、同番組に出演する他の若手芸人たちに、
「彼らの『間』を見習え」と、
サンドの出演VTRを見せていたほど、評価された。
さらに同時期、サンドの芸人仲間が立ち上げた事務所『フラットファイヴ』所属になる。
サンドは完全フリーから、弱小事務所所属となる。
9.『M-1グランプリ』出場
実はサンドは、『M-1グランプリ』には、2002年から毎年エントリーしていた。
2005年『エンタの神様』やテレビ朝日のネタ番組『虎の門』出演で、営業の仕事が一気に増えた。
2006年 東京・仙台にてサンド初の単独ライブ開催。
お笑い芸人としての収入が増えて、アルバイトを辞めて、
ネタ作りなど、
『お笑いに集中する』
『お笑い漬けになれる』
環境を作った。
ネタ担当『富澤たけし』が、テレビに出演するようになって分かったのは、
『テレビにはテレビの「見せ方」と「笑いのルール」がある』
ネタが面白いのなんて当然。
さらに画面上でウケるための、演じ方・強弱の付け方を研究した。
『舞台で見せていた表現』⇨『テレビに置き換える』方法を考えた。
しかし、
2006年 M-1グランプリでは、サンドは準決勝止まりだった。
10.『M-1グランプリ2007』敗者復活戦
2006年 サンドは、『準決勝まで行けた!』と満足せず、敗退が決まってすぐ、照準を来年に合わせて、準備していた。
2007年『M-1グランプリ』でもやはり、準決勝まで行って敗退してしまった。
しかし、
M-1には、『敗者復活戦』がある。
『敗者復活戦』会場は、大井競馬場だった。
大井競馬場に集まったのは、57組総勢100人を超える芸人たち。
M-1敗者復活戦の審査方法(当時)は、
抽選で選出された一般審査員100名とプロの審査員5名が審査を行う。
それらの得点を総合して、一組が選出される。
この中から、たった一組の敗者復活枠に『サンドウィッチマン』が選ばれた。
いわばサンドは、大井競馬場に集まった100人の観客たちから一番多く、『面白い』と判定された。
サンドは大井競馬場から六本木のテレビ朝日本社へ移動する。
大井競馬場にいた大勢の芸人や観客たちが『頑張れよ!』と応援して、送り出してくれた。
11.『M-1グランプリ2007』決勝1stラウンド1位通過
『M-1決勝戦会場』であるテレ朝スタジオの脇のたまり場(控え室)は、決勝進出の芸人たち全員のピリピリした空気で、尖っていた。
前から知り合いの『ザブングル』だけが、『よう来ましたね!』と歓迎してくれた。
一方、
大井競馬場に残った56組の芸人たちはほとんど帰らずに、モニター前に座り込んで、決勝戦を見守った。
サンドを応援する気持ちと、
サンドが決勝進出したことによって、
決勝で何かが起こるという予感があった。
こんなことは、M-1史上異例の事態だった。
決勝戦会場に登場したサンドに対しての会場の空気は、
『誰だ、こいつら?』の完全アウェー状態。
彼らは完全アウェーは、地方の営業でしょっちゅう経験していたので、
慣れっこだった。
むしろ、
富澤たけし:『完全アウェーの中でウケる瞬間が最高に気持ちいい』
決勝1stラウンドで、ネタ『街頭アンケート』を披露した後、651点獲得
決勝1stラウンド進出者中1位通過を果たす。
サンドは司会『今田耕司』から、続く最終決戦への意気込みを聞かれた。
伊達みきお:「ただ、もうネタがないです」
フリートークとしてのボケとはいえ、少し自信なさそうなサンドに、二人の審査員が発破をかける。
審査員『オール巨人』:「僕の中のこの92点(この年の巨人の最高評点)は完璧に近いですね。期待の裏切りを行って笑いをとっていくわけですよね。何で、彼らが決勝のこの舞台に、敗者復活でなしに残ってへんのかなと思うくらい。
ただ、もう1本こんなネタがあったら大変なことになりますよ」
審査員『島田紳助』:「巨人さんの言う通り、『トータルテンボス』、『キングコング』と彼ら3組が、技術的に漫才師としてめっちゃ上手い。ただその3組の中で、僕は彼らが一番面白かった。だから得点をプラスしました。(紳助のつけた得点は98点)素晴らしい。
もう1本(こんなネタが)あったら優勝です。しかし、絶対ないと思います!」
裏を返せば、『絶対にもっと面白いネタを持ってるはず』という挑発でもある。
※この記事は、次回に続きます。
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