『千葉すず』もっと評価されるべき、過小評価されているスポーツ選手③
今回は『千葉すず』関連記事の続きです。
27.『CAS(スポーツ仲裁裁判所)』へ提訴
2000年4月『シドニー・オリンピック日本代表選考漏れ』の知らせを受けても、
千葉本人は冷静だった。
しかし、彼女の周囲は『おかしい』と騒ぎ出した。
『スポーツ仲裁裁判所(CAS)』=IOCによって設立され、スポーツで起きたトラブルを、裁判所ではなく、スポーツ界の枠内で解決をめざす一審制の仲裁機関。
そう言う機関があることを教えてくれる人もいて、
最終的には千葉本人が、
純粋に自分が選ばれなかった理由を知りたい
と言う目的で、
自分で訴えることに決めた。
28.『CAS』による裁定
『千葉すず』による『日本水泳連盟』への訴えに対する、CASの裁定は、
『痛み分け』だった。
『千葉すず』はシドニーへは行けない。(シドニー日本代表選考落選は覆らない)
日本水泳連盟側にも選考基準の曖昧さがあったことを認め、千葉すず側の訴訟費用の一部負担
を言い渡した。
29.『千葉すず』CASへの提訴以降
CASに選考基準の曖昧さを訴えたのは日本人としては、
『千葉すず』が初めてとなった。
これは、日本のスポーツ界に大きな衝撃を与えた。
その後、各競技団体は選考基準の明確化へ努力することが義務となった。
また、この一件がきっかけとなって、
2003年『日本スポーツ仲裁機構』が設立された。
以降、日本のスポーツ選手は、CASに訴えなくても、
国内で選考に関連する紛争等を扱えるようになった。
30.水泳引退後の主な活動
2000年 CASへの提訴
2002年 水泳選手『山本貴司』と結婚
2005年7月 第一子長男出産
2007年2月 第二子長女出産
現在は、スポーツ推進会社『Victory Bell』(ヴィクトリーベル)に参画する。
その他、水泳教室でコーチの仕事などをしている。
31.夫『山本貴司』選手について
『山本貴司』(やまもとたかし)1978年7月27日〜
『千葉すず』(ちばすず)1975年8月11日〜
山本選手は、妻『千葉すず』より3歳年下。
『山本貴司』=日本男子競泳選手、バタフライ元日本記録保持者
2002年『千葉すず』と結婚。
2004年『アテネ・オリンピック』での成績
200mバタフライ銀メダリスト
400mメドレーリレー銅メダリスト
二つの日本記録
2003年『バルセロナ世界選手権』=100m52'27
2004年『アテネ・オリンピック』=200m1'54'56
32.『山本貴司』選手『アテネ・オリンピック』でのインタビュー
2004年『アテネ・オリンピック』200mバタフライ決勝戦。
アメリカ代表世界記録保持者『マイケル・フェルプス』に次ぐ銀メダル獲得。
山本選手が、アテネ・オリンピック200メートルバタフライで銀メダルを取った時のインタビュー
アナウンサー「惜しかったですね、あと少しで金メダルだったのに…」
山本選手「でもまあ日本記録のタイムで泳いだわけだし、
つまり日本の歴史で僕より速く泳いだ人はいないわけで、
それ以上を求められてもねえ…」
『千葉すず』はこの日、テレビでオリンピック水泳を観戦していた。
山本は決勝前に妻に電話をした。
千葉すず:「楽しんでおいで」
この妻の一言で、
山本貴司:「それで、自分の決めたレース、楽しいレースができればいいと思った」
33.『千葉すず』・『山本貴司』ベストパートナー
『千葉すず』と『山本貴司』は、『イトマンスイミングスクール』時代からの知り合い。
※山本選手は、大阪府出身。
その後、山本は『バット・マカリスター』コーチに師事し、カナダで二人は再会。
ちょうど千葉が、2000年『シドニー・オリンピック』出場を目指し、
『バット・マカリスター』コーチの指導を受けていた時期。
バットのカナダ移籍に合わせて、千葉もカナダに拠点を移し、
そのタイミングで千葉と山本は再会した。
前回の記事に書いた経緯で、
『千葉すず』の『シドニー・オリンピック』出場は落選となった。
その後、日本水泳連盟と千葉すずのCAS提訴などを経て、
2002年10月 『千葉すず』『山本貴司』結婚
2004年 山本貴司『アテネ・オリンピック』出場
その影には千葉の体づくりに気をつかった食事、プールサイドでのアドバイスなどがあった。
『アテネ・オリンピック』前の『Number』誌
千葉すず:「(山本貴司について)やっぱりメダルを取ってほしいと思います」
と発言している。
2004年11月22日夫とともに『パートナー・オブ・ザ・イヤー2004』を受賞
2005年7月 第一子となる長男を出産
2007年2月 第二子となる長女を出産
34.『日本水泳連盟』との関わり
千葉すずの五輪代表選考
2000年『シドニー・オリンピック』日本水泳代表選考をめぐり、
代表選考に漏れた『千葉すず』が、
「選考基準が不明瞭である」として、
『スポーツ仲裁裁判所』(CAS)に仲裁を申し立てた。
当時日本水泳連盟会長『古橋廣之進』:「選考に問題点はない」
という姿勢を貫いた。
CASの裁定では、
選考結果自体の見直しには至らなかった。
が、
日本水泳連盟側にも選考基準の曖昧さがあったことを認め、
日本水泳連盟側に、仲裁費用の一部負担を言い渡している。
なお日本水泳連盟はこの裁定を受け、
シドニーオリンピック以後の国際競技大会選手選考に際して、
いくつかの選考基準を明瞭にする改訂を行った。
事前に「派遣標準記録」を設定・公表する。
日本選手権水泳競技大会競泳では標準記録を突破して決勝レースで2位以内に入選した選手を自動的に代表選出するシステムを採用。
35.『千葉すず』のシドニー・オリンピック日本水泳代表選考落選について
憶測でしかありませんが、多くの人が確信しているように、
『千葉すず』の2000年『シドニー・オリンピック』選考代表落選は、
2000年当時日本水泳連盟会長『古橋廣之進』の鶴の一声だったと思われます。
1996年『古畑廣之進』=『アトランタ・オリンピック』日本選手団代表を務めた。
同年『千葉すず』は、アトランタで期待されるような結果を出せなかった。
さらにオリンピック競技後に、千葉が日本のテレビニュース番組に出演した時の発言があった。
2000年 千葉は、『シドニー・オリンピック』日本代表選手選考から落選。
記者たちは、『千葉すず』の名前が日本代表選手の中にないことを疑問に思った。
千葉は、参加条件となるタイムは十分にクリアしていた。
シドニー水泳日本代表選手発表後の水泳連盟会長としての古橋のインタビューで、
当然、記者たちは古橋会長に質問した。
古橋廣之進:「『国民みんなの期待に沿うよう頑張って参ります』と言わない、
いつも自分のために戦っているなど、
自分の事しか言えないような選手を、
貴重な血税を使ってオリンピックに連れて行くようなことはしたくありません」
戦中・戦後世代的な考え方ではあるが、今でもそういう考え方の国民は大勢いる。
そしてこういう世代の人は、自分の考えを信念として曲げない。
確かに1996年『アトランタ・オリンピック』後の『千葉すず』の発言は不味かった。
しかし、
千葉すず:「水泳は公平なスポーツのはずなのに、
スポーツなら1、2位の結果が全てなのに、
日本では別室で会議が行われて、
次の日の代表発表まで誰が選ばれるか分からない。
そういうスポーツでもあったんです」
千葉がアメリカに戻ると、
『バット・マカリスター』コーチをはじめ、チームメートたちが
「優勝したのになぜ落選するの?」
「選ばれない理由を説明して」
と、まるで自分の話のように迫ってくる。
「水連に聞いたって意味がない」
そう説明してもアメリカのチームメイトたちには理解できない。
バット・マカリスター:「落選の理由を聞かなくては、
レースもオリンピックも終わらない」
コーチにそう言われ、千葉は『スポーツ仲裁裁判所』(CAS)に、
日本水連の選考基準のあいまいさをたった1人で訴えた。
日本人として初めて、選考基準に堂々異を唱えた25歳の女性の行動は、
『古橋廣之進』=「フジヤマのトビウオ」日本水連会長
および、
日本のスポーツ界に大きな衝撃を与えた。
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