引用で考える その6:不従順はひとつのアートだ
本の引用の6回目です。
どの本を選び、どの言葉を引用するかに私の解釈は入りますが、できる限り、引用された言葉だけで、理解できるように配慮します。
個々の言葉を読んで、気になったことがあれば、本を読む、関心を持って調べてみる、考えてみる、そうしたきっかけにしてくだされば幸いです。
引用された言葉を、声に出して読むのも良いかもしれません。
もしかするとそこには、自分を鼓舞し、萎えた気持ちを奮い立たせ、勇気づける言葉があるかもしれません。
引用された言葉を黙読するのと、声に出して読むのは、また違った趣があります。
今回は、OSHO『心理学を超えて① ウルグアイ講話』(市民出版社、2019)から引用します。
原書は、1986年発行で、”Beyond Psycholoty ; Talks in Uruguay”です。
こちらの続きです。
“僕は従順でいることはできません。それは僕が常に反抗的でいるという意味ではありません。それはただ従うか従わないかは、僕の選択になるという意味にすぎません。あなたは要求はできますが、決定は僕のものになるでしょう。僕の知性がそれを支持すると感じれば、僕はそうするでしょう。ですがそれはあなたへの服従ではありません。それは僕自身の知性への服従なのです。もし正しくないと感じたら、僕は拒絶するでしょう。”(p,86)
[これは、和尚が子供時代、自分の父親に言ったことだ。
従うか従わないかは、自分の選択だという。国家や自治体から要請されたのであれ、あるいは命令されたのであれ、自分の知性がそれを支持すると感じたら、従う。そうでなくて、「国家が言うから」「自治体が言うから」「同調圧力が怖いから」といって要請や命令に従うのは、選択の放棄だ。]
“人が「ノー」と言えない時、「イエス」は全く無意味だ。彼は機械のように機能している。”(p,86)
[同調圧力に屈して、「イエス」と言わされる時、人は機械になってしまっているのではないか。あなたは人間か、機械か、どちらだろう。]
“私は従順に反対ではないし、私は不従順でもない、だが私は生を自分自身のやり方で決めたいのだ。他の誰かに干渉されたくはないし、他の誰かの生に干渉したくもない。”(p,89)
[真に自由な人は、他人の生に干渉しない。なお、関わりを持つことと、干渉・介入は全く異なる。]
“あらゆる子供に考える機会が与えられるべきだ。彼の知性を研ぎ澄ます手助けをしてやるべきだ。彼が自分自身で決めねばならないような状況や機会を与えることで、彼を助けてやるべきだ。私たちは、誰も従順であるように強いられることなく、誰もが自由の美と威光を教えられるということを重視すべきだ。
(中略)私の努力とアプローチのすべては、どんなものであっても、その人の可能性を発展させる機会を、各個人に与えることにある。誰も彼の生を脇へそらすべきではない――そうする権利は誰にもない。そしてその時、真に人間の庭であるような世界を持てるだろう。今現在、私たちは地獄に生きている。”(p,89-90)
[彼は、人々を眠りから目覚めさせ、ライオンであることを思い出させようとした。
和尚とアプローチは異なるが、同じことを目指したのが、G・I・グルジェフである。和尚はグルジェフによく言及した。]
“社会はライオンを望まない。それは羊の群れを望む。そうなると人々を奴隷にしたり、搾取したり、何であれ彼らにしたいことをするのは簡単になる。彼らは魂を持たない。彼らはほとんどロボット同然だ。あなたは命令し、彼らは従う。彼らは自由な個人ではない。”(p,93)
[デーヴィッド・アイクの『ムーンマトリックス』の原題は、『人類よ、起ち上がれ――眠れる獅子が目覚めるとき』(Human Race Get Off Your Knees: The Lion Sleeps No More)だった。アイクの『今知っておくべき重大なはかりごと①』では、和尚のある言葉が引用されている。そこに、共振する何ものかを感じたためだったのかもしれない。]
“生を生きるための唯一の方法は、あなた自身で生きることだ。それは個人的な現象であり、それが自立であり自由だ。それは死んでいるすべての重荷を絶えず降ろすということだ。そうすれば生は成長し続けることができ、死んだものの重みで押し潰されることはない。”(p,96)
[死んだものとは物質的なものだけでなく、過去や未来、様々な知識といったもの全てを含む。
この世は、人生は足し算であるかのように思わせる。だが、本当は引き算かもしれない。何も重荷を持っていない人の生は、押し潰されることなく、成長し続ける。]
“私はあなたに関心がある。百年後に何が起こるかなど、誰が気にするだろう?”(p,237)
“何千年もの間、人は説明なしで生きてきた。従順に生きてきて、質問もなく疑うこともなく、懐疑的でもなかった。そうすることを恐れてきた。それはすべて罪だからだ――従順は美徳だ。
私にとって従順は美徳ではない。知性が美徳だ。もし、あなたの知性を魅きつけるという理由で何かに従うのなら、それは高徳なものになる。そして、あなたの知性がそれに反するからという理由で何かに従わないとしても、罪として咎められるべきではない。”(p,245)
[和尚が言う「知性」は、「ハート」と読み替えると、もっと意味が通りやすいかもしれない。マインドの知性ではない、もっと全的なものだ。]
“不従順はひとつの技(アート)だ。
それは誰かに逆らうことではないし、頑固で厳しいものでもない。非常に礼儀正しく、本当に好人物でありながら、それでも不従順でいることができる。それが難しく見えるのは、私たちが不従順な人は厳しい人物であり、穏やかではなく、好ましい人ではないという連想に慣れてしまっているからだ。それは間違った連想だ。
私は生涯、両親や教師たち、年長者たちに不従順でいた。だがどんなかたちであれ、彼らに対して、私が無礼であるとか、嫌な人間であると感じさせたことは一度もない。
不従順というのは、従順以上に偉大なアートだ。従順にはアートはいらない。”(249-250)
[和尚の不従順は、デーヴィッド・アイクの言う「非協力」と同じだ。
今のご時世で言えば、要請に従わない、ノーマスクでいる、枠珍を接種しない、それが不服従だ。それが、自分の知性から出てきた「ノー」なら、ひとつのアートになり得る。それらを仕掛けてきた人に、協力しなければ、従順でいなければ、彼らの企みは実現しない。逆に、抗議活動やデモは、彼らにとって何ら痛くない。]
“私は自分の知性を磨くために大学にいたのであって、卒業証書を得るためではなかった。”(p,250)
[今、こういう動機で大学に行く人がどれだけいるだろうか。]
“質問は意識の中にある。答えは無意識の中にある。漠然としていて、影のように確信もなく、だがほのめかすものは確かにそこにある。
マスターの働きとは、まさにソクラテスがそれを定義したものだ――マスターとはただの助産婦に過ぎない。彼は、あなたの中に隠されているあらゆるものを、意識へともたらす手助けをする。あなたの質問が消える時、それはあなたの無意識からの答えが意識にもたらされたという意味だ。
それは覚えておかなければならない、これがマスターと教師を区別するものであることを。教師はあなたに答えを与えるが、それは無意識からあなた自身の答えを持って来るものではないだろう。彼はあなたの質問を抑え付けて、一つの答えをあなたの意識に押し付ける。彼は状況をより複雑にさせるだろう。”(p,456)
“教師はあなたに重荷を負わせ、あなたを複雑にする。
マスターは、あなたに重荷を負わせるようなどんな答えも決して与えない。
彼のあらゆる答えは重荷を降ろすことだ。彼はあなた自身の無意識の答えを表面にもたらす。そこでは最初に質問が消え、それから答えが消える――そしてどちらの形跡も背後に残っていない。
これが真の交感(コミュニオン)だ。
これが教師とマスターを区別させる明確な方法、基準だ。”(p,456-457)
[教師とマスターを区別する明確な方法を知っていることは、大事だ。教師との関わりは、なるべく少ない方がいい。生は有限だからだ。そして、マスターを自称する教師があまりに多い。]