システムに抗い、文武両道の香気を放ち続ける
文武両道の誤用
「文武両道」という言葉があるが、どれぐらいの人が正確な意味をわかっているのだろうか。
よく「勉強もスポーツもできて、文武両道の人を育てる」という学校の謳い文句や賞賛の言葉を見かけるが、これは意味を間違えている。
「文」とは精神論のことで、『四書五経』のような精神論を指している。
魂の視座、垂直軸である。
「武」は武道のことである。
武道とは、命のやり取りであり、武士道を意味する。
執行草舟の言葉
執行草舟は、「文武両道」の意味が正確にわかっている人の一人だ。
“昔は剣術だって柔術だって、何のために稽古をするかと言えば、いざというときに敵をたたきのめし、そして殺すためだから、教えるのは人の生命線を断つことです。それで稽古中にやり過ぎて一生涯寝たきりになる人とか、明治くらいまではいくらでもいました。それもすべて自己責任で、師匠や相手のせいにして訴えるとか、そういうことではないわけですよ。そういった命のギリギリのやりとりをしていたから「道」がついて、「剣道」とか「柔道」と言われるようになったのです。”
(執行草舟『超葉隠論』実業之日本社、2021、p,257)
精神論がなく、命のやり取りもなく、ただ学問やスポーツに明け暮れるのは、「文武両道」とは言わない。
もしその目指すところが、魂や命のやり取りとは全く無縁で、単にこの世の成功・幸福であるならば、動物と変わらない。
三島由紀夫の言葉
三島由紀夫は、批評家・福田恆存(ふくだ つねあり)との対談「文武両道と死の哲学」で、福田の「文武両道といふのは、日本の何か美徳のやうに言つてたけどね、これは少なくとも明治以降は離れる一方だね」を受けて、こう述べている。
“これがどうしてもくつつかなきやいけないんですよ。絶対くつつかなきやいけない。つまり全然原理の違ふものをね、両方に目をいつも見てゐなきやいけない。日本の文化人の一番の欠点は、原理の違ふものといふのを見ないで、くつつけようとするでせう。それは政治と芸術論、政治と文学論の左翼の連中の一番甘いとこ。くつつけようとする。くつつけないために両方持つてなきやいかん。両方の原理を自分がしつかり握つてゐなくてはいけないと思ひますね。武の原理つて危険ですからね。そのために死ぬことだつてあるかもわからない。文のために死ぬことはあまりないけれども、武のほうはそのためにいつ死ぬかわからないんだ。それでも両方持つてゐなきやいけない。ぼくは絶対さう思ふね。”
(三島由紀夫『若きサムライのために』文春文庫、1996、p,240-241)
「文」と「武」、全く異なる原理のもの両方をしっかり目にし、離さず、持っていなければいけないというのである。
スポーツと勉強に秀でているのが「文武両道」と勘違いした人々に、「武の原理つて危険ですからね。そのために死ぬことだつてあるかもわからない」という三島の言葉は、わかるだろうか。
おそらく今は、文と武が完全に離れて、全く違う意味があてがわれてしまったと言うべきなのかもしれない。
ちなみに、執行草舟は、三島を尊敬するだけでなく、若い頃、晩年の三島に会っている人でもある。
動物に堕した人が多いように見える
人間が人間として崩れていっているという印象は、強まりこそすれ、弱まりはしない。
だから、執行草舟の言葉に魅かれるものを感じるのだろう。
また、彼が著書で引用・紹介する作家・哲学者・歴史家・科学者の言葉に、共振を感じるのだろう。
猫背になり、浅い呼吸で歩きながら、手に持ったスマホ操作に余念のない人々に、尊厳を感じるだろうか。
食事を味わうより、目の前にいる人の存在に目を注ぐよりも、スマホに視線が向いている人に、人としての品位を感じるだろうか。
スマホを常時いじれば、爬虫類脳と前頭葉が活性化し、多角的に物事を見られなくなるし、物事の本質をつかむのもむずかしくなる。
“スマートフォンが、自分をシステムに閉じ込めるためのコントロールツールであることを知っていながら、あなたは、喜んでスマートフォンを捨てられるでしょうか?”
(「The Solution to Breaking Free from the Reptilian Brain (爬虫類脳から脱却するための解決策)」2020/01/31)
人間以上のものになろうとするから、人間でいられる
人間は、ただ、そのままで、自動的に人間になるのではない。
スペインの思想家ミゲール・デ・ウナムーノの『生の悲劇的感情』にこうある。
“人間以上のものたらんと欲するときにだけ、人間は本来的な人間となる”
これを引用して、執行草舟は『超葉隠論』でこう述べている。
“もしも「人間でいい」と思ったらすべてが日常生活になってしまって、優雅からは遠のいてしまう。”
(執行草舟『超葉隠論』実業之日本社、2021、p,307)
今の安全・安心・快楽・幸福・成功に余念のない人には、決して理解できないだろう。
ほんのわずかでも、文武両道の香気を放つ人間であるように、日々、鍛錬に勤しみたいと思う。
人間でありたいからだ。
それが、人として生きることではないか。