人間の最も厄介な欲望
『PSYCHO-PASS第1期』での槙島聖護のセリフ
『PSYCHO-PASS第1期』で、槙島聖護はチェ・グソンとの対話で、人間の最も厄介な欲望について述べている。
“「――人間の欲望とはなにか? 僕は、最も厄介な欲望は自己顕示欲だと思う。嫉妬も痴情のもつれも、源泉はそこだ」
「旦那は薄そうですね、それ……」
「……ゼロに近い、と自負している。(後略)」”
(深見真『PSYCHO-PASSサイコパス下』角川文庫、2013、p,66)
『PSYCHO-PASS』については、こちらの記事で触れている。
アニメでこのセリフを初めて聞いた時、いろいろ腑に落ちることがあった。
もし自己顕示欲が限りなくゼロに近かったら?
もし自己顕示欲が限りなくゼロに近ければ、SNSや動画サイトで自分がどのぐらい人気者なのかに悩むことはなく、フォロワー数の増減に一喜一憂することなく、フォロワー数を増やすために無茶なことをしでかす必要もない。
同じことは、リアルの人間関係にも当てはまる。
自己顕示欲が少なければ、見栄を張ることはなく、また、誰かに嫉妬することもなく、常に場の中心でいようとして、他人の顰蹙を買うこともない。
あるいは、自己顕示欲を刺激し、煽るような商品・サービス・情報商材の売り向上にも惑わされることは少なくなるだろう。
今まで出会った中で最も自己顕示欲の強い人
今、所属している教会の牧師は、三代続いて、自己顕示欲の強い人たちだと考えている。
おそらく、教会員の大多数が自己顕示欲が強いために、そういう人と親和性があるので、そんな人を引き寄せてしまうのだろうと推測している。
自己顕示欲の強い人ほど、聖書の指し示す望ましい人間像から真逆の姿もまた、ない。
前代の牧師のような、自己顕示欲の強い人は見たことがない。
知ったかぶりが甚だしく、全く自分の知らない分野でも、首を突っ込んできて話し出す。
知らないことを「知らない」と正直に認めるのは、知性の発達と人間性の成熟を必要とすると、感じたものである。
己の無知を正直に認められず、常に場の中心にいたがり、あるいは場をコントロールする主導権を握りたがる人間に、開かれた知性を認めるのは、容易なことではない。
自己顕示欲が薄ければ、人間関係の悩みの大半は消える
自分は自己顕示欲がゼロに近いと自負していると槙島が述べた時、正直、羨ましいと感じたものだ。
自己顕示欲が薄ければ、あるいは、それに振り回されなければ、人間関係の悩みのかなりの部分は消滅するからだ。
大半の人間が、程度の差はあれ、この欲望に振り回されているのを見れば、これから自由になるのは、精神の平安にとってのみならず、対人関係においても、大きなメリットがある。
どうしたら自己顕示欲の薄い人間になれるか?
槙島がなぜそんな風になったのか、生得的なものか、後天的なものかは、残念ながら、描かれていない。
ただ、何となくヒントらしきものはあるように思われる。
とっさに浮かんだのは、以下の要素だ。
・自分という人間を受け入れている
・自分を過大評価せず、過小評価もしない、適度な自己認識。それゆえ、卑下することなく、傲慢にもならない
・その自己認識に基づく自分についての揺るぎない自信
・幅広い物の見方ができる
・自分に対する突き放した見方ができる
・孤独を恐れない
・継続的な読書やトレーニングによる自己鍛錬
・他人を恐れない
・他人の評価を恐れない、あるいは無視しても差し支えないと思える
これらの要件を満たしていれば、過大に自己を示そうという自己顕示欲からは、自由になれるような気がする。
また、過度に卑屈なふるまいを示そうとするのも、自己顕示欲の強さの表れではないかと推測している。
結局、自己受容の度合いの低さと、他人への歪んだ執着が結びついたところに、自己顕示欲は生まれるのかもしれない。
他人への歪んだ執着があるラインを超えると、ストーカーとか、何らかの犯罪行為、粘着的な行為になるのかもしれない。
そういう人は利己的なようでいて、最もちっぽけな自己に振り回されて、自己超越の方向へ行かないのだから、究極的には自滅的だ。
逆に、自己受容の度合いがあまりに低いと、自罰的傾向が強まるのかもしれない。
他人を恐れていなければ、他人にどう評価されようと気にしないだろうし、殊更、自分を大きく、あるいは小さく見せようともしないだろう。
自己顕示欲から自由になればなるほど、それに振り回されている人とかつての自分が哀れで、滑稽に見えてくるような気がする。
自己顕示欲の薄いキャラクター:槙島聖護、狡噛慎也、梓澤廣一
他にもあるかもしれないが、これらの要素は槙島聖護にも、1期の刑事課1係の狡噛慎也執行官にも、また3期の梓澤廣一にも見られるものだ。
狡噛慎也
梓澤廣一
梓澤にいたっては、人間に対して全く興味がない。
だから、サイコパスを全く濁らせずに、犯罪計画の立案・実行ができるのかもしれない。
この点は、槙島と対照的だ。
物語冒頭、彼はこんな独白をしている。
“システムに支配された東京を、実験を行う科学者の視線で見下ろしている。
「人間について知りたいと思ったら、人間を見ているだけではいけない。人間が何を見ているかに注目しなければいけない……」
目を細め、槙島は独りごちる。
「……きみたちは何を見てゐる?」
(中略)”
――僕は、きみたちを、見ている。
――信じられないかもしれないが、僕は、きみたちのことが、好きだ。
――昔からよく言うだろう? 愛の反対は憎悪ではなく無関心だ。興味がないのなら、わざわざ殺したり痛めつけたりはしないんだ。”
(深見真『PSYCHO-PASSサイコパス上』角川文庫、2013、p,7-8)
ともあれ、この「自己顕示欲の薄さ」が、彼ら三人に一定の魅力をもたらしている一つの大きな要因かもしれない。
もちろん、この三者は性格も、パーソナリティも、何を大事にするかも、目指すものも違う。
梓澤は、トレーニングシーンはないが、多少の格闘技の心得がある様子は描かれている。
また、読書シーンも、わずかだが、ある。
その時読んでいたのは、E・T・A・ホフマン、 種村季弘訳『くるみ割り人形とねずみの王様』河出文庫である。
2期も3期も、キャラクターが読書しているシーンはゼロか、ほとんどなく、言葉の引用がなされることもあまりない。
ゆえに、梓澤が読書しているシーンは、ちょっと新鮮ではあった。
まとめ
まとめると、自己を受け入れ、葛藤を手放すこと、そして他者を恐れないこと――二つは別々のことではないが――が、自己顕示欲をコントロールする上での鍵なのかもしれない。
自己顕示欲の強い人間と付き合うのは、疲れるし、しばしば面倒くさいことにしか、ならない。
早めに人物の見切りができたら、離れるのが最適だろう。
そういう人のいないところに行くにはどうしたらいいか?
自分自身の自己顕示欲を限りなくゼロに近づけ、同じく、ゼロに近い、成熟した人と仲良くなることだろうか。