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全訳トム・ケニオン「The House of Relationship(人間関係という家)」

 ハトホルのチャネラーであり、サウンドヒーラー、エリクソン催眠療法家のトム・ケニオンの記事の全訳をお届けします。

 人間関係、特に男女関係における問題について、具体的な例に基づきつつ、ユングの「アニマとアニムス」の観点から考察されています。

 今まで翻訳した中で、最長の記事です。日本語では、19000字近くになりました。

 翻訳過程で何度も読みましたが、男女の人間関係だけでなく、あらゆる関係に当てはまる洞察と考察と感じました。

 なお、最初の見出し「ハニー、なぜあなたは私を怒らせるの?」の手前までと、最後の辺りは、食事中に読まないことを強く、強く、推奨します。



トム・ケニオン「The House of Relationship(人間関係という家)」2006年出版

翻訳者jacob_truth 翻訳完了日:2021/09/15(水)

原文:

 人間関係は、ある意味で家のようなものです。家にはたくさんの部屋があり、どの部屋からも世界を眺めることができます。ある部屋には大きな窓があり、そこからは無限の可能性を秘めた世界が見渡せます。このような部屋で人間関係のダンスをしていると、人生は約束と無限の可能性を孕んでいるように思えます。愛(ロマンティックなものもそうでないものも)は、このような部屋で育つことができます。

 しかし、家の中には、レンガの壁に面した部屋もあります。また、暗すぎて、照明や自己認識のチャンスのかすかな光さえない部屋もあります。これらは、人間関係の中にある私たちが、時折(というか頻繁に)直面する困難な空間です。

 このような「人間関係という家」にある居心地の悪い空間は、控えめに言っても挑戦的であり、それだけでも注目に値します。この記事の短いスペースの中では、バスルーム(実際にはトイレ)に限定して、できるだけ具体的に、トイレが詰まった時にどうすればいいのかを考えてみたいと思います。

 さて、「神聖な関係(Sacred Relationship)」とは、暖かい気持ちや幸せな虹のような素晴らしいものだと考える人がいることは知っています。しかし、時には、予想もしなかった時に、トイレが機能しなくなり、言わば、「大惨事」が起こることがあるのです。

 この文章を書いていると、15年以上前に、友人のロルファー(訳注1)と一緒に行っていた自己成長の集中講座での出来事を思い出します。それは、身体志向の心理学的なワークショップでした。ロルファーの友人の家には、10数名の人が集まっていました。最初の1時間ほどで、扱うべき心理的な問題(糞)がたくさんあることがわかったのが印象的でした。

[訳注1:ロルフィングとは、アメリカの生科学者アイダ・ロルフが考案した重力との調和をゴールに、筋膜を始めとした結合組織に働き掛けて、身体を統合するボディワーク。それを行う人を、「ロルファー」と言う。]


 その頃、家のトイレが冗談抜きで、動かなくなりました。水が流れないのです。2日間の集中イベントの間、私たちはトイレが使えなかったのです。これは気の遠くなるような、そして苛立たしい共時性であり、もっと合理的に考えれば、偶然の一致でもあります。とにかく、集中イベントの最終日、最後の1時間で、全てのバスルームから異様な音が聞こえてきて、突然トイレが腹を下し始めたのです。参加者の一人が一番近いバスルームに忍び込んだところ、突然、何の理由もなく、トイレがどっと流れました。私は23年間の心理療法士としての仕事の中で、かなり異様な共時性や偶然の一致を見てきました。これは、その中でもトップ20に入ると思います。

 トイレの奇妙さを象徴的な観点から見ると、私たちは本当に糞(shit)を抱え込んでいたのです。そして、心理的にはもちろんですが、私たちがそれを手放した時に、初めてトイレは解放されたのです。

 「人間関係という家」では、トイレが時々、逆流することがあります。交際中の方はお気づきかもしれませんが、この手のトイレは、都合の悪い時や社会的に不適切な時に逆流することが多いのです。

 私はこの比喩について何度も説明することができます。なぜなら、比喩が私たちの心(mind)に開く迷宮のような通路が大好きだからです。しかし、簡潔に説明するために、要点だけを述べます。(人間関係において)トイレが詰まってしまうのは、古き良き時代――それ以上でも、それ以下でもなく――の「恨み」に他なりません。

ハニー、なぜあなたは私を怒らせるの?
 人間関係を長く続けていると、誰もが一度は、憤りを感じたことがあるでしょう。対人関係にはつきものですからね。

 私たちの恨みは、友人やパートナーがデザートの最後の一切れを食べてしまった時のように、小さなものであることがあります。以前、レストランにいた時、近くのテーブルで起きた出来事を思い出しました。

 ウェイターがデザートの注文を取っている時に、女性が「私には何もないけど、彼のを一口食べるわ」と言っているのが聞こえました。

 「そんなことはないよ」と、連れの男性が言うのが聞こえました。「いつも一口だけと言って、僕よりもたくさん食べているじゃないか。」

 確かに食べ物の恨みはあります。しかし、通常は、約束したのに実行しなかったことや、相手の気持ちを傷つけてしまったことなど、もっと重大なことで、私たちは腹を立てます。

 このようなタイプの恨みや一般的な恨みは、私が「ただれた棚の生活(a festering-shelf life)」と呼んでいるものです。これは、私の叔母が庭で採れた野菜や果物のメイソン瓶を置いていた食料貯蔵室のように、認識されていない恨みが棚に置かれ、地下に潜ってしまうことを意味します。食料貯蔵室には、必要な時に必要なだけ食べ物を置いておき、真冬になるとイチゴの入った瓶を取り出してテーブルに置くのです。

 恨みは、時にそのようなものです。人間の奇妙な癖で、誰かが私たちを怒らせたり悲しませたりすると、それを見せる時と見せない時があります。

 その場で自分の本音を相手に伝えないと、特にそれが憤りに満ちたものであった場合、心理学的に言うと、その感情は脇に追いやられてしまいがちです。そして、私たちが予期しない時に、パートナーがそれらを暗い棚から取り出して、私たちの目の前のテーブルに置くかもしれません。まさしくトイレが逆流したのです。

 このような日常的な恨みは、人間関係を充分に維持するのを難しくさせます。ただ、別のタイプの恨みはもっと陰湿で、ある意味では、扱うのがもっと難しいものです。なぜなら、それは、私たちの無意識にあるからです。家の例えに戻ると、この恨みは、他の部屋から離れた地下室で増殖します。ほとんどの場合、私たちは、それがそこにあることに気づきません。歓迎されず、予告もされず、リビングや寝室に押しかけてきた時に初めて、その存在を知ることができ、ましてや怒られたことなど知る由もありません。

 では、私が言う「恨み」とは何でしょうか?それは、パートナーが自分の思い描いた期待通りに動いてくれなかった時に生じる恨みです。この獣について説明するには、私たちの無意識という地下室に降りてみる必要があります。

 階段を降りていくと、眠くなったり、そもそも何のために降りてきたのかを忘れてしまったりするので、厄介です。だから、実際に自分の穴に降りる前に、これについて、少し話をしておいた方がいいと思います。

内なる両性具有者
 奇妙に聞こえるかもしれませんが、私たちは少なくとも、心理学的には二人います。ここで私が言っているのは、ある人が言うところの「サブパーソナリティ(subpersonalities)」ではありません。「サブパーソナリティ」とは、時として、それ独自の人生を歩むことのある人格の側面のことです。そして、真の自己探究をしたことのある人ならば、おそらく誰もが、「自分というものは、1人ではない」という奇妙な事実を発見したことがあるでしょう。私たちには複数の自己があり、その中には互いに対立するものもあります。

 あなたが禁煙を決意したとしましょう。このように心理的な緊張感を持たせると、まるで2人の自分がいるかのようになります。1人は禁煙したいと思っており、もう1人はタバコを吸い続けたいと思っています。想像力が豊かであれば、「やめることを望む自分」は天使のように現われるかもしれませんし、「もう一人の自分」は何かを知っているように見えるかもしれません。

 サブパーソナリティは魅力的なテーマであり、自己変革を行う上で重要であることは間違いありません。ただ、私が話している「獣」は、精神のより深いレベルに生息しています。彼と彼女を見つけるためには、地下室の最も暗い部分に降りていかなければなりません(この場合の「暗い」とは、「深層の無意識」という意味です)。注意してほしいのは、「彼あるいは彼女(him or her)」ではなく、「彼と彼女(him and her)」と、私が言ったことです。それは、この獣は両性だからです。

 私たちは、深い元型的・心理的なレベルでは、一人一人が特異な二人組です。精神科医のカール・ユングは、この二重性を「アニマとアニムス」と呼びました。「アニマ(anima)」は自分の女性的自己であり、「アニムス(animus)」は自分の男性的自己です。この二つの自己は、生物学的な性別とは関係ありません。むしろ、精神的・靈的な意識の側面です。このように、全ての男性には、内なる男性性と女性性の両方があります。同様に、全ての女性にも、内なる男性性と女性性の両方があります。

 このような強力なアニマとアニムスの形態は、通常、私たちが生まれながらに持っている靈的本質と、主要な人間関係――つまり母親と父親――との組み合わせから生まれます。場合によっては、親以外の強力な人物や重要人物が内面化されることもあります。例えば、強力な祖母や祖父など、子供にとって身近な人物が内面化されることもあります。

 人間心理という濁った大釜の中では、ある種の男性たちが自分自身の内包された男性的側面を表し、ある種の女性たちが自分自身の内包された女性的側面を表すことは避けられません。それは、外面に現われる男性性や女性性は、私たちの内なるアニマやアニムスと一致したり共鳴したりする性質や態度を表現するからです。

 奇妙なことに、外的な世界にいる人は、自分が相手のアニマやアニムスを活性化させていることに気づいていません。しかし、ある男性や女性との出会いによって、自分のアニマやアニムスが活性化された人にとっては、相手の男性や女性は、自分を引き寄せたり、反発させたりするような磁力を持っています。そして、この魅力や反発は、実際の人物とはあまり関係なく、自分自身のアニマやアニムスという内的・心理的な力と関係しています。

 もう少し具体的に説明すると、この概念が少しは理解できるようになると思います。

 ボブ(仮名)は、妻との関係に悩んでいて、私のところにやってきました。彼は3度目の結婚でした。彼の心理的な領域を探っていくと、以前の結婚でも同じ問題が起きていたことがわかりました。3人の妻とも、最初はその肉体的な美しさとブロンドの髪に惹かれました。しかし、結婚生活が進むにつれ、彼は口うるさく言われたり、批判されたり、過小評価されていると感じました。感情の溝ができて、必然的に妻たちとは離れて行きました。もちろん、これは、ボブから見た状況の語り方です。

 現在の妻であるカレン(仮名)は、汚れた服を床に置いておくなど、ボブの行動の否定的な点を指摘すると、彼が激怒してしまうと感じていました。彼女にとっては、合理的な要求のように思えました。しかし、ボブにとっては、それは扇動的で批判的であり、彼の男らしさを疑うものでした。

 結局のところ、ボブの母親は、(カレンや前の2人の妻と同じように)ブロンドでした。彼の母親は身体的にも美しく、実際、美の女王だったこともあります。しかし、親子関係には毒々しい要素がありました。彼女は男性が嫌いで、一般的な男性、特にボブの父親に対する嫌悪感を口にしていました。これでボブは、いわゆる「ダブルバインド」(訳注2)に陥りました。つまり、「(母親の毒に)やられた」のです。彼は少年でした。つまり、いつかは男になり、母親の怒りを受けることになるのです。しかし、母親の標的になるために、男になるのを待つ必要は、ありませんでした。母は、常に、些細なことで彼を批判し、軽蔑していました。その最終的な結果、彼は母親の批判を内面化してしまったのです。本来、直観と内的なつながりの源であるはずの彼のアニマが、毒されてしまったのです。彼女(ボブのアニマ)は、母親の憎しみを持っていました。ボブはこのことに気づいていなかったので、自分の内なる女性性のネガティブさを変容するという精神的・靈的な作業をしていなかったのです。代わりに、それは外に投影されました。

[訳注2:「ダブルバインド」とは日本語で「二重拘束」を意味し、「2つの矛盾した命令を他人にすることで相手の精神にストレスがかかる状態」を指す。アメリカの精神科医グレゴリー・ベイトソンが、1956年に提唱した「ダブルバインド理論(二重拘束理論)」に由来する。解説はこちらより引用した。]


 ボブが女性と関係を持つ時、それは彼が恋に落ちたこの美しい女神が、自分を救済してくれるのではないかという無意識の希望を持っていました。彼女は、彼を育てた毒のある母親ではないだろう。彼女は、彼が切望していた、全てを愛し、全てを包み込む女性になるのです。残念ながら、彼の心理的な意図が現実と一致することは、ほとんどありませんでした。愛情深い女性が、遂には、彼の中で、批判的な女性になってしまったのです。実際には、ボブは、パートナーから批判的なコメントを受けるような行動の責任を取らず、馬鹿な行動をしていたのです。とても皮肉なことに、彼女らはボブの男らしさを疑っていたわけではなく、彼の存在を批判していたわけでもありませんでした。彼女らはただ、彼に自分の洗濯物を拾ってほしいと思っていただけなのです。

 これは、自分で所有していないアニマやアニムスが人間関係に大きな被害を与えることのほんの一例です。ちなみに、男性と関係を持つ女性にも同じ原理が当てはまります。父/娘の関係が不均衡であった場合、女性は自分が理想とする男性像を投影していることに気づくかもしれません。例えば、「輝く鎧の騎士」や「全てを知っている神/人」など、その他同様の馬鹿げたタイプの男性像を、実際に交際している男性に投影してしまうかもしれません。また、父親に批判されていた場合は、パートナーから過小評価されているとか批判されていると、感じるでしょう。極端なケースでは、女性は、自分には何の権利もないと感じるかもしれません。男性が望んでいることや必要としていることが最も重要で、それらが自分のニーズを凌駕していると感じるでしょう。残念ながら、これは、今日まで多くの人類(humanity)が実際に真実だと信じている信念です。父親や、場合によっては母親から心理的な毒を受けた女性が、自分の力を発揮するためには、このネガティブな要素を変容していかなければなりません。

 異性関係と同じように、母親や父親との間に未解決の問題があると、同性間の関係にも影響を及ぼします。先に述べたように、私たちのアニマとアニムスは、生物学的な性別とは関係なく、人間意識の普遍的な側面と関係しているので、そのダイナミクスは非常に似ています。このように、心理的投影は、異性関係に限ったことではありません。同性同士の関係でも、同じような力学に陥る可能性があります。

 また、自分はゲイだと思っていた人が、実は自分で所有していないアニマやアニムスを、同性パートナーに投影していたことに気付いたというケースもあります。例えば、男性が自分の男性に対する魅力を誤解している場合があります。それは性的なものではなく、むしろ心理的なものかもしれません。彼は、自分が所有していないアニムスを投影しているのかもしれませんし、自分のためにいようとしなかった父親の感情的な空白を埋めようとしているのかもしれません。これは女性にも言えることです。ここではっきりさせておきたいのは、全てのゲイの関係がこのような心理的投影の結果であると言っているのではなく、一部のゲイの関係がそうであると言っているのです。

 ユング派のワークでは、自分のアニマとアニムスを対等な状態にして、両者が本来持っている能力を、バランスの取れた心理的な生活を送るために活用できるようにすることが、主要な課題の一つです。

 では、これらのことが個人の人間関係とどう関係しているのかというと、実はたくさんあるのです。人は何に惹かれるのでしょうか?個人的な好みや個性が影響していることは間違いありませんが、目に見えない力であるアニマやアニムスも影響しています。

 男性が特定の性質を持つ女性に惹かれるのは、その性質を、自分のアニマから自分以外の誰かに投影しているからかもしれません。これは多くの場合、自分自身の女性的な側面を所有できないので、外部にそれを求めて、そのような資質を持つ女性の存在によって、自分自身を完成させようとしているからです。

 また、母親(あるいは幼少期の中心的な女性像)との依存的で否定的な関係により、自分の中にある心理的な穴を埋めようとしているのかもしれません。この場合、彼は無意識のうちに、関係する女性たちから生命力やインスピレーションを得ているのかもしれません。なぜなら、その女性なしでは心理的に生きていけないと彼は信じているからです。このような関係は、本質的に、投影される側のパートナーを疲弊させ、また、両者にとっても本質的にフラストレーションの溜まるものです。なぜなら、このような心理的な穴やニーズは、他の誰かによっては埋めることができないからです。それは、不可能な至難の業なのです。

 男性に惹かれる女性にも、同じような力学が見られます。女性は簡単に自分のアニムスを男性に投影し、その男性との関係を望むことができます。残念ながら、投影が充分に強ければ、彼女は自分の投影に恋してしまい、実際の男性の性格を見ることができなくなるかもしれません。女性が不適切な相手に熱中するのは、付き合いたいと思った相手の可能性を「見る」一方で、相手の実際の行動が発する危険信号を都合よく無視してしまうからです。このような人は、潜在的なものとは本当の意味で充実した関係を築けないことを、はっきりと理解することが、極めて重要であると思います。自分のアニムスの投影に恋をした女性は、その男性が、謎めいていて、魅力的かもしれませんが、実体を持たない幻のような存在になってしまうかもしれません。

 ユング派あるいは錬金術、いずれの観点から見ても、最も困難で重要な課題の一つは、心理的な投影のプロセスを止めて、自分のアニマとアニムスに個人的な責任を持つことです。それが、自分たちを「人間関係という家」に呼び戻すのです。時には、息を呑むほど鮮明に相手を見ることができます。しかしながら、時には、自分の投影による催眠状態の霧の中で、相手がほとんど見えないこともあります。

 この種の霧は、通常、心理的な苦痛や恐怖、脅威を覚えている時に発生します。相手の行動が、幼少期の主要な人間関係で覚えた行動や態度に少しでも似ていると、心理的な投影が発生する土壌ができます。

 このような騒動の引き金となるのは、心理的なミスマッチ――自分たちの投影という催眠効果とその瞬間の現実との間に生じるミスマッチ――のショックです。ここで、ボブとカレンに話を戻しましょう。

 カレンがボブに汚れた服を拾ってくれるように頼んだ時、彼女の心(mind)の中では、とてもシンプルで合理的な要求をしているつもりでした。しかし、ボブの心の中では、シナリオは全く違っていました。彼がカレンに結婚を申し込んだ時、彼が求めていたのはカレンではありませんでした。彼がカレンに投影していたのは、全てを愛する女神だったのです。現実のカレンは、ボブが投影した霧のようなロマンチックな妄想の世界に紛れ込んでしまいました。ボブは、本当に正直で良い人であるカレンの一部を見て評価していたと思います。しかし、そこには多くの投影が混じっていたのです。こうして、彼の悲劇の第3幕の舞台が整ったのです。

 つまり、現実の日々の生活の中で、カレンは、ボブが少しでも行動を改善する必要性を指摘しただけだったのです。しかし、彼はカレンのコメントを批判的で、品位を落とすものとして受け止めてしまいました。カレンの言葉を借りれば、彼が「おかしくなった」瞬間、彼はもはや妻ではなく、母親を見ていたのです。つまり、子供の頃に母親から吹き込まれた毒が、カレンとの関係を悪化させていたのです。

 ボブのアニマは、乱れていました。毒母を救い出すこと以外には、彼自身も彼のアニマも彼の妻も、この束縛から解放されることはありません。

 彼のセラピーの一環として、「サイコシンセシス(訳注3)」と呼ばれる深い変容のイメージを通して、彼のアニマとアニムスの両方に働きかけることを始めました。

[訳注3:「サイコシンセシス」は20世紀初頭、イタリアの精神科医ロベルト・アサジョーリによって作られた心理学の一体系。より詳しくは、こちらのサイトを御覧下さい。]


 このタイプのワークは、内的なイメージや靈的な光を使って、相反する心理的な力を扱うのに、とても効果的です。

 しかし、ボブは自分の内的世界に取り組む一方で、外的な現実、つまりカレンとの関係のダイナミクスに取り組む必要がありました。まず、彼は家の中で、自分の身の回りの世話をしなければなりませんでした。これは人間関係の基本的なことですが、ボブはある部分ではとても賢く、ある部分ではとても愚かであることに驚きました。でも、自分自身の感情に関わることでは、そういうことはよくあるのです。

 ここでは、ボブが妻との問題を解決するためには、思考や感情といった内的な世界と、行動という外的な世界の両方に、働きかける必要があったことを述べたいと思います。要点を言うと、本当に自分自身を変えたいのであれば、内面と外面の両方に働きかける必要があります。考えているだけではなく、実際に何かをしなければなりません。

 ボブとカレンは、お互いに相手を責めることなく、また不合理な行動に走らずにコミュニケーションを取るための新しい戦略を学びました。彼らの癒しのこの部分は、控えめに言っても退屈でした。ただ、対人関係の基本原則を確認することで、大きく前進しました。

 この記事では、これらの基本的な事項を確認することはできません。ただ、もしあなたがコミュニケーションに関してパートナーとの関係に悩んでいるのであれば、ハーベル・ヘンドリックス(Harvel Hendricks)の著書『あなたが望む愛を手に入れるために(Getting the Love You Want)』(未邦訳)を参考にしてみてはいかがでしょうか。ヘンドリックスの本は「コミュニケーション101」のような入門書なので、そのシンプルさに敬遠する人もいるかもしれません。しかし、私はいつも言っているのですが、基本的なことを復習するのは良いことだと思います。特に、最初から学んでいなかった場合は、そうです。

 しかし、多くの人がこの基本的なスキルを持ち合わせていないため、人間関係が、精神的・感情的・靈的な糧を生み出すようなものへと発展する望みが、ほとんどないというのは、悲しい真実です。多くの人間関係は、昼下がりのテレビ番組で見られるようなソープオペラのように、結局は悪化してしまうようです。しかし、「話し方」「聞き方」についての基本的な理解があれば、多くの人間関係は、そのような運命から救われるのではないかと思います。

希望と絶望のキッチン
 「人間関係という家」のどこかには、キッチンがあります。もちろん、私たちを支える栄養を用意するのもここです。ニューヨークのある精神科医は、自分のオフィスにキッチンを作ってもらったそうです。セラピーが終わると、彼は患者を自分のキッチンに連れて行き、長年かけて完成させた秘密のレシピで作ったスープを患者に与えました。彼は、自分の心理療法がより効果的であるのは、クライアントが愛情と気づきを持って準備された身体的な栄養を摂取しているからだと確信していました。

 「人間関係というキッチン」では、私たちがスープを作る材料は、私たちがどのようにお互いに話し、どのように触れ、どのように無数の小さなことをお互いのために、あるいは相手のために行うかです。

 私たちは毎日、人と一緒に暮らすことで、このスープを摂取しています。そして、お互いに経験する感情や思考形態は、食べ物の栄養素と同様に、私たちの身体性の一部として代謝されます。人間関係の感情的なトーンは、私たちを高揚させるか、同じことの繰り返しから抜け出せなくするか、あるいは私たちを落ち込ませるかのいずれかです。このように、私たちの人生観や自分自身の捉え方は、私たちが日々感情的に食べている希望や絶望に直接影響されます。

男 対 女
 数ヶ月前にバンパーステッカーを見ました。

 そこには、「女は金星人、男は馬鹿。」とありました。

 青いバンの持ち主は、男性との付き合いにうんざりしていたのでしょう。確かに、男性と女性の関係は難しいかもしれません。ここには、生物学的な理由以外にはありません。脳の働きやホルモンの分泌量が異なるため、世界の見え方や経験が大きく異なるのです。

 民族生物学者の故テレンス・マッケナは、テストステロン(男性ホルモン)には、三つの質問しかないと言っています。男性が誰かと出会った時、彼の深層心理は問いかけます。「ヤレるか?ヤレないなら、食べられるか?食べられないなら、殺してもいいか?」

 確かに、全ての雄がこのニッチに当てはまるわけではないので、これは単純化しすぎです。ただ、雄の行動には、ある程度関係しています。加えて、多くの雄は、できるだけ多くの雌に授精したいという、根深い願望を持っているようです。これは、一般的に雌が一人の相手を見つけて巣作りをしたいと考えるのとは対照的です。これらのことは、少なくとも生物学者によれば、人間の進化の根源にまで遡ることができます。

 男性と女性の関係において理解すべき本質的なことは、実際に、両者の世界の経験が全く異なるということだと思います。そして、その違いの多くは、それぞれの生物学的特性に根ざしています。言ってみれば、ハードワイヤード(訳注4:「論理回路がソフトウェアによらず、ハードウェアにより実現されている」という意味の言葉。つまり、この生物学的特性が構造として備わっているとトムは言おうとしている)です。

 私たち男女の違いは、「自然」と「養育」という問題になると、曖昧になってしまいます。つまり、私たちの違いの多くは、どれだけ生物的なものに起因し、どれだけ社会化されたものに由来するのか、ということです。評決はまだ出ていませんが、児童心理学者はいくつかの興味深い見解を示しています。

 言葉を話さず、社会性の乏しい2歳未満の少年少女たちが、テレビでアニメを見ていました。子供たちには何の理由もなく、アニメが止まり、画面が真っ白になりました。少女たちがよちよち歩きで、あるいは這ってテレビに近づき、テレビを動かそうとしても、その努力は報われませんでした。ほとんどの場合、彼女たちは泣き出してしまいました。

 しかし、男の子たちはテレビの前に行って、それを動かせないと、テレビを叩いたり蹴ったりし始めました。イライラした時の対処法には、男女で固有の違いがあるようです。

 また、脳が情報を管理する方法にも根本的な違いがあります。ある神経学者は、(何であれ)平均的な女性は、(同様に何であれ)平均的な男性に比べて脳梁の結合が23%多いと推定しています。つまり、女性は両脳の間に、より多くのコミュニケーションチャンネルが開いている傾向があるということです。その結果の一つとして、女性は、(一般的に)男性よりも、自分の気持ちを言葉で伝える能力が高いと言えます。

 しかし、男女の違いには、社会化の結果として生じたものもあると思います。数年前の夏の午後、当時7歳だった末っ子と一緒に、カヌーに乗った時のことを思い出しました。ドックに戻って外に出た時、彼は転んで手すりに足をぶつけ、大きな音を立てました。彼は自分の足をつかんで痛みに耐えていました。あまりの痛さに目からは涙が出ていましたが、声を出しませんでした。その姿はとても印象的でした。私は彼に「大きな男の子は泣かない」というメッセージを伝えたことはありませんでしたが、彼は明らかにどこかでそれを学んだのでしょう。

 男性同士の暗黙の了解ともいえる男のルールがいくつかあります。「泣かない」「弱みを見せない」というのは、確かに重要なものです。しかし、このように男性が自分の感情や弱さを見せようとしない生来の性質(場合によっては無能力)は、男女関係において問題となります。一つは、大雑把に言えば、女性は人間関係における相互のつながりを重視する傾向があります。感情を共有することや、それに伴う感情的な弱さは、関係を確証する重要な指標となります。一方、男性は自律性を重んじる傾向があります。そして、感情的な弱さは――その人の人生経験にもよりますが――、非常に脅威に感じます。

 男性は感情よりも思考に頼り、女性は思考よりも感情に頼る、というのは確かに単純化しすぎています。ただ、それがどの程度のものかはわかりませんが、ある程度の真実性はあると思います。心理療法士として働く中で、女性クライアントが、男性パートナーが頭でっかちで、感情を感じようとしない、あるいは感じられないと訴えるのはよくあることでした。そして、このような感情へのアクセスの欠如は、人間関係における真の問題を引き起こします。

 一方、私が知っている多くの女性クライアントも、同じ問題を抱えていました。つまり、感じることができず、頭の中で感情生活を過ごしているのです。彼女たちは、生物学的には女性ですが、文化的に偏った男性的な特徴をはっきりと示していました。このように、思考対感情は、多くの人が考えるほどジェンダーに根ざしたものではないのではないかと思います。

 これは、ジェンダーに基づく行動分野における多くの課題の1つを指摘していると思います。つまり、私たちの文化的なフィルターが作用しているということです。私たちは、男性には男性のあるべき姿を、女性には女性のあるべき姿を期待しています。それが正しい場合もありますが、そうでない場合も多いのです。厳格な性別の固定観念にとらわれることは、精神的・社会的な監禁に他なりません。実際には、(社会的に偏った見方をすれば)女性のように振る舞う男性もいれば、男性のように振る舞う女性もいます。これには様々な要因が考えられますが、先ほどお話した個人的なアニマやアニムスもその一つです。しかし、理由はどうあれ、人間関係の中で、一方が思考だけで世界を見、他方が感情だけで世界を見ていると、人間関係がうまくいかなくなる下地ができてしまいます。

 一般的に、男性は女性との関係において、いくつかの要因による問題を抱えています。一つは、前述のように、男性は感情的な弱さを避ける傾向があり、自分の気持ちを話すことをあまり好まないことです。これは、女性にとっては問題です。なぜなら、女性は一般的に言って、感情をバロメーターとして、関係がどのようになっているかを判断するからです。

 男女関係におけるもう一つの課題は、感情的な問題が生じた時、男性は解決策を求める傾向があることです。セラピーを受けているカップルで、何度も見たことがあります。女性が何か難しい感情の話をしていると、男性は必ずと言っていいほどパニック状態に陥ります。

 男性は自律的で行動志向の傾向があります。自分のパートナーが悩んでいると、彼らは何とかしてあげたいと思うものです。しかし、女性が自分の気持ちを打ち明ける時、相手に何かしてほしいと思っているわけではない場合があります。ただ、自分の気持ちを聞いてもらいたい、理解してもらいたい、自分の気持ちを無視せずに認めてもらいたいと思っているのです。

否認とプライド
 私たちの多くは、自分が間違っていることを認めたくありません。そして、やってはいけないとわかっていることをやっているところを見られると、多くの人は嘘をついてしまうようです。

 数年前の、かつての義理の母のことを思い出しました。彼女は糖尿病で、お菓子を食べてはいけないことになっていたのですが、その習慣がなかなか抜けませんでした。ある日の午後、タクシーを待っていると、彼女が財布の中のものを、巧みに口に入れているのに気がつきました。突然、空気中にほのかなチョコレートの香りが漂ってきました。夫は彼女に向かって、「また、お菓子を食べているのか?」と言いました。

 彼女は、口の中のボンボンの大きさに紛れて、「食べてない!」と言いました。彼は彼女の財布をつかみ、それを開けると、ハロウィーンのトリック・オア・トリートが誇りに思うような隠し場所が現れました。

 私を含めた多くの人々は、私が「マーリン・ファクター」と呼ぶ方法で、物事を処理しています。これは、伝説の魔術師であるマーリンのことではなく、我が家の犬のことです。マーリンは、セントバーナード、ブラッドハウンド、グレートデーン、マスティフの要素を併せ持つ、ごた混ぜの犬でした。全盛期のマーリンの体重は約160ポンド(約73kg)で、尻尾から鼻先までの長さは6フィート(約183cm)を少し超えていました。

 彼に許可を出すと、膝の上で丸くなろうとしました。また、家族と一緒に書斎でテレビを見るのも好きでした。ソファの端に座って、前足を床につけていたといっても過言ではありませんでした。それほど大きな犬だったのです。

 しかし、彼のお気に入りのポジションは、ソファの私たちの横、後ろ、そして私たちの上に乗って、寝そべることでしたが、それは、私たちが推奨しないものでした。というのも、彼はブラッドハウンドの血を引いていて、その体臭に圧倒されていたからです。特に、家の周りの森で、大好きな鹿の糞の中で転げまわった後は、そうでした。

 それは、少なくとも、週に数回は行っていた儀式でした。そして、否認の心理は犬にルーツがあるのではないかと考えさせられました。マーリンは、自分があなたを見られないなら、あなたも自分を見られないと考えていたのです。そこで彼は、行ってはいけないソファの場所に、よりこっそり近づくための方法を編み出しました。彼は後ろ向きにソファに忍び込むのです。そして、後ろ向きになって、彼は私たちから目をそらし、まるでそうすることによって、自分が私たちから見えなくなると思っているかのようでした。必ず家族の誰かが「マーリン!!!!」と、犬にもわかるような不愉快な口調で言うことになりました。彼はいつも、「どうして僕が見えたの?」というようなショックを受けた顔で私たちを振り返りました。

 人間の否認とは、そういうものだと思います。自分が気づかないふりをすれば、周りの人も気づかないかもしれません。これは滑稽なことでもありますが、人間関係、正確には「神聖な関係(Sacred Relationship)」においては、非常に大きな問題です。

 否認することで、うまくいく関係もあります。実際、それがなければ、崩壊してしまうものもあるでしょう。しかし、「神聖な関係」は、相互の信頼と真実の基盤の上に成り立っています。パートナー間の誠実さがなければ、「神聖な関係」は存在しません。ですから、否認はこの種の関係にとって、ある種の死の警鐘なのです。

 関係性の中で全てのことを、互いにはっきりと正直に話し合うことは、非常に謙虚な経験となります。また、正直なところ、腹立たしいことでもあります。人間関係に役立たない態度や行動を自分やパートナーに突きつけられることは、自分の性格、より正確に言えば、自分の性格の欠点に直面することになるからです。

 当時80代だった友人が言った、ある言葉が忘れられません。「人には致命的な欠点があります。大切なのは、それをどのように扱うかです。それが重要なのです。」

 「神聖な関係」で求められる正直さと非の打ちどころのなさは、自分の隠れた欠点や欠陥をすぐに、はっきりと意識させます。このような自己認識は扱いにくいものです。しかし、それなしには、真の心理的・靈的成長は望めないと、少なくとも私は考えています。

 多くの人にとって問題なのは、自分の欠点や欠陥を目の当たりにすると、意気消沈してしまい、それらが存在しないかのように装ってしまったり、あるいはプライドを持ったりするようになります。

 ここで言う「プライド」とは、ポジティブな自尊心に関係するものではありません。私が言っているのは、問題を回避するためのプライドのことです。自己認識に直面することを避けるために、他に何もしない場合、プライドがその役割を果たすことが多いのです。おそらく、「傲慢」という言葉の方が適切かもしれません。私のノートパソコンに入っているシソーラスによれば、この2つの言葉(プライドと傲慢)には、互換性があります。傲慢さは他の人々を遠ざけ、すぐに溝を作ってしまいます。そのような態度の前では、ほとんどの人は、諦めて身を引いてしまいます。

 私は個人的に、自分の様々な傲慢なサブパーソナリティにニックネームをつけることが役に立つと思っています。チャールズ・トーマスもその一つです。これは私の父の名前です。私自身のアニムス(内在化した男性的側面)には、残念ながら、頑固さのような否定的な性質があります。また、私にはどちらかというとダチョウに似た別の側面があります。ダチョウは御存知のように、危険や脅威に直面した時に、一風変わった行動を取ります。地面に頭を突っ込むのです!これは、先ほどお話した家庭犬のマーリンのようなものかもしれません。

 いずれにしても、このような心理的な側面に愛称をつけることで、感情的になるのを和らげることができます。自分でやってみて下さい。今度、自分の心理的な地下世界から、才知のない厄介な自分が現れたら、ショックを与えて、名前を呼んでみて下さい。

 私がこのようなおかしな提案をしたのは、「神聖な関係」を試みる人は、自分自身について機知を持っている必要があるからです。私たちは持てる限りの方策を必要とします。そして、自分自身の中に、才知がないだけでなく、まさにマイナスの影響を与えるような側面が出てきたら、速やかに対処するのが一番です。自己のネガティブな部分は人間関係を破壊してしまうので、それを正面から受け止めることが大切です。そして、ユーモアほど迅速に作用するものはありません。

 「神聖な関係」という実験を生きようとしている私たちは、地図や文化的理解の助けを借りずに行動しています。それはまさに、道なき道なのです。そこで、一人の旅行者として、次のようなシンプルで実用的なアドバイスをします。否認、プライド、傲慢さは、私たちにとって、最悪で、最も厄介な敵かもしれません。彼らは奇妙なタイミングで現れることがあります。そのような場合、私が提案するのは、自分の内面を深く見つめることです。「何を避けようとしているのか、そしてその理由は何か?」

最終的考察
 「人間関係という家」に住む私たちにアドバイスがあるとすれば、所有していない欲望をお互いに投影することなく、純粋にお互いを理解しようとすることです。そして、お互いの違いを称賛することです。結局のところ、人生を面白くするのは、私たちのユニークさなのです。関係を成長させるには、二人が同じことをしたり、世界を同じように見たり経験したりする必要はありません。ただ、受け入れ、感謝し、お互いを尊重する気持ちがあればいいのです。

 最後に、時々、トイレが逆流することがあることを知っておいて下さい。これが意味するのは、あなた方のどちらか、または両方が、あまりにも多くの恨み(糞)を飲み込んでしまって、今こそ、それに対処する時だということです。確かに、恨みは小さい内に処理した方が楽ですし、面倒ではありません。しかし、処理する機会を逃してしまい、トイレが流れなくなってしまったら、何か行動を起こしましょう。

 驚くべきことに、配管に問題があったり、感情的に困難な状況になったりすると、「家」を放棄するサインだと考える人が多いのです。そんな人たちに、私は3つの小さな言葉を贈ります。しっかりしなさい(get a life)。責任を持って下さい。パートナーと腹を割って話しましょう。後始末をしなさい。そして次は、パートナーからの糞を飲み込まないようにしましょう。責めたり、操ったり、恥をかかせたりせずに、何かあったら相手に注意を促しましょう。

 しかし、時には家を出て、歌にあるように、「ジャック、旅に出て、もう戻ってこないで」と言った方が得策の場合もあります。もし、あなたがパートナーから肉体的に脅かされていたり、感情的に虐待されていたりしたら、その地獄から逃げ出す方法を考えた方がいいでしょう。闘う価値のない人間関係もあります。中には有毒で、捨てなければならないものもあります。しかし、残念ながら私は、あなたの「家」が救うに値するかどうかを測ることができる魔法の定規を持っていません。それを決められるのは、あなただけです。もっとも、もしあなたのパートナーが、関係についてのあなたの気持ちを話し合おうともせず、あなたが心の底からそうではないとわかっているのに、「今のままでいい」と言い張るなら、それは荷造りを始める良いサインだと言えるでしょう。あるいは、もし離れることができないのであれば、心理的な面で自分を大切にする方法を考えて下さい。つまり、ネガティブな人間関係によって、自分自身の感覚や自尊心が損なわれないようにするのです。

 「人間関係という家」に留まることを選択し、お互いに本当の自分を認める勇気と優しさを見つけた私たちにとって、魔法はしばしば結果として現れます。これまで心理的な投影や恨みによってお互いの姿が見えなくなっていたパートナーたちが、ある日突然、初めて、お互いの姿をはっきりと見ることができます。

 あれほど暗かった家の中の部屋が、苦労して手に入れた自己認識という貴重な光で突然、照らされます。そして、レンガの壁に面していた部屋は、突然、太陽の光で満たされます。なぜなら、私たちを互いに、そして世界から隔てていた壁が単純に溶解するからです。


アニマとアニムスの錬金術的象徴主義
 いくつかの錬金術的伝統――特にヨーロッパ以外の地域――では、アニマとアニムスのバランスを取ることを「聖なる両性具有(Sacred Androgyne)」と呼び、男女両性者――半分は男、半分は女――として表現しています。いくつかの伝統では、この形象は、実際に「聖なる男女両性者(Sacred Hermaphrodite)」と呼ばれています。この言葉は、神性の男性的側面と女性的側面を表した、ヘルメスとアフロディテの結合を意味しています。

 錬金術の図像では、「両性具有」の形象は炉や火の中から出てくるように描かれることが多く、頭上には太陽や月が描かれることもあります。火は、哲学者の石――高められた靈的意識状態(少なくとも、内なる錬金術の秘教的形態においては)――を得るために必要な、錬金術的な浄化の炎を表しています。秘教的(あるいは外面的)な錬金術では、哲学者の石は、鉛や卑金属を黄金に変える、重要な触媒因子になると、信じられていました。

 秘教的錬金術では、男女両性者の上にある太陽と月は、意識の太陽的側面と月的側面のバランスを表しています。錬金術的に言えば、太陽は男性(アニムス)と靈(spirit)を、月は女性(アニマ)と物質を表しています。靈的な錬金術の聖なる課題は、太陽と月のバランスを取り、「聖なる両性具有(男女両性者)」を生み出すことです。そうすることで、靈的知覚の高い領域にアクセスできるようになります。

 これは、ユング心理学の課題に非常に似ていますが、錬金術の形式では、文脈は靈的なものです。ユング派のワークの文脈は、心理的なもの、あるいは、おそらく精神的・靈的なものです。

 錬金術の図像における男女両性者の使用は、他の伝統にも見られます。シヴァ神の形には、高度に両性具有のものがあります。シヴァは死の神であると同時に、ヨギとヨギーニの守護神でもあります。その両性具有の姿はシャクティ(宇宙の女性的な力)と融合しています。

 「アルダナーリーシュヴァラ(Ardhanarishwara)」の姿のシヴァ(訳注5:原文に画像はないが、参考のために、下記に掲載します)は、男女両方の性器を持った姿として描かれています。この特異な象徴性は、タントラ・ヨガの最も深い錬金術的秘密の一つを物語っています。それは、人の内なる男性性と女性性がバランスよく結合した時に、偉大な靈力が得られるというものです。

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 自分自身の内なるエネルギーのバランスを取ることは、まさにある種のヨガの課題です。ヨガの解剖学によると、私たちには、背骨から頭頂部まで走る3つの微細な経路があります。中央の水路は「スシュムナ(sushumna)」と呼ばれます。ここは、クンダリーニ・シャクティ(生命エネルギーの巻きついた蛇と女性性の両方で表現される)の通り道となっています。クンダリーニは背骨を上昇しながら頭に入り、シヴァと結合して悟りや解放をもたらします。

 スシュムナの両側には2つの経路があり、1つは内なる太陽(または意識の男性的側面)に関連し、もう1つは内なる月(または意識の女性的側面)に関連しています。太陽の経路は「ピンガラ(pingla)」と呼ばれ、月の経路は「イダ(ida)」と呼ばれています。ピンガラとイダのエネルギーのバランスが取れた時、ヨギやヨギーニは、常に存在する超越的な「自己」を垣間見ることができます。

 意識の男性的側面と女性的側面のバランスを取るというテーマは、チベット仏教においても、男神と女神が性的・靈的なエクスタシーを得て結合する様子を描いた、「カラチャクラ(Kalachakra)」という形で現れます(訳注6:原文に画像はないが、参考に、下記に画像を掲載します)。カラチャクラの視点では、この男性性と女性性のバランスを取る点が、万物の根源であり、また、人間であれ超人間であれ、全ての創造物の根源であるとされています。

画像2


 東洋の伝統からユダヤ・キリスト教に目を移すと、「聖なる男女両性」というテーマが、意外なところで繰り返されているのがわかります。

 『トマスの福音書』は、20世紀半ばにエジプトで発見された『ナグ・ハマディ文書』の一部として発見されるまで、失われていた写本です。

 この福音書の中で、イエスは、古典的錬金術の「聖なる両性具有者」や、シヴァ神のアルダナーリーシュヴァラの姿に酷似したことを言っているとして、引用されています。

 「あなたがたが二つを一つにするなら、そして内側を外側と、外側を内側と、上を下と同じようにし、男性と女性を一つにするなら、男性は男性でなく女性は女性でなくなるだろう・・・その時、あなた方は(王国)に入るだろう。」

 この文章は、肉体的な両性具有とは関係なく、王国とは、意識の内なる男性性と女性性のバランスを取った時に得られる心(mind)や意識の状態のことであると、私は考えています。

訳者補足
 ハトホルやトムの記事で、本記事と関連すると思われるものを、いくつか挙げておきます。

ハトホル
 「The Healing Power of the Human Heart(人の心の癒しの力)2013/04/13
 「Duality and the Triune Force(二元性と三位一体の力)2012/07/01

トム・ケニオン
 「The Myth, the Hero and the Lie(神話、英雄、そして嘘)
 「On the Nature of Boundaries(境界線の本質について)
 「Wrestling Crocodiles In the Courtyard of the Sun(太陽の中庭でクロコダイルと格闘する)
 「When Our Instincts Are Wrong(私たちの本能が間違える時)


以前の翻訳記事はこちらをご覧下さい。


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