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イエスになってみた
変な本に出会う
昨日出たばかりの、植原紘治・服部みれい『わたしにうれしいことが起こる。 ゆるんだ人から、叶っていく』徳間書店という対談を読んでいます。
植原紘治さんは、関英男博士と加速学園を創設した人で、未利用の能力を100%活かす速読法「デルタ脳波速読法」を開発した人です。それを「ルン・ル」といい、会員制度で全国で展開されています。
この本にも植原さんの「ルン・ル」の音がCDで入っています。
服部みれいさんはエムエム・ブックスの創業者・編集者です。
こちらで書いた天縄文理論の本も出しています。
植原さんとの対談本は、みれいさんの動画か、amazonを見ていて、直感的に「これだ!」と感じて、手に取りました。
今日書こうとしているのは、本の紹介ではありません。
本の中で、植原さんが述べられていたことに触発されたことについてです。
俺が釈迦になってみたら、釈迦のことがわかるかも?!
植原さんは、「本当の釈迦とはどうだったんだろう」という疑問をお持ちになり、ある時、「俺が釈迦になってみよう」と決めたといいます。
釈迦は、威張ったことは一切いってないんです。本当の決まりなんてわずかしかいっていません。ただ、ああいうことをやりはじめれば、(教え)が広がっていくことがうれしい人たちもいっぱいいるわけだよね。「尊師よ、そろそろサンスクリット語でお話しなさったほうがよいのではないですか?」なんて。
そうすると釈迦はこういったんだ。「いや、わたしはサンスクリット語は使わない。みんなが使っていることばを使う。」あの頃のサンスクリット語(梵語)といったら、ヒンズー教の人たちのことばでね、エリートの人たちのことばだったんです。
それよりもね、釈迦は本当に何をいいたかったんだろう、何をみんなと話していたんだろう、どういうふうに伝えるんだろう・・・そう考えていくと、おもしろいことがわかったんです。仏教の弟子たちは、来るのも消えるのも自由だということがわかった。「尊師よ、わたしは7日間ほど家に帰ってきます。その間は出家をやめます」、「どうぞいってらっしゃい」。「ただいま帰りました。今から出家します」って。釈迦だってやっていたんだ、「ちょっと出かけてくる」って。こんなこと誰もいわないけどね。
このように、御自身が釈迦になってみて気づいたことを、植原さんは述べておられます。
本業の僧侶の方はブチ切れるかもしれませんが、私は面白いと思いました。
自分に当てはめて考えてみると
私はクリスチャンで、教会の語るイエスや神には違和感しかありませんでした。
愛どころか、サイコパスなことをしたり言ったりする牧師が語る愛は、嘘っぱちだと感じてました。
「いや、そうは言ってないでしょ」とか「なんでそうむずかしく考えるかな」とか、直感的に「絶対、イエスはこんなことは言ってない。こう言っていたはずだ」というのがありました。
今まではそれをあまり言わないようにしていましたが、これから(といっても2年前ぐらいからやってますが)は、どんどん言うようにしようと思いました。
それで、植原さんに倣って、「よーし、俺がイエスになってみよう」と、今日の午後、ちょっとやってみました。
やってみたのは短い時間ですが、そこで感じたことを、書きます。
イエスになってみて
釈迦と同じで、イエスも、戒律とか掟をそんなに言っていないです。
マルコ福音書12章 28-31節にこうあります。
彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」
これは、律法学者が「どの掟が最も重要か」と聞いているから、これが最も重要だと述べているだけで、イエス自身は掟を課したとは思っていません。
むしろ、彼にとっては、これは公理であり、宇宙の法則だった。
「愛のあるところに序列なし、支配なし、搾取なし、競争なし」
言語にすると、「神を愛する。自分を愛する。隣人を愛する」と三つのことをするように思えますが、そうではありません。
これは、一つのことを三つの側面から述べています。
そもそもイエスはこれを、ハートから述べています。
ハートでいられるようになれば、すべてが一つの感覚となり、分離感がなくなります。
そこでは、神と自分と隣人は、分離していないのです。
ここがポイントです。これがつかめれば、「神を愛し、隣人を自分のように愛しなさい」はわかります。
また、ハートでいられるようになれば、「自分の外にあるもの、見えるものは、自分の心を映し出した鏡」という「鏡の法則」がよりわかる境地になります。
頭やマインド・知性に意識が向いていると、これは全くわかりません。
今迄、頭で、イエスの言葉が解釈されてきた
だから、「神を愛し、隣人を自分のように愛しなさい」も、頭、もっと言えば左脳偏重の人は、全部バラバラに考えます。
これにずっと強い違和感を抱いていました。
左脳偏重の人は、例えばこんな風に考えます。
「神を愛する。次に隣人を愛する。最後に自分」
言語の仕組み上、致し方ありませんが、こういう順番とか優劣で考えてしまうのです。
そして、自分に無体なことをし、他人を平気で虐待していながら、それを「愛」だとほざきます。
実際、教会では、自分を後回しにすることが「いいこと」と勘違いした人が多い。
自分の苦痛を後回しにして、他人の世話を焼くのがいいことのように考えている人もいます。
それは、自分に対する愛の欠如した行為です。
他者へのイジメも、自分イジメも同罪
いったい自分を大切にできないで、他人を大切にできるわけがありません。
自分という神を大切にできないで、他人の中に神を見出せるはずがありません。
ネパール語の「ナマステ」とは「こんにちは」という挨拶の言葉ですが、原意はこういうものです。
「私の中の神が、あなたの中の神に御挨拶します。」
とてもすばらしい言葉だと思いませんか?
これがわかるのは、ハートで生きられるようになった時です。
イエスの言葉の大半は、ハートから出ているにもかかわらず、それを受け止めた人の大半は、頭で生きていたのでしょう。
それが、神学ができた根本的な理由であり、あれほど複雑にイエスのことが解釈されてしまった理由だと思われます。
何でしょうね、テクニックばかりに頼って、目の前の人が見えなくなる非モテみたいですね。
話を戻すと、釈迦同様、イエスは、誰にでもわかるような平易な言葉で語りました。
少なくとも、学者しかわからない言い回しはしませんでした。
誰にでもわかるような言葉で語り、自分の本質に、正直に、そして自由に生きた方です。
いろんなことに縛られ、捉われている人からすると、相当鬱陶しかったことでしょう(笑)
イエスのメッセージの最も根幹の部分は、「神の国・天国は、あなた方の中にある」だと思います。
天国は、あなたが思っているよりも、ずっとずっと近くにあるのだ。それを見つけなさい。
そのための補助線が、「神を愛しなさい。自分を愛しなさい。隣人を愛しなさい」だったと言えるでしょう。
これは、言語の構造上、順番に書いていますが、「自分を愛しなさい。隣人を愛しなさい。神を愛しなさい」でもかまいません。
なぜなら、自分=神だし、隣人=神だし、そして隣人=自分だからです。
これは頭では決してわからない。
ハートでなければ、わからない。
ハートにはハートの論理がある。それは頭の論理とは違います。
自分の外側で何が起きているように見えようとも、いたるところに愛や神を見出せるなら、そこは天国と言っていいのではないでしょうか。
イエスの生涯は、人々が、それを自分の人生で真摯に探究するのを促すために捧げられた、今、私はそう感じています。
彼は信奉者も崇拝者も求めなかった。
むしろ、自分がいなくなっても、弟子たちが、自分の足で歩いていけるようにと願っていた。
ゆたかさんの記事で、こんなことが書いてありました。
ニーチェは、お弟子さんが一人前になったら巣立ちを促したそうです。
「これからは自分の道を行きなさい。そして私から教わったことは全て忘れるように」と。
とても誠実ですよね。
ニーチェは、お弟子さんをニーチェ信者にするつもりは無いんです。
弟子を自分の色に染めたり、自分のカーボンコピーにするのは、ただの洗脳だからです。
それではその人の光も色も消してしまうだけです。
真の教えとは、その人固有の光を更に輝かせて
その人の独自色を更に鮮やかに発色させてあげることだからです。
より、その人らしくなれるように。
より、その人の純度が高まるように。
より、その人の真価を発揮出来るように。
その人のままでいる事が、その人にとっての幸せだからです。
Aさんは、Aさんのままでいいのです。
Aさんを、Bさんに作り変えなくてもいいのです。
今迄、教会がしてきたのは、イエスの教えを捻じ曲げ、その人固有の光を輝かさせないようにすることだったのかもしれません。
確かに、「神様はあなたを愛しています」と言います。
でも、「教会の様々な規則・ルールに従わないと、神から離れます」と言います。
脅しですね。
こんなのは愛でもなければ、宇宙の法則でもなく、イエスの伝えたかったことでもありません。
イエス、イェシュア・ベン・ジョゼフは、真のマスターでした。
イエスは、「私と父なる神は一つである」と言いました。
そして、「あなた方も、そのようになれば、私以上のことができる」と言いました。削除されましたが。
イエスが父なる神と常に語らっていたように、我々も、一人一人が、自分の内なる神と語らえばいいのです。
むしろ、そこでは、他人の声・神学・情報・世界情勢は完全に邪魔なので、遮断が望ましい。
自分軸がないのに、他人の声を聴いてどうするというのでしょうか。
そして、イエスの心にあったのは、ただ、愛だけでした。
ここに、愛を補給する簡単なワークが書いてあります。
今、辛い人、苦しい人、寂しい人は、愛が足りてないのです。
それは、自分で補給しましょう。なぜなら、自分にしか、それはできないからです。
自分を充分に愛した人だけが、他人を充分に愛せる。
自分の中に愛の足りてない人は、他人に与える愛を持っていません。
まず自分を愛しましょう。
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