出会うべくして出会う
出会いは起こるべくして、起こる。
本、映画、音楽、人(リアル、オンライン)、出来事など、自分の最適なタイミングで出会うのだと思う。
山田さんを知ったきっかけを振り返る
山田貢司さんのブログを最初からゆっくり読んでいる。
山田さんを知ったのは、Twitterで相互フォローしているロニさんが、時々、引用リツイートやリツイート、コメントをしていて興味を持ったのがきっかけである。
しかし、最初は、「なんか、むずかしいことを言っているな~」という印象で、さして気にも留めなかった。
9/2(木)に、山田さんの「脾臓の造壊機能(体内時間)と脳内時間整合サウンド」をTwitterで聞いて、「おや?」と思った。
確かに体感があったのと、もっと多くの人に紹介したいと思って、note記事を書いた。
おそらくこの頃から、山田さんのTwitterアカウントの通知機能を入れたように思う。
しかし、9月頃は、トム・ケニオンとハトホルの翻訳に熱中していた頃で、ゆっくり見ることはしていなかった。
9/11(土)に、「脳内で超高音を出す実験」という記事を書いた。
この頃は、これが面白いとは感じたが、山田さんに注目するまでは行かなかった。
10月に入って
10/6(水)に立体視についての山田さんのtweetを目にしてチャレンジをしたが、できなかった。
以後も、取り組んでいる。
10/9(土)に、「変性意識予備訓練でカエルの歌を歌う」を書いた。
これはいまだにうまくできないのだが、「できるようになったら、すごいことができるぞ」という直感はあったので、記事にした。
そして、しばらく他の人のまとめ記事を書いたり、密林倉庫でのバイトとその余波があったり、山田さんのtweetを読めない時期が、少しあった。
11月になって
11/3(水)に、「脾臓の造壊機能(体内時間)と脳内時間整合サウンド」は定期的に聞いた方がいいことを思い出す。
11/13(土)頃から、「時間を忘れるぐらいの勉強」で、脳を鍛えるtweetを見た。
そして、「G# 下垂体、甲状腺、副腎皮質ホルモン連携正常化サウンド」(※音源は最下部の「山田貢司さんのポリフォニック動画」で視聴可能。以下同じ)を聞く。
11/14(日)、ふと思い立って、youtubeの「θ波誘導inguitar」を聞いて、いい感じに、θ波になって、その状態が気持ちよく、数時間、持続した。
またこの日、友人の演奏会があって、オルガンの一音一音が脳の異なる部位で反応していて、それが面白いと感じたものである。
11/15(月)に、山田さんのブログ記事を読んでみようと思って、読んでみた。
最初から読むのではなく、2013/02/27「イエスが水をワインに変えられた理由」を読んだ。
本文だけでなくコメントも盛り沢山な内容だった。
アカシックリーダーのゲリー・ボーネルについてコメントをしている人がいて、軽く驚いた。
一時期、ゲリーの学校で学んでいたからであるし、コメントしていた人が触れていたゲリーの自伝も読んでいたからだ。
脳トレをやってみる
そして、山田さんブログ「階層構造2_脳トレ(2011/07/16)」にある脳トレをやってみた。
脳の部位で音が違う!!
11/15(月)以後、山田さんのtweetやブログを読み、脳トレをしたり、音源を聞いたりするようになった。
以前は散発的だったのが、持続的になったということだ。
そして、ブログを、最初からゆっくり読んでいる。
ブログを最初から読んで気づいたこと
それを読みながら、山田さんが今の山田さんになっていくのには一定の過程があったこと、時間が必要だったこと、様々な反応を体験してきたこと、人々からの賞賛と怨嗟をくぐり抜けてきたことがわかってきた。
もし2011年頃に、山田さんのブログを読んだら、当時の私の意識状態からして、弾いてしまっただろうと思う。
人によっては、その頃から現在まで山田さんに付き合い続けられた人がいただろうし、途中で、何らかの理由で離れてしまった人もいるかもしれない。
それが何らかの人間ドラマ――嫉妬や裏切りや反発――といった形を取った場合もあるだろうし、他の何かに取り組んでいる内に、興味が移ってしまったというケースもあるだろう。
何事にも時がある
出会いに時があり、離れるに時がある。
自分のこれまでの出会いと別れを振り返ると、その時はわからなくても、後で振り返ると、「あの時が、出会いのタイミングだった。別れのタイミングだった」とわかることが多いことに気づかされる。
山田塾には入ってみたいとは思うものの、準備が整っていないから、まだ当分、先になると見ている。
今は脳トレをしたり、音源を聞いたりして、深層脳を自覚的に使えるようになるのが、先決である。
私の場合、出会いの時は、わりとわかりやすい。
山田さんのように、数回、小さなポイントがあって、積み重なってのめり込むというパターンと、一冊の本や一曲の音楽に触れてはまり込むというパターンと、おおよそこの二つがある。
文章の先生に出会った時は、後者。
その人とは、数年会っていないし、今後も会うつもりはない。
必要なことは学んだからだ。
デーヴィッド・アイクは、どちらかと言えば、前者。
本人にはリアルで会っていないが、本を本腰入れ読むまでに、数回、断片的に情報に触れることがあった。
ともあれ、出会いには、タイミングがあるということだ。
その時、自分の準備ができていなければ出会えないし、あるいは、相手の準備ができていなくて、出会えない場合もある。
自分と相手、そして状況、全てが整う時に、会える。
少なくとも、私自身は、ある人や本に出会って、自分がどう変わるかを予想していたわけではなく、起きることに対してオープンではあったと言える。
開かれていて、かつ、正直に
開かれている。そして、正直である。
出会いにおいては、それがとても大事だ。
やっていることと自分の気持ちにズレが生じてきたら、それは、別れの兆しかもしれないので、関係を再考することをお勧めする。
自分が変わる必要があるサインかもしれないし、別の道を行く時なのかもしれない。
それに向き合わないでいると、とてつもない破局になることもある。
そういう形を取る必要があるとは思わないが、私は、自分のサインを、意図的に無視していたので(心地いい関係を終わらせるのは、なかなかに辛い)、非常に厄介な形でお別れをしたことがある。
出会いと別れにおいて、正直であるのがむずかしいのは、もしかすると、別れの時かもしれない。
どういう形であれ、お別れをしたら、少し時間を取って、その関係を冷静に見られるまで待つ。
それから、出会いの意味を自分なりに腑に落として、次に進む。
別れの直後にやると、全否定をしかねないからだ。
その出会いがあったからこそ、今の自分がある。それは否定する必要のないことだ。
この記事が、出会いについて思いめぐらす一助になれば、幸いである。
山田さんについての記事
( ´∀`)サポート本当にありがとうございます!!😭😭😭🥰🥰🥰 ( ・ ∀ ・)ご恩返しするためにも、今後も一生懸命頑張ります!!😊😊😊