『聖なる予言』は、私にとって一つの扉だった
少し大きな本屋に行くと、「精神世界」という名称のコーナーを置いている店がある。
神秘学、宗教、魔術、占星術、ヒーリング、エネルギーワーク、古代文明、陰謀論、天使、アカシックレコード、タロットといったテーマの本が玉石混交の如く、並んでいる。
初めて触れた、「精神世界」の本
初めて触れた、「精神世界」の本は、ジェームズ・レッドフィールド『聖なる予言』だった。
高校一年か二年頃で、当時住んでいた場所の近くにあった書店で、偶然、手にした。
翻訳が出たばかりで、濃い緑色の表紙に、小さな森の絵が描いてあったのではなかったかと思う。
本棚には「精神世界・思想・哲学」というような名称がついていたように記憶している。
著者が誰かも、どんな本かも知らなかったが、何となく気になって、手に取って、パラパラめくった。
そして、すぐに買って、数日で、読み終えたように記憶している。
どんな作品か?
これは、第二の千年紀が終わる1990年代後半になってからの、人々の意識の変化を、冒険小説の形をとって描き出したものだ。
主人公は、「意味のある偶然の一致(シンクロニシティ)」に導かれて、南米で発見されたという、知恵が記された写本を巡る旅に誘われる。
学校を出て、仕事に就き、結婚してということ以上の何かが人生にはある。
そんな予感めいたものを誰しもが抱いているが、多くの人は、日常に忙殺されて、そこまで関心を広げられない。
だが、内側の切実な希求はやみがたい。
主人公もまさにそんな人の一人だった。
旧交を暖めることから、人生は新しい展開を見せる
旧友からの連絡をきっかけに、隠遁生活をしようとしていた主人公の人生は新しい展開を見せる。
エネルギー、人間関係における権力闘争、神秘体験、過去の清算、人との新しい関わり方。
そうしたことが、主人公の体験や物語の展開を読むことで、読者も追体験できるように書かれている。
古い表現だが、この作品は、一種の「教養小説(ビルドゥングス・ロマン)」とも言えるのかもしれない。
有名なので言えば、ゲーテの『ヴィルヘルムマイスター』や、ヘッセの『デミアン』が該当するだろう。
主人公に感情移入することで、自分の人生の隠れた面が露になる、そんな小説である。
ガイドブックと神秘体験
著者のレッドフィールドは、自分が生きている現代という時代における意識の変化を描こうと思っていたようだが、読者から、小説に書かれた「9つの知恵」を日常生活で活かすためのガイドブックを強く求められて、後にそういう本を、キャロル・アドリエンヌと共著で作った。
少なくとも、私にとっては、小説で出てきた知恵が描いている事柄を、自分も体験したいと思っていたので、ガイドブックが出ると、即座に入手した。
これは、ガイドブックが出る前だったと思うが、『聖なる予言』を読んでしばらくしたある日のことだ。
高校の最寄り駅を出て、少し歩いたところに、草が生えている小さな一角があった。
その横を通って、学校に行くルートを歩いていたのだが、その日は、その草の色がとてつもなく鮮やかで、美しく映った。
実際、『聖なる予言』でも、植物のエネルギーに敏感になることで、植物が持つ美が強く顕現する描写が出てくるが、まさにそんな感じだった。
おそらく、作品を読んで、「ひょっとしてこういう体験は自分にもできるかもしれない」と無意識に思って、ちょっと扉が開いたのだと思う。
ただ、それをさらに突っ込んで探求しようという思いは、「ガイドブック」が出るまでは抱かなかった。
『聖なる予言』は、その後、時間を置いて、『第十の予言』『第十一の予言』『第十二の予言』と出版された。
四作品とも、今では、角川文庫で読める。
ちなみに、翻訳は、山川紘矢・亜希子夫妻で、『聖なる予言』で初めて、お二人の名を知った。
ご夫妻の最初の翻訳書は、シャーリー・マクレーンの『アウト・オン・ア・リム』で、これの次が『聖なる予言』だったのではないかと思う。
自分の日常が旧友との出会いや、ちょっと立ち寄った場所での思わぬ出会いで、想像を超えた展開を見せるというのは、ファンタジーの世界では、よくある形だろう。
最近の、精神世界の小説で言えば、『アナスタシア』が『聖なる予言』に近いかもしれない。
小説作品の内容が小説だけに留まらず、読者の現実の生活を変えていく知恵を含んでいる点が、共通している。
他にもあるかもしれないが、調べていないので、よくわからない。
今ではネットでの交流は珍しくないが・・・
今でこそ、Facebookのグループページやオンラインサロン、ブログ、Twitterなどで、精神世界の情報を発信したり、仲間を見出したりするのは容易だが、当時はインターネットがなかったし、周りとは読書範囲が明らかに違っていたから、本の内容を語り合える人もいなかった。
もっとも、私にとっては、探究すべき世界の窓が開かれただけで充分で、仲間がいないこと自体は、さして気にならなかった。
『聖なる予言』を手に取った1990年代後半には、今のように、多くの人が精神世界の情報を発信したり、セッションをやったりしているなどとは、夢にも思わなかった。
とはいえ、何度か、こういうブームはあったようだし、「精神世界」という名称がつく前から、シュタイナーや井筒俊彦、グルジェフを読んでいた人が、私より上の世代にいたことを知った。
以前、シュタイナー研究者の高橋巖先生から聞いたことだが、1960年代に、「シュタイナーをやっている」と言うと、かなり奇異な、異端的な目で見られたらしい。
今は、シュタイナーの神秘学の面も含めて、かなり市民権を得てきたように思う。
高橋先生は、井筒俊彦の弟子筋に当たる人だが、井筒俊彦が広く読まれるようになったのは、2013年に『井筒俊彦全集』が刊行されて以降で、それ以前は、一部の「知る人ぞ知る」人だったように思われる。
私は、名前は知っていたが、本格的に読もうと思ったのは、全集刊行以降だ。
少なくとも、一昔前ほど、精神世界や神秘学が一部のオタクだけが手にする分野とは、見られていないように思う。
瞑想に取り組むことも、半ば、ふつうのことになってきている。
夢日記を書くのも、おかしなことには見られていないのではないか。
夢が雑多な情報の混合物ではなく、何か、意味のある情報だと考え、それを記録し、分析するというのは、元々は、神秘学や魔術を志す者が行う営みだった(行をやると、夢の内容が変わってくるので、それを記録することで、自分の内的な変化を辿るのだ)。
だから、定期的に夢日記を書くようにすれば、神秘家になれてしまうとも言える。
もちろん、夢が意味ある情報の宝庫になってくるには、かなりの時間を要する。
おそらく、フロイトやユングといった精神分析学の分野で夢を分析することがなされて、それが次第に、市民権を得るようになっていったのだろう。
一つの原点としての『聖なる予言』
話を戻すと、アニメや漫画を抜かすと、見える世界と重なる見えない世界と、多くの人が捉える以上のものが人生にはあるという手ごたえは、『聖なる予言』が感じさせてくれたものだ。
この本は、私の一つの原点といっていい。
もう何度目かになる再読を、今、している。
今の私は、主人公の年齢と大体同じぐらいだろう。
いつ読んでも、自分と世界の未知の面を探求しているという手応え、「人生にはこれ以上の何かがある」という感覚が得られ、その度に、新鮮な感じを抱いている。
初めて手に取って以来、自分なりにいろんな体験をし、いろんな本を読み、セミナーに行くこともしてきた。
今、『聖なる予言』を再読していて、私にとっては神学や知識よりも、体験と、何かを掘り進む感覚が欠かせないことに気づかされる。
小説として読めるというのが、重要なのだと思う。
これが、論文のような体裁だと、左脳を使ってしまう。
まず体験し、それから考える。こういう分野では、この順番がつくづく大事なような気がしているが、いかがか。