認知的不協和と否認を抱える人に、全力阻止は逆効果
「枠珍接種は全力で阻止しろ」という声
「567枠珍の接種は全力で阻止しろ」という声があります。
原理としてはありです。
しかし、個々の状況の複雑さを過小評価しており、追い詰められた状況下にある人にとっては、全く何の助けにもならない発想です。
逆に考えてみてください。
自分のやろうとしていること(自分では正しいと思っていること)を、善意で、真面目に全力で誰かが阻止しようとしてきたら、強い反発を覚え、相手に怒りを覚えませんか?
そんな状態で相手が、いくら事実や科学的根拠に基づいて意見を言ったところで、言われた側は、「自分を妨害するために無茶苦茶言っている」としか、感じないでしょう。
そもそも、自分と相手の認識が大きく違いすぎる状況を、「全力で阻止せよ」と言う人たちは、わかっていなさすぎるように感じます。
原理的には賛成だが、現実には・・・
枠珍の害を知っている人は、原理的にはこの発想には賛成するはずです。
私も賛成です。
でも、それを実現できないから、悩んでいるのであり、苦しんでいるのです。
そこが、「全力で阻止」を訴える人たちには、見えてないように見受けられます。
全力で阻止すべきなら、せめて、考えられる範囲で、有効なアプローチを提示するのが筋ではないでしょうか?
それすらできず、しないのに、「阻止しろ」と言えば、言われた側が反発を覚えるのは当然です。
追い詰められた状況下にあって、選択肢が限られている人には、原理論は全く何の役にも立たない。
そして、宇宙には自由意志尊重のルールがあるので、相手の自由意志を強引にねじまげることは、エゴの押し付けにしかならない。
理論上は、「枠珍接種は全力阻止」に賛成です。
でも、置かれた状況の複雑さが異なるゆえに、現実にそのまま適用することには留保をつけざるを得ない。
最近、こちらの方を見つけました。
基本的には、この方が書かれていること(これ以外のことも)は信頼できるし、「接種を止める」ことに反対ではない。
でも、「何が何でも止める」というのは、私の場合、できません。
母と私の、著しい認識の隔たり
こちらの、4月頭の記事を読まれれば、おわかりになるでしょうが、私はなぜか、母から、「頭おかしい」とみなされています。
理由は全くわかりません。
おそらく、私の気づかないところで、母と私の、認識が著しく隔たってしまったのだと思います。
その時、「なぜこういう考えになったのか」を理解しようとするのではなく、「こいつはおかしい」とジャッジして、断罪することを母は選んだのです。
しかも、テレビと新聞が絶対信頼できるニュースソースと信じているために、事実と科学的根拠に基づいて、枠珍の危険性を訴えたところで、全く聴く耳を持ちません。
それでも、「全力阻止」を敢行すれば、私が、病院か、どこかにぶち込まれかねない。
そういう極端は、誰も幸せにしません。
なぜ、母はそういう認識なのか?
現時点で、考えていることを述べてみます。
母が持つ、強い認知的不協和と否認
母は、自分の理解できないことは、強く拒絶するだけでなく、自分のしている歪んだ行動からも、頑なに目を背けてきました。
母の中に、認知的不協和と否認があることに、デーヴィッド・アイクの本を読んで気づきました。
認知的不協和については、こちらをお読みください。
否認とは、実際にそうである自分自身や自分の行動について、「そんなことはあり得ない」と、目を背けることです。
母には、「自分は子どもたちや孫たちを無条件に愛してきたし、今も大事に思っており、世の中のことも、子どもたちよりよくわかっている」という強固な信念・思い込みがあります。
しかし、現実には、母が気に入る範囲で、子や孫を愛してきたにすぎず(子どもとしては当然だが、母の許容値を超えた行動を取ると断罪する)、次男の私には早く消えてくれと願っており、世の中で起きている本当のことを、全く何も知らないし、知ろうとすら、していません。
そして、お金とテニスにのみ、関心を抱いています。
リビングで、株関連の雑誌を時々、目にします。
この現実を受け入れたくないから、否認するのです。
そして、それだと、認知的不協和が生じるので、「自らの矛盾した行動を自らに言い逃れする方法」として、「自らの行動を他人のせいにする」のです。
「自分が一所懸命やるのに、この孫は泣き叫んでいる。この子はおかしい」
「自分の理解を超えることを言うのは、息子の頭がおかしいからだ。息子が何か宗教にハマッたからだ。567はマスクをすればいいし、枠珍の危険なんて誰も言ってない。政府がおかしなことをするはずがない。それを否定する息子はおかしい」
そう考えるのです。
“認知的不協和の人々は常に「被害者」である。自己を否認する彼らの狭小で不明瞭な世界では、消して自らが加害者になることはない。”
(デーヴィッド・アイク『ムーンマトリックス5』2019[原書2010]、p,342)
当然、自らの行動に向き合うことはなく、「自分が悪かったのではないか?」「自分には知らないことがあるのではないか?」と考えることもないので、現実的に加害行動をしていても、母の世界の中では、それが直視されることはありません。
アイクは、『ムーンマトリックス5』で、人類奴隷化の双子として、「認知的不協和」と「否認」を指摘しています。
いずれもが自分自身に嘘をつく形態であり、人間の流行病であり、「これが変わらなければ、何も変わることはないだろう」(p,340)と、述べています。
これがある限り、自分自身の実際にしている行動・あり方の「真実」はもちろん、世の中で起きている「真実」にも、目を向けることがないし、真実を直視して、行動や考え方を変えることも起こりません。
そして、アイクはこう続けています。
“私自身の人生でも、あまりにも自分自身の行動を否認(目を背けること)しているがために、本当の自分自身と向き合わなくて済むように、虚偽の自己像を築き上げている人に会ったことがある。
そういう人々は、「愛と光」について延々と語り、いかに「全ての人々を愛している」かを語るが、実際には冷たく、鈍感で、捻じ曲がっており、完全に自己中心で、執念深い。「私、私、私・・・」しかなく、もしも本当のことを言えば、そのショックから即座に内部崩壊するだろう。”
(p,340-341)
一読して、「これは、まさしく、母のことだ」と思い至りました(亡くなった父にもこの傾向はありましたが)。
余談ですが、こういう傾向は、有名なグルやスピリチュアル系リーダー、宗教者、自己啓発セミナーをする人、DV加害者などにも、見られるものです。
彼らが、自分たちの言行不一致に気づかないのは、認知的不協和と否認のためです。
彼らは、自分が実際にしていることから頑なに目を背けているがために、客観的には嘘や不正や詐欺や暴力を行っていても、「自分は立派で、正直で、正しく、優しく、みんなから尊敬されている」という自己像に縋りつくのです。
母の話に戻す。
母の言行不一致については、これらの記事でも、述べました。
小学三年生の頃の、印象深い体験
今でも思い出す、こんな話があります。
小学三年生の頃、門限が遅くなって、帰宅したら、強引に風呂場に連れて行かれ、入浴するようにきつく言われました。
それに恐怖を感じて、のろのろと服を脱いで、風呂場に入って、シャワーノズルをつかもうとしたら、また母がやってきて、シャワーノズルで、私の首の後ろを叩きました。
何が何やらわからず、呆然としたのを覚えています。
それでいて母は、自分の友人と話している時は、「子どもには無条件の愛が必要よね~」と言っていて、「この人は、僕を、シャワーノズルで叩くことが愛だと思っているのだろうか」と、愕然としたものです。
アイクの指摘を踏まえれば、母は、そういう、冷たい、暴力的で、他人の痛みに鈍感で、自己中心な自分を、否認しているのです。
母は、孫たち(私にとっては姪たち)の行動が、自分の認識枠組みから逸脱しているように見えれば、簡単に「あの子はおかしい」と言います。
それが、いかに相手を傷つけるかが、全くわからない。
何度も「やめてくれ」と頼みましたが、自分の行動を直視できないので、同じことが繰り返されます。
母が、一人一人の人間は違うことを尊重し、何か理由があって、母の認識枠組みを超えた行動を取っているだけであって、それは母を脅かすものではないと理解すれば、ジャッジはしなくなるでしょう。
しかし、それが、できないのです。
そして、断罪をしていながら、良い点については、「○○ちゃんは、これができていいのよね~」と言う。
人の存在を、丸ごと受け入れるのではなく、自分にとって良いことを受け入れ、悪いことは全部否定する。
これが、歪でなくて、また条件付の愛でなくて、なんと言うべきでしょうか。
そういう人が、「子どもには無条件の愛が必要」と、滔々と述べるのです。
親の、口で言っていることと態度で言っていることが矛盾している時、子どもには、ダブルバインドとなって、子どものコミュニケーションや認識枠組みをひどく歪めます。
ダブルバインドはこちらをお読みください。
振り返ると、強い認知的不協和と否認を抱えた親から、物理的・心理的暴力に加え、ダブルバインドまで受けてきたのが、私や兄です。
しかしながら、私は、幸運にも、実に多くの人――実際にか、書物を通して、SNSなど――と出会うことで、そうした呪縛から解放され、自他を尊重し、大切にし、異なる考えに開かれた人間になれたのだと、気づかされます。
今では、自分の欠点を責めるのではなく、受け入れ、向き合うことができるようになりました。
欠点も良い点も含めて、欠け多い人間として自分を受け入れるからこそ、日々、学び、もっと先に進むことができるのです。
極端な認知的不協和の人
極端な認知的不協和の人は、自分が他者に多大な苦痛・損害を与えていることを、全く自覚しません。
私は、親以外で、ある職場でこういう人と出会ったことがあります。
アイクにも同種の経験があったようです。
“私自身の経験であるが、周囲の人々に多大な苦痛・損害を与える極端な認知的不協和の人たちがいた。彼らは「応援」と称して参加した活動を途絶させておきながら、次の瞬間には「全ての人々を愛しており、活動を応援している」と言う。
(中略)彼らはあまりに深く認知的不協和に支配されているため、「人々は覚醒し、何が起きているのか直視しなければならない」と言いながら、そのために必要な情報を伝達・配布する人々の力を削ぐためにできることは何でもやる。それでも認知的不協和があるため、矛盾を感じることはない。これが数多くの詐欺と不正の基盤をなしている心的傾向である。”(p,342)
まさに、これと同種のことを、母はやってきました。
こういう母なので、枠珍接種を阻止するのは、容易なことではないのは、おわかりいただけたかと思われます。
「全力阻止」が、私を危険にさらす行為なのは、ご理解いただけたのではないかと思われます。
母、接種会場に向かう
さて、母は、本日2021/06/16(水)、枠珍接種の会場に行きました。
15:53。母外出。出る前に、「接種意思確認シートを見た?」と尋ねたら、「大丈夫よ。アメリカでもどこでも、変な風になったなんて言ってないし」と、危険性を全く意に介していないようだった。「報道していないだけだよ」と言ったが、聴く耳を持たずに行ってしまった。
4月頭もそうでしたが、この時も、やはり母は、567と枠珍について、自分が確かな情報を持っていて、私の言っていることを頭からバカにしているのが、わかりました。
まさしく、認知的不協和と否認です。
大手町の会場に行った人の証言。
会場に、救急車がひっきりなしに来るとか、阿鼻叫喚の地獄絵図にでもなっていれば、母も気づくかもしれません。
が、その直後、気づかないかもと思いました。
567に限らず、明らかに世の中におかしなことが起きていても、気づかなかった人なので。
対処と、今後起き得ること
Twitterで、母のことをtweetしたら、いろんな人が、暖かい言葉をくださいました。
ありがとうございます。
お金があれば、私は家から脱出できますが、今はできません。
また、仮にお金があっても、兄のところにいる小さい子どもたちも、母による被害を受けることが予見される以上、逃げる選択肢は今のところ、ありません。
とりあえず、松葉茶とこの方法で対処します。
これは、DREAMERさんのフォロワーにしか、効果がありません。
先のことは考えたくありませんが、これから、母が死亡したり、重篤な障害が出る可能性はあり得ます。
全くピンピンしていて、「ほれ、見たことか。何ともなかったでしょ」と、マウントを取られる可能性もあります。
仮に、前者の場合は、兄から「なんで止めなかったんだ」と、責められるかもしれません。
理解しようとする意欲がないのに加え、認知的不協和と否認を持つ人は疲れます。
完膚なきまでに、認識を内部崩壊してくれようかとさえ、思いたくなります。
それでも、容易なことではないですが、思いやりを持つ必要があるのかもしれません。
やつおさんは、他ではあまり見られないような、重要な情報を翻訳されている方です。
全部は読めていませんけれど、自分を冷静に、思慮深くさせ、視野を広げる情報に満ちていると感じます。
ブックマークやお気に入りに入れて、時々、読まれることを推奨します。