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予言とは、見込みである

予言と人々の反応を目にして

 トランプ大統領やカバール、そして、地球規模の大陰謀について、2021年1月から、情報収集と学習を始めました。

 その中で、いくつか、予言への言及を目にしました。

 扱われていた主な予言は、岡本天命の日月神示、新約聖書の最後にあるヨハネ黙示録でした。

 どうも、少なくない方が、予言を、「起こり得ることを止められない確定した出来事」とか「事実」と考えているように見受けられました。
 
 予言をそのように理解するのは、適切なのでしょうか。

 この記事は、コーリー・グッドの動画「ソーラーフラッシュとアセンション」についての記事で書いたことを、「予言」に絞って独立させ、加筆したものです。

予言は見込みである

  トム・ケニオン『新・ハトホルの書』(ナチュラルスピリット、2013)で、ハトホルによって、予言について明確に説明されているので、引用します。

  “予言とは、ある時点において起こっていることを読み解き、それをもとにして未来を予見する意識の能力です。よってそれは変化の余地も視野に入れつつ、運命の進路図を描くようなものです。
  予言は見込みであって、石に刻まれた事実ではありません。しかしながら地球規模の災禍に関する予知や予言が、多くの人々に極度の不安を引き起こしています。これは聞く側が予言を事実として解釈するからであって、誤った見方と言えます。”(p,293)

 ノストラダムスの予言(四行詩)、旧約聖書のダニエル書、新約聖書のヨハネ黙示録、マヤ暦、日月神示など、有名なものから、そうでないものまで、様々な予言があります。

 それが何であっても、予言とは見込みであって、「変えられない事実」と解釈するのは誤りである、そうハトホルは言うのです。

 個人的に感じるのは、おどろおどろしい予言は、そういう未来を引き起こさないために準備させることを意図しているのであって、人々に恐怖を抱かせ、なすすべもなく破局を受けいれろと迫るものではないと思われます。

 変えられない未来の情報を知ることに、一体どんな価値があるのでしょうか?そんな情報なら、知らないほうがマシです。

恐怖を喚起するヨハネ黙示録の解釈

 以前の記事でも書きましたが、ヨハネの黙示録を、おどろおどろしいイメージで語って、人々に恐怖を抱かせる人は、この文書をまともに読んでいないか、恐怖というエネルギーを喚起する意図があるか、そういう可能性を、私は考えます。

 知人男性が、ある人から、ヨハネの黙示録を教授されて、「これから、世界はとんでもないことになる」と、不安に駆られて言ってきたことがあります。

 知人はクリスチャンではなく、聖書の基本的な知識もありませんでした。

 教授した人は一度だけ会ったことのある人で、本業はマジシャンか催眠術士だったと思います(正確な表現をすると、わかる人にはわかるので、ぼかした言い方にします)。

 知人から聞いた、そのマジシャンの解釈は、まともに聖書の知識があれば、とても慎重になるものでした。

 つまり、この文書が書かれた時代背景を無視して、現代の状況に安易に、黙示録を当てはめて、時代分析をするというものでした。

 予備知識がなければ、その解釈に恐怖を覚え、理性や思考力をなくしてしまうのも無理はない。

 しかし、黙示録をそのように解釈するのは、現下の状況では慎重であるべきですし、予言を変えられないとみなすのも、間違いです。

恐怖を与え、冷静さを失くさせるのは洗脳と何が違う?

 例えば、「第三次世界大戦が起きるのは避けられない」と、受け手に思わせる人には、何らかの、よからぬ意図があると、思わざるを得ません。

 そこで、「だが、私ならどうすれば避けられるかを知っている。私の言う通りにしなさい」とすれば、安易なカルトの出来上がりです。

 これこそ、イルミナティ血族の大衆心理操作テクニックであるPRS(問題・反応・解決)です。

 個人的には、聖書についての無知を利用して、おどろおどろしく黙示録を語る人は、その人がクリスチャンかどうかを問わず、とても疑わしい人だとみなさざるを得ません。

 「無知を利用し、偏向的な情報を与えて、恐怖を喚起する」、まさしく、カバールの手口そのものであり、洗脳の手法だからです。

足が痛くなるなら、靴を脱げばいい

 ハトホルの説明を続けます。

  “予言とは、ものごとの流れが今と変わらずそのまま展開していった場合に、かくかくしかじかが起きる可能性があるという解釈です。たとえば、足に合わない靴を履いて痛くなるまで歩きつづけたとしたら、結果としてマメができるだろうことは容易に予言できます。もしその予言を選択の余地のない事実だと解釈すれば、その人は靴を脱がないでしょう。そしてマメができたのは運命だから、自分にはどうすることもできなかったとこぼすかもしれません。
  残念なことに、地球の災禍を予言する人々のなかにもそれと似たようなことが見られます。わたしたちの視点から見ると、地球の変化に関して絶対的なことは何もありません。それらは人類意識と地球意識がどう関わるかという見込みにもとづくものですから、起きるかもしれないし、起きないかもしれないのです。”(p,293-294)

 多くの人が、予言について、足に合わない靴を履いて、マメができるまで歩きつづけるのは避けられない出来事であるかのように、解釈しがちです。

 でも、足が痛むなら、靴を脱ぐなり、空間を作るなり、あるいは、合う靴を見つけるなり、工夫すればよいのです。

 ハトホルは、「予言とは、見込みである」ことを、重ねて強調します。

 “あなたが予言を聞いたなら、それを事実としてではなく、見込みとして受けとってください。地球が変化するのは事実です。それは地球が進化しているからであり、あなたがたも同様です。しかし地球の変化が、多くの予言が告げるような大きな天変地異である必要はどこにもありません。”(p,294)

 地球の変化が、あたかも世界大戦や天変地異として起こると示唆する人には、一体、どんな意図があるのか、冷静に考えてみた方がいいかもしれません。

 今の現状を見る限り、天変地異がなくとも、多くの人々は不安を抱いており、生活の不安と相まって、追い詰められたような気持ちになっているのではないでしょうか。

 さらにそこに、根拠の不確かな、おどろおどろしいことを語る人は、思慮深さとは真逆の方向に誘導する意図があるように思えてなりません。

予言の本当の役割

  “予言の本当の役割は、このさき起こりそうな見込みについて社会や個人に警告を発することです。予言者とは(直観的に感知した)未来の運命を指摘して、「われわれはここに向かっています。このまま同じ道を歩きつづけますか?」と問いただす人なのです。”(p,294)

 本当の予言者は、悪い予言が外れることを喜ぶのではないでしょうか。
もしその人が、人としての愛と真心を持っているならば、悪い予言が当たったことを喜ばず、むしろ悲しむと思います。

 また、予言について、当たったか外れたかを云々するのは生産的ではないように思います。

 他のルートで入ってくる情報と同じように、保留しつつ、懸念材料として考慮して、自分の意識と行動を整えていく、それが、予言を有効活用する、一つのやり方ではないでしょうか。

 アセンションや太陽フレア、その他、いろんなことが言われています。

 研究者の予測、チャネリング情報、古代文書の予言。

 それらには、解釈者の解釈も入っています。

 それは致し方ないことです。

 その上で、特定の情報を鵜呑みにせず、意識の置き所を見定め、自分にできることをしていく、というのが、望ましいことではないかと思われます。

予言を語る人のタイプ

 頼まれもしないのに、自分から、「予言」を語る人は、いくつかのタイプに分けられると思います。

 細かく分けると、もっと増えるかと思いますが、一つの見方としてご参考にしてください。

A-1.予言を、「事実」「避けられない事象」と理解して、善意で、それを伝えようという人。
A-2.予言を、「事実」「避けられない事象」と理解して、人々に、恐怖や不安、無力感を喚起したいと考える人
B-1.予言を、「見込み」と理解して、善意で、人々に準備してもらおうと考えて、伝える人
B-2.予言を、「見込み」と理解しているが、人々の準備を加速してもらおうと、危機を強調して語る人

 A-1とA-2のタイプについては、予言をどう理解しているのかをはっきりさせます。

 明瞭に語っているのであれば、判別は容易い。

 そうでなければ、動画や文章全体と、その意図するところを見定めて、総合的に判断するしかありません。

 いずれにしろ、「事実」「避けられない事象」と理解している時点で、予言の理解が間違っているので、真面目に受け取る必要はないと思われます。

 相手との関係性にもよりますが、A-1であれば、御礼を言って、予言は見込みであることを指摘すればよい。

 聞く耳を持てばいいし、そうでなくても、関係継続を検討すればよい。

 A-2であれば、穏やかに、予言理解の誤りを指摘し、どう出るかを見る。

 こちらのタイプは、その誤りを認めないかもしれません。

 自分の語ることで、人々が恐怖や不安を抱いて、右往左往するのを見たいと思っているなら、認めないでしょう。

 自分も、恐怖や不安の波動を出す必要はなく、静かに離れればよい。


B-1.予言を、「見込み」と理解して、善意で、人々に準備してもらおうと考えて、伝える人
B-2.予言を、「見込み」と理解しているが、人々の準備を加速してもらおうと、危機を強調して語る人

 Bのタイプの人々は、慎重に、予言を取り扱う人々であるなら、話を聞くだけ、聞いてみてもいいかもしれません。

 もちろん、保留しつつ情報を聞くという基本は変わりません。

予言以外にも目を向けて、考える

 有名人がした予言、有名な予言をそれだけに注目するのは、「テレビが言っているから正しい」というのと同じで、自分の思考や判断力を放棄しているとみなされても仕方がないように思われます。

 そういうものを求めてしまう心理になることはあり得るので、予言に関心を持つこと自体は、悪くはありません。

 但し、特定の予言に発想が限定してしまう、逆の言い方をすれば、他の情報ソースと突き合わせて、多角的に物事を見て行く姿勢を放棄してしまうならば、休養を取った方がいいでしょう。

私自身の予言のスタンス

 黙示録について、どう考えているかは、既に述べました。

 私は、予言をじっくり研究していないので、個々の予言の是非を論じることはできません。

 日月神示はどういうものかは知っていますが、実際に読んだことはありません。

 ノストラダムスの四行詩も、他の予言も同様です。

 興味はありますが、そこまで調べる余力が、今はありません。

 ノストラダムスについては、ドロレス・キャノンの『ノストラダムス霊界大予言』が気になっていますが、未読です。

 また、今の私の関心は、周波数を整え、外的にどれほど混沌としていようと、自分のあり方を整え、可能な限り、他者に親切にし、助けることです。

 もしもっとゆとりができたら、予言について考えてみるのも一興かもしれません。

予言能力は誰もが持っている。ただ気づいていないだけ

 予言は、意識の一能力であるので、原理を知らない人からすれば、魔法・奇跡のように思えるのも無理からぬことです。

 それができる人を、超能力者のようにみなしてしまうのも、仕方ないのかもしれません。

 しかし、それは、誰しもに眠っている能力の一つに過ぎません。

 ただ、それがあることを知らなかったり、訓練の方法を知らないがために、自分とあまりに異質であるとみなしているだけです。

 そう思ってみれば、予言やチャネリングを、過度に恐れる必要はなく、ありがたがる必要もないことがおわかりいただけるでしょう。

 どれほど信頼できそうな予言であっても、保留しつつ、多角的・多面的に情報を見ていく。

 自分の理性と直感で、慎重に吟味する。

 この姿勢を、常に堅持するのが、賢明かと思われますが、いかがでしょうか。

 自分の人生の主権を握っているのは、常に自分です。

 この主権を、安易に、他人に譲り渡すのは、危険です。

 自分が持つパワーについては、こちらをお読みください。



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