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善が崖っぷちの状況で、覚醒し、一人立つ

見えないものは、見えるものを通して現われる

 神を本当に信じているならば、必ず何らかの行動となって表れます。

 自分の内面に真摯に向き合う、他者や世の中に起きていることに視野を広げて、広く深い関心を持つ、そのような歩みが避けがたいこととして生じます。

 最初は自分の救いだけを気にかけていたとしても、それを超えていくように、招かれます。

 ゆえに、自分の信仰・救いだけを気にかけ、世の中で起きていることに無関心で、沈黙するのは、聖書の示す生き方ではありません。

 イエスをはじめ、聖書に登場する人々は大なり小なり、世の中の危機に関わってきた人たちです。

 また、聖書を読めばわかるように、イエスは「自分の救いだけを気にかけ、世の中に無関心になり、世の中で何を見聞きしようと、沈黙して受け入れろ」などとは言っていないのです。

 何十年、教会生活を送っているとか、何百回聖書を読んでいると言う人のほとんどに、私は尊敬の念を抱いたことがありません。

 それは、彼らが言っていることと行うことに不一致が生じていて、不誠実なものを感じてしまうからなのかもしれません。

行ないの伴わない信仰は何の役に立つのか?

 新約聖書ヤコブの手紙にこんな一節があります。

"わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。"(ヤコブの手紙2章14―17節) 

 平たく言えば、行いの伴わない信仰など、塵芥に等しい。

 このヤコブの手紙にある一節は、現代日本にも、そのまま当てはまります。

 567感染拡大という名目でなされる締めつけで、日本経済は大打撃を受けています。

 企業は倒産・廃業し、資金繰りに困っている経営者・事業者が少なくない。

 手放された土地を、外国資本に購入されている。

 仕事を失う人がおり、また生活の不安が増大し、明日への希望も見出しにくく、命を断ってしまう人たちも増えています。

 人々が従順に「要請」という名の強制に従っても、当の政府は全く意に介さない。

 これだけ不正義がなされている時に、「神があなたに良き道を備えてくださいます」と言うことに、一体何の意味があるのでしょうか。

 私自身、病気で休職を余儀なくされた時、また無職になり、自分の歩みを見出し難く思っていた時、まさに、この「安心して行きなさい」と言うだけで、具体的なことを何一つしないクリスチャンの不誠実さを目の当たりにしました。

 言っていることは聖書に書いてあることだけれど、これほど、聖書と隔たった態度もありません。

小さくされた者の叫びに耳閉ざす礼拝とは、何なのか?

 「礼拝はクリスチャンとしての生活の中心」という考え方があります。

 しかし、生活の不安が強い人にとって、これはほとんど詭弁に聞こえないでしょうか。

 全く生活に困っていない人が「礼拝は何よりも重んじられるべきもの」と言い、隣人の困窮に無関心なことを言う、これは、全く聖書と真逆の営みだと感じます。

 むしろ、そういう困窮を抱えている人、苦しんでいる人のところに行って、寄り添うというのがイエスのしたことであり、最も強く言っていたことではなかったでしょうか。

 「神を愛し、隣人を自分のように愛しなさい」とは、具体的にはそのようなことを言うはずです。

 また、それが、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師(1929-1968)や、ディートリッヒ・ボンヘッファー(1906-1945)の態度ではなかったでしょうか。

善人の沈黙こそ、最大の悲劇である

 聖書を読み、礼拝に出席することを推奨する人たちは、誰かが、本当に、イエスやキング牧師やボンヘッファーのように行動すると、権威や伝統で押さえつけようとすることさえ、あります。

 本当に彼らのように行動すると、教会を含む世の大多数が承認する権威や伝統に立つ人たちからは、自分たちが重きを置いているものを問い直されているように映ります。

 しかし、苦しんでいる人、小さくされている人たちの声に耳を傾けた人の行動を抑圧することは、正義にかなっていると、言えるのでしょうか。

 そんなことをする彼らの言う信仰とか行いとはどういう意味なのか、私にはわかりませんし、わかりたいとも思いません。

 キング牧師はこう言いました。

“最大の悲劇は、悪人の圧制や残酷さではなく、善人の沈黙である。”

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 無関心と沈黙が、誰を利するか、考えたことがあるのでしょうか。

 子供が誘拐・人身売買で危険な目に遭い、怖い思いをしているのを知ろうとしない、知っても、「私には関係ない」という態度を取ることが、子供たちの助けになるのでしょうか。

 子供たちを救出するために尽力する人たちを、非難することは、加害者を利することにならないでしょうか。

 メディアの報道を鵜呑みにし、「彼は分断を煽った」と非難すること、それは、子供を誘拐する人の側に立つ行為であることに、全く無自覚です。

自分の命を得ようとするよりも・・・

 自分の命を得ようとする者はそれを失うと、イエスは言っていました(マタイ福音書10章39節)。

 自分の救いを後生大事にしようとすると、それを失うのです。

 世の中で起きていること、小さくされた人たちの叫びに目と耳を閉ざして、「毎日、熱心に祈り、熱心に聖書を読めばいい」という態度は、イエスの語り、示したこととは、全く違います。

 ドナルド・トランプ大統領がずっとやってきたのは、そうした「信仰深い」こととは全く真逆のことであり、イエスのように生きることです。

 彼とメラニアさんが、一体、何回、暗殺の危険に見舞われたか、安全地帯から彼を批判する人たちは、わかっているのでしょうか。

 もしそれが当然だと思う人たちは、その不正義が、神や光と真逆のことであるのを、自覚すべきです。

 真実を語ることで、危険な目に遭ったり、嫌な思いをしたり、友人・家族と疎遠になったりした人が、世界中にいます。

 その人たち、全員は、いわゆる教会で洗礼を受けたクリスチャンではないでしょう。

 でも、「自分の命」「自分の救い」よりももっと優先すべきものがあることを、彼らは知っていた。

 彼らは、子供たちが置かれている状況、されてきたことを知って、黙っていることができなかった。

 先ほどの、ヤコブの手紙で述べていることは、「本当に神への信頼があるならば、行動として現れないはずがない」ということを言っています。

 それは、家族や親しい人への情報伝達かもしれないし、SNSや動画サイト・ブログを通じての情報発信かもしれないし、チラシを配ることかもしれないし、情報の拡散かもしれない。

 それは時に、アカウントの停止・凍結という言論弾圧というリスクを伴う行為です。

 また、専門的技能や知識のある人なら、それらを生かした活動ができるでしょう。


 私は、教会でいろいろ嫌な思いをしたので、もう今後は教会に行くつもりはありません。

 仮に、そうでなかったとしても、「毎日聖書を読んで、祈って、日曜日に礼拝に行くこと」が、クリスチャンとして、今、なすべきことだとは、思えないのです。

 そうしたい人はそうすればいい。

 でも、それが、自分のために行うなら、違うと思います。

ディートリッヒ・ボンヘッファー

 先ほど、イエスやキング牧師と並んで、ディートリッヒ・ボンヘッファーに言及しました。

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 彼はキング牧師と同じく39歳で亡くなっています。

 ボンヘッファーは、第二次世界大戦のドイツに生きたドイツ人の神学者・牧師です。

 言論を通じて、ナチスを批判することをかなり早い時期からやっていただけでなく、ヒトラー暗殺計画のメンバーでした。

 こう書くと、急進的な人に思われるかもしれませんが、ボンヘッファーをはじめたとしたメンバーは、それを、とても熟慮に熟慮を重ねた上で、決めました。

 それは、ナチスの猛威に潜む大きな危険を、はっきりつかんでいたがための行動です。

 もっとも、暗殺計画は未遂に終わり、ボンヘッファーは仲間たちと共に捕らえられ、最後は処刑されました。

 生前出された『共に生きる生活』、また獄中にいる時に家族や友人に宛てられた手紙をまとめた『獄中書簡集』は、今にいたるまで長く読み継がれています。

 ボンヘッファーはこう言っています。

“悪に直面して黙ること自体が、悪である。神は私たちを罪なき者とみなされない。語らないことは、語ることであり、行動しないことは、行動である。”

 イエスを信じ、祈り、こう語り、また行動したボンヘッファーを、キング牧師はとても尊敬していました。

善が崖っぷちに立たされている状況

 ボンヘッファーやキング牧師の亡くなった年齢を、私は既に超えていますが、全く敵わないなと思います。

 ボンヘッファーの生きた時代、キング牧師の生きた時代、そして現代は、それぞれが、固有のむずかしさと問題を抱えており、単純な比較は意味をなしません。

 ただ、善が崖っぷちに立たされている状況はとてもよく似ています。

 ボンヘッファーが生きた時代、ナチスに賛成した牧師・信徒というのもかなりいました。

 ちょっと違いますが、イメージとしては、バイデンとDSを支持するクリスチャンみたいなものでしょうか。

 眠れる大衆の多くは、支配者になびいてく。

 その陰で、誰かが苦しんでいる。

 そういう時に、ボンヘッファーやキング牧師は、最も苦しんでいる人たちから目を逸らさなかった。

 「祈ることが行動です」などと言わなかった。

 彼らは、「祈りの人」でしたが、同時に、「行動の人」でもありました。

 彼らは、大きな困難の最中、誰かが苦しんでいるのを知りながら祈るのが、逃避に陥る危険性を孕んでいることを、よく承知していました。

 ドナルド・トランプ大統領、彼もまた「祈りの人」であり、「行動の人」です。

 頭脳明晰で、真実と正義を愛し、祈り、行動し、信仰と行いが一致している人。

 ほとんどなくなりかけていたキリスト信仰やクリスチャンへの信頼を回復させてくれたのは、トランプさんです。

 「本物は現代にもいるんだな」と、思いました。

Q運動は、信仰復興(リバイバル)運動を思わせる

 その意味で、トランプさんの働きを、市民レベルで後押ししたQ運動は、一種の信仰復興とも言えます。

 こちらの記事で、Qリプトラベラーさんが、Qmapを、現代の聖書にたとえています。

 彼は「聖書」を、「人類を光へ導く道具」と定義しています。

“Qmapは信じ抜くことで光へとたどり着く古代の人々を対象としたものではなく、疑いを前提とした上で科学的で論理的な思考に対して何よりも信頼をおく現代人を対象とした”人類を光へと導く道具”なのです。”

 先ほど、私は、「善が崖っぷちに立っている状況」と言いました。

 その状況を、Qリプトラベラーさんは、こう述べています。

"悪魔崇拝者が世界を乗っ取り、大衆を洗脳し続けてきたことで、人々は完璧な奴隷になる最終段階へと至っています。
言葉はひどいですが、奴隷病の末期症状と言っても過言ではありません。"

 そして、「そんな重傷者を救うための道具が聖書2.0であるQmapなのです。」

 Qが落とす情報を丹念に調べていった人の中には、自分で聖書を調べて、真理を体得した人も少なくないと聞いています。

 私も、教会や牧師・信徒の行動に疑問を抱いた時、聖書を自分で読むことを始めました。

 今では、牧師・神学者の見解・解釈を鵜呑みにしなくなりましたし、違和感を覚えたら、その理由を究明するのが癖になりました。

 少なくとも、「牧師がこう言っているから、この解釈が正しい」などという、「テレビが言っているから正しい」と大差ない発想はやめています。

 Qの落とす情報で、真実を知った人たちは、信心で真実を受け入れたのではなく、疑い抜くことで、受け入れたのです。

“疑い抜くことで、悪魔の実在を確信し、それゆえに神の実在を受け入れて、世界の裏の情報を知り、この世界に光がもたらされることを受け入れたのです。”

 そういう意味で、まさに、Qmapは現代人を対象とした道具です。

 また、人を、神へと立ち返らせ、希望を与えるという点で、聖書のもたらす働きを強く思わせます。

聖書2.0としてのQmapの目的

 聖書2.0であるQmapの目的を、Qリプトラベラーさんはこう述べています。

・陰謀論的な世界の裏側の真実へと覚醒すること

・聖書1.0(改竄前のオリジナルの聖書)で目指している神の実在を受け入れると言う意味での覚醒。

・自分で調べて、自分で考えて、自分で納得して受け入れると言う奴隷病からの治癒。

“特にこの、奴隷病からの治癒は聖書1.xでは成し得ませんでした。
今後の世界、人類がこれから向き合っていく世界では、聖書2.0の道具としての特性である陰謀論への覚醒と、思考の解放と、霊的な覚醒のそれぞれが重要になってきます。”

 キング牧師やボンヘッファーのような人々というのは、どこかの時点で、この奴隷病から脱却したのです。

 それを、キリスト教用語で、「回心(Conversion)」と言います。

 「改心」が生活や素行を改めることであるなら、「回心」は根本の態度を、神へ向け返ることであり、視座の転換を意味する。

 そもそも、奴隷病から脱却していなければ、巨悪や不正義への抵抗はできません。

奴隷病から脱却し、一人立つことで見えてくる地平

 奴隷病から脱却すると、外側に参照点のない、頼るべきもののない地点に、どこかで遭遇します。

 情報をできる限り、調べてきた。これが真実だとしか、思えない。だが、こっちで合っているのか。そんな不安が湧いてきます。

 それは、自分が不安定で、不確かな場所に来て、全く無力で、しかし、神の示す希望だけがある、そういう地点です。

 そこでなお、光の道を歩めるように助けてくださいと祈る人を、神は決して見捨てません。

 キング牧師やボンヘッファーがそういう地点を通過しているのは、残された言葉からわかります。

 それは、「魂の暗夜」とも呼ばれる地平です。

 夜明け前の最も暗い時、です。

 その地点において、「これが真実だと、私は思う。そう判断する」と、自分に対して言えるかどうか。

 外側に答えがあるのではなく、あるいは答えは「外側にある」「専門家が教えてくれる」と思うのではなく、一人一人が、自分で判断する。

 そうできるようになることが、奴隷病からの脱却を意味します。

 数年前あるいは数ヶ月前から、トランプ陣営の動きを追ってきて、今もなお、希望を捨てていない人たちも、自覚できているかどうかはともかく、そういう地点を通ってきているはずです。

 そういう人たちは、自ずと、信仰と行いが一致する状態になります(「信仰」とは、「(神への)信頼」という意味です)。

真実はあなた方を自由にする

 Qリプトラベラーさんのいう「Qmapは現代の聖書」という見解は、人によっては受け入れがたいかもしれません。

 しかし、他方、こういう解釈で捉えると、物事がとてもクリアに見えてくる人もいるはずです。

 もっとも、聖書を受け入れない人は、古代にも現代にもいるので、そのこと自体は、驚くべきことではありません。

 むしろ、注目すべきは、信心から真実を見出すのであれ、疑いと吟味から見出したのであれ、本当に真実にたどり着いたら、既存の見方からの脱却が避けられないこととして起こること、また、何らかの行動に駆り立てられるという点です。

 それが不十分だと、不正を見聞きしながら、目と耳を塞いで沈黙するとか、絶望論者になるといったことが起こるのだと思われます。

 トランプさんにとっては、2020年の大統領選挙に勝つことよりも、2016年の選挙に勝つ方がはるかにむずかしかった。

 そのことを思えば、表面に現われる出来事がどうであれ、今は希望にこそ、目を注ぐ時です。

“あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。”(ヨハネ福音書16章33節)


 

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