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自分と真逆の見解を尊重できる人とは?
所属教会での葬儀に出て感じたこと
昨日の昼頃、所属教会で葬儀がありました。
60年以上、教会に通っていた故人Aさんは、聖歌隊在籍時、テノールを歌っていました。
同じく、60年以上親交のある御友人(教会員)が感話を最後に述べていました。
「Aさんは、イエスに仕えることと教会に仕えることが不可分で、何より礼拝を重んじ、礼拝に生かされる日々を大事にしておられた。」
そんなことを述べておられました。
話を聞きながら、「そうなのか。だが、私はそんなことを一度も感じたことがないな」と感じました。
ここからは、私の考え・経験を述べたいと思います。
ただそれには、Aさんを含め、「礼拝に生かされる生活」を大事にしている人への批判は、全くありません。
「礼拝に生かされる」というのがわからない
私は、「礼拝に生かされる」というのがどういうことなのか、今日までわからずじまいです。
洗礼を受けて、今年で17年になります。
牧師の説教は、聞いたそばから忘れます(独特の話の論理展開のため)。
また、日曜日に聞いた話で、一週間を律するというのを、チャレンジしたことはありますが、実現した試しがありません。
多くのクリスチャンは、こうできているようですが、もう無理なことはしないことにしています。
もしかすると、それは、教会の教えからすると、「間違っている」かもしれませんが、私にはどうでもいいことです。
「教会の中心は礼拝」は正しいが・・・
基本、キリスト教会は、日曜日の礼拝を、教会生活の中心として考え、重要視します。
ただ、今の教会のように、「礼拝こそが教会の中心」と常に強調する教会は、初めてです。
「礼拝こそが教会生活・教会の中心」というのは、嘘ではないですが、私自身の実感にないものなので、繰り返し言われるほど、違和感の方が強まっていきました。
あることを繰り返し言われると、無意識に浸透し、それが一つの物の見方を形成していくというのがマインドコントロールですが(マスメディアが連日やる恐怖ポルノはまさにマインドコントロールです)、多分に、そういう「暴力」への抵抗を、違和感として経験していたのかもしれません。
違和感がベースにあると、先方が入れたいと思っている考えは、入りようがありません。
コンピュータウイルスの侵入を防ぐファイアウォールのような役目を、違和感が果たすのです。
自分の違和感を無視しない
正解や正統的な教えではなく、自分の感じていることを大切にし始めるようになったのが、ある文章講座に行き始めた2012年頃です。
いろいろ揺れたり、迷ったりすることはあったものの、今は自分の感じ方はそれはそれとして受け止め、仮にそれと真逆の他人の見解であっても、それはそれとして尊重できるようになりました(誰かの生命・尊厳を危うくするものは除く)。
今では、私は自分の感じた違和感を大事にするようにしています。
それが、その場の「正解」とズレていればいるほど、その感覚が自分に大事なことを伝えてくれていることがほとんどだからです。
違和感の例
一例を挙げましょう。
所属教会で、「あなたの人生の中心は何ですか?人生の中心は礼拝です」という文章を、何かの時に見たことがあります。
私がまず引っかかったのが、「人生の中心」という表現です。だから、覚えているわけです(笑)。
そもそも、何を言っているのかが、理解できませんでした。
人生で大事にしている価値観という意味なのか、あり方を規定するものなのか。
文章では、言葉の意味するところが自明であるかのように表現されていました。
回答の部分は置いておいて、「あなたの人生の中心は何ですか?」という質問に答えるとしたら、「何を聞かれているかわからないので、答えはわかりません」と答えたいと思います。
「答えない」という選択肢もあります。
しかし、実際に、教会でこう尋ねられても、このような回答の仕方は、多分、想定されていない。
むしろ、誰もが「礼拝です」という正解を言えて当然という前提がある。
若干、知覚誘導のきらいのある問答です。
今は詳しく触れませんが、キリスト教には「信仰問答」という問答集があって、いろいろ種類があります。
これは、巧妙な知覚誘導ではないかと、今、気づきました。もしどこかで時間があれば、考えてみたいと思います。
所属教会の基本前提を共有できていない自分
書いてきて、改めてわかるのですが、所属教会の基本前提を、私は全く共有していないことに気づかされます。
初発の時点で、違和感を経験し、それが払拭されないまま今日まで来てしまったことに由来します。
「Aさんは、イエスに仕えることと教会に仕えることが不可分で、何より礼拝を重んじ、礼拝に生かされる日々を大事にしておられた。」
先ほどの感話にあったことを聞くと、所属教会に限らず、大抵のクリスチャンは、「そうだね。やはり礼拝が大事。礼拝にこそ、私たちは生かされていますね」ということを、思うはずです。
その捉え方自体は、間違ってはいません。
想定されていない見解への自動反応
ただ、ここで、私が、「皆さんがそうお感じになることは尊重します。しかし、私は、「礼拝に生かされる」という経験をしたことがなく、そう感じたこともありません。でも、特に何も困っていません」と、にこやかに言ったとします。
一瞬、絶句した後、多くの人が、「礼拝がいかにすばらしいか」を語り、説得しようとしてくるはずです。
ご本人たちは、説得している自覚はないでしょうが、少なくとも、自分の見解を述べるか、あるいは、「ああ、礼拝の喜びがわからない、かわいそうな人なんだ」と思うかの、いずれかだろうと推測しています。
私は、「礼拝に生かされる」という経験の正誤を述べているのではないのです。
ただ、そういう経験がなく、あるいはそう感じたことがないと述べているに過ぎません。
つまり、ここで起きているのは、多くのクリスチャンは、自分の感じ方と真逆の感じ方を、一つの経験として尊重することができないということです。
それは、その人たちが、自分の経験と自分を同一視しているためです。
感じ方・見方・経験と自分は別物
しかし、名前も職業も経歴も考え方も価値観も肉体も、自分ではありません。それらは、全て経験です。
それについては、アイクを引用しつつ、こちらで述べました。
自分の意見と自分を同一視しているがゆえに、それと真逆の見解に直面すると、「自分が否定された」ように受け止めてしまいがちになる。
そうなると、自動反応のように、自分の見解を主張したり、相手の見解を否定したりということが起きます。
考えて、自分の意見を言うというより、「自分と違う見解⇒自分の意見の否定⇒自分の否定⇒防衛しなければ」というのが一瞬で起きます。
おそらく、やっている人は、このプロセスを自覚していないでしょう。
防衛の仕方が人によって、自分の意見の主張だったり、相手の否定だったり、あるいは聞かなかったことにするというものだったりするわけです。
そういう人に、自分と真逆の見解を尊重しろというのは、無理なお願いでしかありません。
深い話はしにくくなる
ともあれ、こういうこと――自分と真逆の考え方を尊重できない――が、過去の教会生活から想定されるので、教会に対しての本音を、ほとんどの教会員に、私は伝えていません。
私の側は、誰が、どういう考え・物の見方なのかを観察し、そこから最適なコミュニケーションの仕方を考えるので(地雷を踏みたくないので)、相手がある事柄をどう捉えるかは、ある程度、推測できます。
そのことから、大多数の教会員からすると、私の捉え方は、大多数の見解を否定していなくても、受け入れがたいだろうことが察せられます。
ゆえに、言えないのです。
そして、言えないがゆえに、溝は深まっていく。
今では、それを埋めようとは、思わなくなりました。
埋める努力をしても、実りが少ないからです。
もしかすると、状況や事柄は違っていても、同種の経験は、大なり小なり、自分の感覚を大事にする方々はしているのかもしれません。
相手の意見を必死に否定する接種肯定者
書きながら思ったのですが、「私は枠珍打ちません。理由はこうです」と述べると、それを必死に否定したり、枠珍の効能を述べてきたりする人というのは、自分の意見と自分を同一視しているのかもしれません。
そういう人からすれば、「不接種」の選択をした人は、接種に前向きな自分を否定しているように映るかもしれません。
私自身は、接種するかどうかは個人の選択だと考えています。
打ってはほしくないですが、それを押しつける気はありません。
牢獄の内と外にいるかどうかの分かれ目
意見や考えや教えと自分を同一視しているか否か。
同一視していない人とは、おそらく和やかに話せるでしょう。
同一視している人とは、「あなたの見解を尊重する」と言っても、相手は怒るかもしれません。
結局、それは、自分というものを確立できていないところに、起因するのかもしれない。
自立できていないから、意見や正解や教義と自分を同一視し、武装・防衛する。
そして、武装したと思ったら、教義・正解という知覚の牢獄に、無自覚にとらわれ、そこからしか、物事を見られなくなってしまう。
枠珍の危険性を話して、通じない人には、こういう人もいるのかもしれません。
正解や教義の向こう側に開かれているか否か。
自他の感じ方を尊重できるか否か。
これが、マインドコントロールから自由かどうかの、一つの分かれ目なのかもしれません。
これは最終的な結論の出ていない、一つの仮定の話です。
一体、何が、マインドコントロールから自由になっている決め手なのか、まだはっきりつかめません。
辛い経験にも意味がある
所属教会では、たくさんの嫌なことがありましたが、洗脳・マインドコントロールへの興味は、教会での体験がきっかけです。
そういう意味では、私の人生において、今の教会での日々は、不可欠なピースだったようにも思います。
話が通じない、相手を尊重しているのに攻撃されてしまう、それは辛い経験ですが、長い目で見ると、それもまた大事な経験だったとわかる時があるかもしれません。
正解や教義を信奉していた時に戻りたいかと問われれば、私は、”NO”です。
自分の感じ方・物の見方を尊重できるからこそ、牢獄から出ることができたのですから。
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