「このまま眠って、二度と目覚めなかったら?」という問い
「このまま眠って、二度と目覚めなかったら、後悔や未練はないか?」と自問自答した。
後悔はない。
「ああしておけば良かった」「こうしたかった」「こうだったら良かったのに」というのは、全くない。
自分の、ここまでの歩みを、受け入れている。
ハトホルの記事翻訳が途中になってしまうのは心残りだが、「何をおいてもこれだけはやっておきたい」という強いものはない。
それを考えていたら、「いろんな人への感謝を伝えきれていない」と気づいた。
それは、言葉で伝えるというより、自分の働きやあり方で伝えていくというものだ。
それが充分に出来たとは言えない。心残りがあるとすれば、それぐらいだ。
だから、そういう働きをするために、もう少し生きてみたい。そんなことを思った。
一日を感謝で終えられるなら、後悔は消えていくのかもしれない。
今日一日かかって、翻訳していたハトホルの記事に、こんなことが書いてあった。
"古代エジプトにはマアトという女神がいました。マアトは一組の天秤を持っていました。死に際に秘儀参入者の心臓が秤の上に置かれ、反対側には羽が置かれました。もし、心臓が「羽のように軽ければ」、秘儀参入者は天界、つまり、高次の意識状態に入ることができます。しかし、心臓にネガティブな感情・後悔・悲しみがあれば、秘儀参入者は低次の世界に戻らなければなりません。"(The Art of Jumping Time Lines 時間軸を飛び越えるアート2010/08/03)
「マアトの秤」は、有名な話だ。
まだまだ私の心臓は、マアトの羽とは釣り合わないだろうが、少なくとも、後悔や悲しみはほとんどない。
「心臓を羽のように軽くする」、それを目指して、日々を、感謝と共に生きるのもまた、一つのあり方かもしれない。
家族の無理解に、自分の一面は「何でこうなのか」と理不尽さを感じているものの、他の部分では「どうでもよい」と感じてもいる。
完全に「どうでもよい」と思っている自分の一面にシフトできれば、心理的にはもう少し楽になるかもしれないが、状況的には悪化するのかもしれない。
少なくとも、私は、家族との関わりではベストを尽くしてきたと思うし、やれることは全部やったと思う。
ただ、もう周波数の著しいズレは埋めがたく、今更どうこうしようという意欲もない。
無理解な扱いを受けても、家族に対する感謝の念が減らないなら、家族とのレッスンは終わったとみなして良いのかもしれない。
逝く時は、家族に対する葛藤も全て手放してから、逝きたいものである。