「私は自分でも理解できぬメッセージを伝える使者にすぎなかった」
翻訳への意欲は突然、芽生えた
2021/07/15(木)、ふと思い立って、私は、トム・ケニオンのチャネルするハトホルとトムの英文記事の翻訳を始めました。
こちらにまとめています。
とはいえ、元々、自分で翻訳をしようとは思ってもいませんでした。
お世辞にも私は英語ができるとは言えないからです。
しかし、この時は、「機械翻訳を使えば、ひょっとして自分にも翻訳ができるのでは?あのハトホルやトムの記事も訳せるのでは?そして、それを求めている人たちがもしかしたらいるかもしれない」、そんなことを思いました。
それ以前、私は特に熱中できることがなく、読書とnote作成と軽い運動・ワークという過ごし方でした。
けれども、「自分にも翻訳ができる」とわかり、必要とする人がいるかもしれないという予感に突き動かされて、私はこの営みに熱中するようになりました。
事柄の意味を、自分はよく知らない
そして、最近は、こんなことを思うようになっています。
「私は自分でも意味のわからぬメッセージの伝達者だった」
最近、自分や他の幾人もの方たちはこういう役割なのかもしれないと思い始めています。
ハトホルやトムの記事は、それ自体としては、理解しようという意欲があれば、理解できるものです。
しかし、今、このタイミングで、私が翻訳に熱心に取り組むようになったという事柄の全体は、正直言って、私には意味の理解できない事柄です。
知性は知らず、ハートは「知っている」状態です。
英文記事の翻訳に取り組むということ、また日本語でそれを公開・紹介していくこと、その意味がもっとはっきりわかるのは、まだ先のことかもしれないし、永久にわからないのかもしれません。
それでも、必要なことをしているという感覚があります。
「アサシンクリード2 リベレーション」終盤の主人公の台詞
「私は自分でも意味のわからぬメッセージの伝達者だった」、これは、「アサシンクリード2 リベレーション」というゲームの終盤で、主人公が口にする台詞の一節です。
「エツィオ三部作」の最後の作品です。
この作品には、二人の主人公がいます。
現代編のデズモンド・マイルズと、彼の先祖で、ルネサンス期のイタリアで活躍したアサシン、エツィオ・アウディトーレ・ダ・フィレンツェです。
物語はデズモンドが、DNAにある先祖の記憶を追体験するアニムスという機械を使って、エツィオの人生を辿ることで展開します。
「アサシンクリード2 リベレーション」の最後、エツィオは、マシャフの書物庫で、一人、こんなことを呟きます。
動画はこちらです。09:44~
この情景を、文章で描いているサイトから、引用します。
「なぜ私はこんなことをしているのかわからないが、これをするように駆り立てられている」、そう思う時、もしかすると、自分は、自分では意味のわからぬメッセージの伝達者なのかもしれません。
個々の情報だけでなく、自分の人生を生きるというのが、誰かにとってのメッセージ、そんなことがあるのかもしれない、ゲームを見ると、そんなことを思わされます(ちなみに、この「エツィオ3部作」は、とても気に入っている作品の一つです)。
こうなると、この世での評価は完全にどうでもよくなるような気がしてこないでしょうか。
むしろなすべきことの完遂に意を注ごう、私はそう思うようになっています。
この記事を書こうと思ったきっかけ
今日、Twitterでこんなtweetを目にしました。
自分が今まで情報に触れてきた順番とか速度とか考えると何かに導かれてるとしか思えず、でも実際何か達成できてるかはわからないという、妙な感覚がある
どの情報にどのタイミングで会うかは人ぞれぞれ
結果死んだとしても、そういう導きだったんだろうなと思う
他人についてもこれは同じ
この方は、567枠珍のシェディング被害の情報を収集している方です。
このことにご興味のある方は、フォローをオススメします。
このtweetを読んだ時、私は先のエツィオの台詞を思い出しました。
自分が携えているものを、本当に伝えるべき人に、伝えることができたならば、自分の歩みには意味があったと言えます。
たとえそれが、知性でははっきりわからなかったとしても。
エツィオが妻に宛てた手紙
この記事と、直接は関係ないのですが、エツィオが妻に宛てた手紙がとてもいい内容なので、先の情景を描いたサイトより転載します。
人生の最期にこう思えて、終えられたら、最高です。