【世界史】大王の後継者たち~ディアドコイ戦争~第9章 アンティパトロスの後継者
こんにちは。
こんばんは。
RAPSCALLI😊N です。
みなさまお元気でしょうか?
今回もディアドコイ戦争を見ていきましょう。
ディアドコイ戦争についての記事は今回で10回目になりますが、ここまでの記事をまだ読んでいないよという方は是非下のマガジンにアクセスして読んでいただくこと強くおすすめします!
1記事1000-1500字程度と読みやすい長さになっているので、これまでの記事に目を通してから本記事を読むと大変分かりやすくなるかな思います。
さて、今日の本題に入っていきましょう!
アンティパトロスの死
80歳になったアンティパトロスが、間もなくその生涯を終えようとしていました。
アンティパトロスはアレクサンドロス大王の父親・ピリッポス2世の代からマケドニア国王に仕え、マケドニア随一の重臣でした。
アレクサンドロス大王がアケメネス朝ペルシアの征服のため東方遠征を実施した際には国王不在の中、マケドニア本国にとどまって摂政として内政を任されました。
そして、アレクサンドロス大王の死後、実権を握ったペルディッカスの討伐に参加し、その後のトリパラディソスの軍会ではペルディッカスの代わりに摂政に就任しました。
その1年ほど後にアンティパトロスは病死してしまいます。
そうなると必然的に問題になるのは、アンティパトロスの跡を継ぐのが誰か、すなわち帝国の摂政に誰がなるのかということです。
この問題を巡って、マケドニア帝国が大きく変貌していきます。
カッサンドロスとポリュペルコン
摂政であったアンティパトロスからすれば、摂政の位を息子のカッサンドロスに譲るというのが自然な考えだったかもしれません。
しかし、死ぬ間際のアンティパトロスはカッサンドロスではなく、部下のポリュペルコンを摂政に任命してしまいます。
ポリュペルコンはアレクサンドロス大王の東方遠征に参加し、マケドニア兵からの信頼の厚い人物で、70代後半のため経験も豊富でした。
世襲に固執せず、能力の高い人物を後継者に据えようとしたという点でこれは優れた判断だったかもしれません。
しかし、この決断が息子・カッサンドロスの反発を招くのは必然です。
カッサンドロスはポリュペルコンから摂政の座を奪い取るため、味方探しに奔走します。
アンティゴノスとエウメネスの和解
エウメネスはアンティゴノスとの戦いに敗れ、ノラの砦に立て籠もっていました。
しかし、完全に孤立無援の状況で、諦めたエウメネスはアンティゴノスとの交渉を試みます。
この交渉は意外にもスムーズに進みます。
アンティゴノスとエウメネスはともにアレクサンドロス大王の下に仕えた家臣同士で、お互いの才能を認め合っていたため、アンティゴノスとしてもエウメネスを処刑するよりは自分の味方として引き込んでおくほうが望ましいと考えたのです。
そのため、エウメネスは許され、アンティゴノスのもとで元のようにカッパドキアの支配を任されことになりました。
このようにしてエウメネスはまたもや困難な状況を上手く切り抜けることに成功します。
最後に
こうしてアンティゴノスとエウメネスの和解で一旦治まった戦争ですが、西では対立するカッサンドロスとポリュペルコンが味方集めに奔走しており、また、いつ戦争がおきてもおかしくないような状況でした。
今後、マケドニア帝国がどのようになってしまうのか。
気になった方は是非次回の投稿を楽しみに待っていてください!
では、また。