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昭和11年の三大事件に迫る!!

西暦1936年(昭和11年)とは、
1931年に満州事変、32年に五・一五事件、
そして一年後の37年に盧溝橋事件による日中戦争、
39年には第二次世界大戦の始まりと、
正に、歴史の火薬庫が爆発するかしないかの、
ヒヤヒヤの位置に存在します。
そして、そんな年に、日本国民に印象づけた、三つの事件が起きています、
即ち、

2月26日 二・二六事件

5月18日 阿部定事件

7月25日 上野動物園黒ヒョウ脱走事件

これらが分かりやすいのは、一つの事件が起きてから、ほぼ二か月以内である事、そして7月末までの半年以内に発生している事、
現在、これらは、俗に、『昭和十一年の三大事件』と呼ばれています。
今回はこの三大事件を詳しく見ていきます、
またこれらの事件を分析する事によって、実は後の、『戦争』という嵐を突き進んで行く日本の姿が見れるからです。

2月26日 二・二六事件




二二六については、先に起きた五一五との関連がかかせません。
五一五事件の記事はこちら。

満州事変、五一五事件をきっかけに、政治は完全に軍部の手に委ねられました。
五一五が海軍中心の犯行であるのに対し、二二六は陸軍による日本最大のクーデター未遂事件といわれます。
また、五一五が9名による首相官邸の襲撃に対し、二二六はその数約1400名あまり。
またターゲットは首相官邸ばかりではなく、永田町や霞が関、新聞社にも及びました。
また犯行に及んだ1400名余りの将校たちは、直前に満州への派遣が決まっており、それに対しての反乱だったようです。
この時の首相である岡田啓介は、秘書が身代わりになる事で、幸いにも一命を取り留めました。そして、後に東条内閣崩壊後を継いで首相となる、当時は海軍侍従長である鈴木貫太郎が負傷しています。
翌日には東京市(当時)全体に戒厳令が敷かれましたが、反乱は2日後の28日に鎮圧されました。

5月18日 阿部定事件



東京市荒川区にある待合と呼ばれる旅館にて、仲居をしていた阿部定が、5月18日未明、愛人男性を絞殺した上に、男性器を切り取り逃走した事件。
阿部定は、2日後に逮捕されたが、センセーショナルな事件であるが故に、「阿部定パニック」とも呼ばれ、号外も出された。
また同年初めに、「二二六事件」が発生している事から、「試みイチ・ハチ」「5-18」「5月18日」とも呼ばれる。
また当時は、この様な世相や時事を取り入れた内容を映画化するという事が多く、「阿部定事件」も映画化された。
何と、後に阿部定本人が出演している映画も撮られた。
また、「阿部定事件」に類似した事件も戦後に発生している。
晩年、阿部定自身は失踪しており、彼女の行方も戦後最大のミステリーとなっている。

7月25日 上野動物園黒ヒョウ脱走事件




7月25日早朝、恩賜上野動物園から、一頭の雌の黒ヒョウが脱走した。
この黒ヒョウは、暹羅(しゃむ)、後のタイ王国から送られた物で、
5月18日(奇しくも阿部定事件が発生した日)に、来日を果たした。
気性が荒く、渡航中も、檻を壊して脱走する事が多々あったという。

動物園側は、即刻その日を臨時休園とし、黒ヒョウの捜索にあたった。
事件が発生した25日は、学校が夏季休暇に入ってからの最初の日曜日。
動物園に来る事を楽しみにしていた子どもも多かったろう。
しかし、上野公園への一般市民の立ち入りは禁止され、捜査は特別警備隊と呼ばれる警察機動隊、猟銃組や、警察犬も動員され、上野公園はまるで今年初めの二二六のような厳戒態勢となった。
また周辺住民も黒ヒョウの襲撃に怯え、固く家の扉を閉ざしていた。
そして黒ヒョウは、逃走から十二時間後、無事に捕獲される。

しかし、この事件はこれで終わりではなかった。
同月30日、今度は園内の雌の鹿が脱走した。
この鹿は、上野公園内を走り抜け、上野広小路において、群衆に取り押さえられた。

次々と起こる動物脱走事件。
残念ながら、これがのちの第二次世界大戦時に起きた猛獣殺処分のきっかけを作る原因となってしまった。

因みに『ぞう列車で行こう』でお馴染み、戦時中の動物殺処分から守ったといわれる名古屋市の東山動物園の開園は、一年後の1937年(昭和十二年)の事である。


 


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