天気晴朗ナレドモ波高シ

この言葉は
日露戦争中の
1905年(明治38年)
5月28日に
東郷平八郎率いる
日本の連合艦隊が
ロシア海軍の
第2、第3太平洋艦隊
(当時、日本では
“バルチック艦隊”と呼んでいた)
を発見した時に
連合艦隊作戦参謀の
秋山真之中佐が
大本営へ打電した文面の
一部です。

では
当時のロシアの
バルチック艦隊とは
どういう艦隊なのか?

私は軍事オタクでは
ないので詳細は
知りませんが
かいつまんで
言いますと
こんな感じ。

当時、
ロシアのバルト海に
展開する艦隊。

バルト海から
大西洋を渡り、
アフリカの希望峰(ケープタウン)沖、
インド洋を渡り、
マラッカ海峡を通過し、
◆極東(“Far East”。当時の
 ヨーロッパの人から見れば
 アジアは“Far East“。
 ちなみに、今でも
 極東にいるアメリカ軍の 
 軍人および家族向けの
 放送は”FEN(Far East Network)“
唯一の海軍根拠地の
◆ウラジオストク
 (日本語にすると
 「極東を制圧せよ」
 という意味なんだそうです。
 司馬遼太郎の
 ◆坂の上の雲
 に書かれてました。
 こわ!

を目指してたそうです。

当時
東郷平八郎率いる
日本海軍は
バルチック艦隊が
どこのルートで
ウラジオストクを
目指してくるのか?
調査に調査を 
重ねていたそうです。

当時
日本海軍が
想定していた
バルチック艦隊の
ウラジオストクまでの
ルートは
◆対馬海峡ルート
◆津軽海峡ルート
◆宗谷海峡ルート
の3つのルート。

当時は今のように
通信手段も発達していない。

バルチック艦隊が
日本近郊に
来る航行ルートの判断を
誤れば
それまでの
日本海軍の
対バルチック艦隊撃破の
訓練は水の泡。

バルチック艦隊と
あい見えることなく
バルチック艦隊は
ウラジオストクに
到着し、
シベリア鉄道で
ウラジオストクまで
送り込まれるロシア兵と共に
ウラジオストクから
日本はロシアから
攻撃をうける。
そうなったら
日本はロシアに
占領される。

さらに、
203高地(中国の旅順にある
標高203m高地。1905年1月1日に
ロシアの旅順要塞は
日本軍によって陥落された。)
で戦死した1万を超える日本兵
4万人を超える日本の負傷兵、
その方たちの為にも
バルチック艦隊と
あい見え、
撃破しなければ
ならないと
思われたと
思います。

そのような中、
バルチック艦隊は
どのルートを航行するのか?
東郷平八郎率いる
日本海軍は
情報のネットワークを
張り巡らし、
情報収集の結果、
東郷平八郎連合艦隊司令長官は
こう言われたそうです。

「対馬よ。」
(司馬遼太郎“坂の上の雲”より)

結果は
東郷平八郎の読みどおり
バルチック艦隊は対馬沖を
航行し
日本海海戦で
日本海軍は
バルチック艦隊を
撃破しました。

ここで
時間は遡りまして
東郷平八郎連合艦隊司令長官の
逸話を。

日露戦争が始まり、
ロシアのバルチック艦隊が
日本を攻めてくる情報を
入手した日本海軍。

では、
ロシアのバルチック艦隊を
迎え打つ日本海軍連合艦隊の
司令長官は
誰にすべきか?
ということになったそう。

明治天皇の
ご承認を
いただかなくては
ならない。

日本の命運を賭けた
ロシアバルチック艦隊との
戦いに勝利できる
未来を背負った男は
誰なのか?

当時の海軍大臣だった
山本権兵衛は
明治天皇に
こう言われたそうです。

“東郷平八郎です。”
と。

当時
東郷平八郎は
舞鶴鎮守司令長官という閉職にいて
予備役を待つばかりだったそうです。

そこで
明治天皇は
山本権兵衛に
なぜそんな閉職にいる
東郷平八郎を推したのか?
日本海軍には
東郷平八郎よりも
役職が上の軍人が
いるではないか?
と思われたと
思います。

そして
その理由を
山本権兵衛に
聞かれたそうです。

そして、
山本権兵衛は
こう言われたそうです。

「東郷は運の強い男で 
 ございますから。」
(司馬遼太郎“坂の上の雲”より)

この
山本権兵衛の
明治天皇への
一言で
東郷平八郎は
日本海軍連合艦隊の
司令長官に
抜擢されたそうです。

この時の
山本権兵衛海軍大臣の
言われた
◆運の強い男

◆運の強い
という意味は
普段、自分が
何気に感じている
◆ラッキー!
とは程遠いものだと
思います。

ちょっとしたことで
◆ラッキー!
と思ってる自分
なんか
想像もできません!

すいません。
話が長くなりまして
申し訳ございません。

結局
何が言いたいかと
言いますと、

その
バルチック艦隊を
発見した
日本海軍連合艦隊の
秋山真之中佐が
大本営へ打電した文章。

全文は
こちら。

◆敵艦見ゆとの警報に接し
 連合艦隊は直ちに出動
 これを撃滅せんとす
 本日天気晴朗なれども波高し 
 皇国の興廃この一戦にあり 
 各員一層奮闘努力せよ

名文です。

この中の
◆本日晴朗なれども波高し
という文章は
敵を発見した時の
究極の状況での
現場の軍人から
大本営への打電には
必要のない文章だとは
思います。

秋山真之中佐は
大本営への
打電の文章を
艦隊の打電の担当者に
最初は
このように打て、
と言われたそうです。

◆敵艦見ゆとの警報に接し
 連合艦隊は直ちに出動
 これを撃滅せんとす
 皇国の興廃この一戦にあり 
 各員一層奮闘努力せよ

その直後、
その打電の担当者に
◆待て。
と言われて

◆本日天気晴朗なれども波高し

という文章を
追加されたそうです。
(司馬遼太郎“坂の上の雲”より)

実際に
そういった
やりとりが
あったのか
わかりませんが

◆本日天気晴朗なれども波高し

という文章は
事実として
残っています。

では
なぜ
秋山真之は
この文章を
大本営への
打電に書かれたのか?

いろんな方々が
秋山真之の
その意図について
書かれてます。

今となっては
その時の
秋山真之の
意図は
わかりません。

が、
私は
その時、
秋山真之は
この一文で

◆これまで
 バルチック艦隊撃破という目標に
 向かって
 苦しい訓練を重ねてきた
 日本海軍連合艦隊の
 乗組員への感謝と信頼

の意を伝えたかったのではないか?
と思います。

秋山真之は

◆敵艦見ゆとの警報に接し
 連合艦隊は直ちに出動
 これを撃滅せんとす

という軍人としての
◆強い意志の文章と

◆皇国の興廃この一戦にあり 
 各員一層奮闘努力せよ

という
◆部下を叱咤激励する命令
の文章との間に

この一文を
添えることで
これまでの
厳しい訓練を積んだ
連合艦隊乗組員の仲間に対し

◆感謝と信頼
を伝えたかったのではないか?
と思ってます。

◆君達はこれまでよく訓練した。
 今日は天気晴朗。
 ということは
 我々にも
 バルチック艦隊にも
 相手の動きはよく見える。
 視界のよさで言えば
 五分五分。

 しかし、
 波は高い。 
 我々はこれまで
 波が高い時でも
 敵艦に砲弾を命中させる訓練を
 重ねてきた。

 一方、
 バルチック艦隊は
 バルト海からの長い航海で
 疲弊しているだろう。

 波が高いということは
 戦局は
 我々に有利に働くはずだ。
 そのことは
 君達にも
 わかるだろう。

 今日こそ
 君達がこれまでの訓練の成果を
 十分に発揮する時だ。
 私は君達の勝利を信じている。
 君達なら勝てる。
 我々なら勝てる。

と。

私個人の妄想です。

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#日本海海戦
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#東郷平八郎
#バルチック艦隊

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