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終末期患者さんたちとの語らい

前回の記事から、私たちの精神的幸福について書いています。

早速ですが、みなさん、般若顔と菩薩顔ってご存知ですか?
 
病院勤務時代の看取り経験を通して、人の死に顔には大きくふたつあって、恨めしそうな般若顔と、やすらかな菩薩顔があることに気づきました。当時在籍していた病院では、原則として、すべての入院患者は、入院時に詳細なプロフィール情報を提出しなければなりませんでした。日常的な看護と介護を円滑にするうえで、その人の成育歴や性格や価値観といったものが有用な手がかりとなる場合があるからです。
 
実際のところ、単に手続き的なこととして提出させているだけの場合もあるでしょうが、患者の家族側としてはかなり骨の折れる作業です。それくらい、かなり細かいことを具体的に書く必要があるのです。
 
というわけで、私は夜勤の時間帯はほとんど、患者ファイルを引っぱり出してきて、私が最期を看取った患者さんや、終末期の患者さんの人生について読み漁っていました。
 
実は、当初の私は、家族との関係性の良し悪しが死に際の顔の表情の要因ではないかと予測していました。見舞い時には入館名簿に記載しなければならないので、患者さんのご家族との接触頻度や回数はほぼ把握できています。
 
しかしながら、「般若顔の人は来訪者が少なくて、逆に菩薩顔の人は来訪者が多かったのではないか」という仮説は立証できませんでした。というか、そもそも良好な関係の家族がいれば、最期の瞬間に私が立ち会うことなどないわけですからね。つまり、実質的に天涯孤独の人であっても、半分の人は菩薩顔すなわち、やすらかな顔で旅立っていくということです。
 
つぎに立てた仮説は、これまでの人生におけるネガティブな案件を清算できているかどうかが、この世に対する納得度や満足度に影響するのではないか……ということでした。ただ、残念ながら、入院関連の書類ではそこまで踏み込んだ記録は望めません。そこで私は終末期の患者さんで、筆談も含めコミュニケーションがとれる人たちと、機会を見つけては会話する時間を持つようにしたのです。
 
人生での挫折話とか苦労話とか対人トラブルとかを勉強させていただきました。その結果、かつて迷惑をかけた人や、仲たがいした人に対して、何かしらの形で謝罪したり感謝したり、自分なりの清算を果たした人は、だいたいがスーッと静かに息を引き取るケースが多いのだなぁと感じたものでした。
 
でも、それよりも大きな要因がわかったのです。それは、もうカラダが動かせなくなったり、余命いくばくもない状態に陥ったりしていても、具体的な夢や希望、目的や目標を持っていて、それを叶えるためにあれやこれや想いを巡らしている人は死に顔が穏やかであるということでした。調査や分析に甘いところはあるでしょうが、一連の病院での活動の中で、私なりに死というものに対するひとつの評価法を得たことは、以降の仕事にかなり役立っています。 
 
私なりの、身勝手かもしれない「般若顔と菩薩顔の決定要因」説。それを見出したことで自己満足に酔いしれていた私でしたが、しばらくすると落ち込んでいくことになります。

私は結構、本を読むほうなのですが、哲学系の本を読むほどに、下手をしたら、もう2000年以上も前の時代から、多くの人がレゾンデートル(自分の存在意義)の重要性について語っていることに、改めて気づかされたからです。
 
注意してみると、別に哲学者だけの専売特許でもありません。私のこどもが小さかった頃に年がら年中歌っていた『アンパンマンのマーチ』。あの歌詞にも、「何のために生まれて、何のため生きるのか。わからないなんて、そんなのはイヤだ」というフレーズが出てきます。アンパンマン作者の故・やなせたかしさんは、多くの著作の中で、反戦と同じくらい、生きることの意味についても説いています。
 
中学校の時、現代国語の課題図書であった三島由紀夫の作品の中にも、「結局、人の幸せというのは、夢や理想を実現するプロセスの中にしかない」と書かれています。同じく、英語の時間に読まされた、シェル・シルヴァスタインの『ぼくをさがしに』でも、やっとのことで願いを叶えた主人公が、すでに持っていた別のものを手放して、再び自分探しの旅に出る……というストーリーが綴られています。
 
そんな次第で、「なぁんだ。人生を生きる意味が大切なんてことは、誰だって言ってきたことじゃないか」と、がっかりしたものでした。
 
でもまぁ、私たちは老いていく過程でいろんなものを失くしていきます。
仕事、おカネ(給料)、健康、反射神経、記憶力、視力、聴力、友人、家族……。つまり、老いるとは、喪失のプロセスなのです。残るのは自尊心というか、つまらないプライドかもしれません。
 
なので、例え仕事はリタイアしても、人間関係がなくなっても、不健康になっても、何かひとつでいいから、自分が生きていることの意味を持ち続けることはとても重要だと思います。できれば、それが世のため人のためになることであれば素晴らしいと思います。でも、そうじゃなくても、ささやかな目標であっても、それを実現させようと創意工夫を重ねることで、精神的幸福が得られるのではないか……。そう思うのです。
 
そんなことがひとつもなくって、来る日も来る日も、ただただ起きて、食べて、寝て…の繰り返しでは、例え身体がそこそこ動いたとしても、心が虚ろで虚しくて、決して満たされることはないような気がします。それどころか、そんな生き様は、ただ単に若い人たちのパイを奪っているだけとも言えるかもしれません。
 

私が関わった患者さんで、じっくりと昔話を聴かせていただいた次の日から300日近く毎日、ベッドの右手の窓から見える景色を写真に撮り続けた女性がいました。高台にある病院の入院病棟からの四季折々の移り変わりが見て取れました。その季節の中での移ろいをひたすら撮り続けたわけです。

同じように、毎日毎日、川柳をひとつ書き遺して逝かれた人。大切な人に伝えたいことがあるから代書してくれと頼んできた人。そして、看護と介護に携わった全スタッフに一輪ずつバラの花を手渡したいから買ってきてくれと頼んできた人……。さすがに、その患者さんがそれを実行してまわった数日間は、病棟じゅうが真珠の涙であらわれることになりました。
 

レベルはどうでもいいのです。どんなことでもいいから、目標を具体的に描くこと。そして、それを実現するために今日も生きるんだという明確な意図を持つこと。一日単位でも、週単位でも月単位でも、季節単位でも、一年単位でも構いません。全部だったら、それこそトレビア~ンだと思います。
 

さて…。たまたまこの記事に出くわしたみなさん。あなたがいま生きていることの意味は何ですか???

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