【終活110番011】親子と言えどもギブ・アンド・テイク
興味深い意識調査結果をご紹介します。「家」という概念がすっかり崩れた今日でも、ごく一部の親世代(70代・80代)の中には、「産んで育ててあげたのだから、子が親の老後を面倒見るのは当然」と考えている人たちがいます。私の周囲のシニア10名に話を聞いてみると、そのうちの2人がそうでした。
逆に、子ども世代(40代・50台)の10人に訊いてみると、なんと全員が「子が親の老後を支えるのは当然」と回答しています。ただし、うち8人は、
「親子なのだからやむを得ないだろう」
「経済的・時間的にゆとりがあればそうしてあげたい」
「親子の縁は切れない以上、まあ仕方ない」
「それが親子というものだから」
「そう頼まれたら断ることもできない」
「それが当たり前みたいな態度をされたら面白くはない」
「具体的に何をどう支えてほしいのかを明確にしてほしい」
「仕事も家庭もあるのだから、何でもかんでも対応できるとは限らないけれど」
そう付け足しています。どうやら、親の老後をみることに対して、必ずしもポジティブということではありません。妥協であったり、条件付きだったりするのです。これが子ども側の本音と言っていいでしょう。
実は、「子どもが親の面倒を見るのが当然とは思えない」と回答した8名のシニアにも本音があります。異口同音に、「わが子が支えてくれたら理想だけれど、子ども側の事情もあるだろうから無理は言えない」と言っているのです。つまり、親世代・子ども世代のいずれも8割が建前で回答しているということになります。建前を駆使せざるを得ない理由は、親には子への遠慮があり、子には親への配慮があるからです。どちらにも相手に対する気遣いややさしさがあります。とても感動的だと思います。
ですが、いわゆる老老介護の現実を見ていて気づくことがふたつあります。まず、「産んで育ててあげた」と親は言うかもしれませんが、子どもからしたら、親に頼んで産んでもらったわけではありません。親側にしても、必ずしも計画的にそうした人ばかりでもありません。いわゆる「できちゃった」から育ててきた…。そういうことだって多いと思います。
となると、むしろ、子どもを育てるのは親側の責任です。「産んで育ててやった」はもちろん、「産んで育ててあげた」という物言いは勘違いもいいところで、両者のこの意識の違いが老老地獄の一因になっているのではないでしょうか。
つぎに、地球上のあらゆる生き物のうち、子が成人した後も何十年と生きながらえて、挙句、子に介護を求めるなどというのは人間だけです。700万年ともいわれる人類の歴史において、親の介護問題に苦慮しているのは現代人しかいません。要は、私たちの遺伝子には、大人になってから老親の面倒をみるというプログラムは、そもそも組み込まれていないわけです。だから、老親の介護をしながらネガティブな感情を抱いてしまったとしても、それは致し方ないことなのです。
こうした壁を乗り越えて子に老後の支援を求めるのであれば、親側に求められるのは予告と予算です。「いずれこうなったなら、こうしてほしい」と「そのために必要なおカネはこれを使ってくれ」です。これを明らかにしたうえで、キチンと真摯にわが子に依頼することです。
そして、これは早いに越したことはありません。そうすることで子どもの側にも親の老後を支えようという覚悟と責任が定まるのです。逆に、ここをないがしろにしたまま、「介護が必要になったから頼むよ」というだけでは、できちゃった婚やできちゃった育児と同じです。無計画にもほどがあります。老親は赤ちゃんみたいに可愛くもないし、いい匂いがするわけでもありません。真逆です。
なっちゃった介護だけは回避しなければなりません。わが子のことを想うなら当然のことです。親子と言えどもギブ・アンド・テイクです。そして、いま40代・50代の人たちにしても他人事ではありません。近い未来、この年代の人たちも「老親」になるのですから。
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