福祉はおカネじゃない?
福祉はおカネじゃない?
かつて、悔悟保険制度がスタートした時、今は亡きコムスンという企業が介護ビジネスに参入した際に、その商業主義的なやり方を指して、「福祉はビジネスや金儲けではない」とか、「社会的弱者のことは、人道的立場で考えるべき」等という批判が、主に同業者内で飛び交ったのを記憶しています。介護保険スタートから20年以上が経った今でも、同じように叫んでいる福祉関係者も結構います。
確かにコムスンは非合法的なことに手をつけてしまったからまずかったけれど、だからと言って、福祉はボランティアとでも言いたげな福祉系専門職に出会うと、私は違和感を覚えます。
みなさんはそんな言葉に耳を貸してはいけません。まずは経済的な安定を目指すべきで、それを成し遂げたうえで、ゆっくりと社会正義とか弱者救済を追求していけばいい。そう思っています。
福祉系専門職であれば誰でも知っている(?)マズローの欲求五段階説を思い出してください。人間の欲求は五段階のピラミッドになっていて、低次元の欲求が満たされることで自然とより高次元の欲求が生じてくるというものです。逆に言えば、生きていく上でもっとも基本となるニーズ・ウォンツが満たされない限り、精神性の高いニーズ・ウォンツを満たすことはできない…。そう読み解くこともできるのです。
欲求の段階は、下から順に、生理的欲求(人間の3大欲求::食欲・性欲・睡眠欲)→安全欲求(健康・経済的なもの)→所属欲求(会社・家庭・サークル等の組織)→承認欲求(社会的認知・尊敬・表彰等)→自己実現欲求(能力や可能性の開花)となっています。
つまり、人間なるもの、とりあえずメシが食えるようになって多少のゆとりが出てくれば、次第に世のため人のためになることをしたくなるもの。しかし、第1段階の「生理的欲求」や第2段階の「安全欲求」が満たされることなしには、ボランティア等の社会貢献など、とてもじゃないけど覚束ないということがわかります。ナイチンゲールやマザー・テレサにしても、財力があったからこそ、信ずる道を究めることができたわけです。
社会福祉士にも、「私は金儲けのために社会福祉士になったわけじゃない」とおっしゃる先輩方はとても多いです。でもそれは、おそらく儲けられないご自身のことを正当化・合理化するためにおっしゃっているとしか、私には思えません。
精神分析学の創始者フロイトの「防御規制理論」をご存知ですか? 要は、人間は自分の欲求不満が合理的に解消されない場合に、非合理的な適応の仕方で自分を守ろうとするものなのです。
わかりやすく言うと、イソップ物語の「酸っぱい葡萄」がそれを表しています。とても美味しそうな葡萄が高い木の枝にぶらさがっていて、それを食べようとしていろいろ試すものの、どうしてもそれに手の届かないキツネは、最後にこう言います。
「あの葡萄は酸っぱくってまずいんだ。だから、オイラ、いらないんだ」
葡萄の価値を相対的に引き下げることで、自分の欲求不満を処理しているわけで、言ってみれば負け惜しみということです。ちなみに、「負け惜しみ」は英語でこう表現します。
That's sour grapes.
「私は金儲けのために社会福祉士になったわけじゃない」
そんなふうに言っている先輩だって、本当のことを言えば、社会福祉士になってガンガン稼ぎたかったし、収入を増やすために奮闘していた時機もあったのではないでしょうか。
私はそう思うのです。でも、実際に時間とコストをかけて試行錯誤を繰り返したものの、それが叶わなかった。
そこで、金儲けに対する欲求と、稼ぐことができない自分自身のギャップを解消するために、「福祉はカネじゃない」という発言につながっていった…。
私は、こうはなりたくありませんでした。
みなさんも、このような先人達に惑わされないことです。みなさんを頼って相談に訪れた人に対して、まちがっても、「社会的に不遇なお客様だから、おカネを取ってはいけないのでは……」等と考えてはいけません。
可哀そうだと思う気持ちはわかります。でも、そういう人たちを救済するのは、私たちの役目ではありません。行政の仕事です。だから、「自治体の●●課に行って、こんなふうに言ってみてください」とだけアドバイスをしてあげればいいのです。
私たちが自腹を切って何かをしてあげるのは、いかがなものでしょうか? どうしてもそうしたいのであれば構いませんが、私たち自身の経済的ゆとりができてから無償で対応してあげればいいと思います。
この国で生きて行くかぎり、仕事とおカネはセットで考えなければダメです。なんてったって、永田町や霞ヶ関でニッポンの舵取りをしている人たちがおカネと利権のことしか考えていないのですからね。
この点は非常に大切なことなので、十分に気をつけるようにしてください。