けもフレ3シーズン2-4章:この世界は奇跡じゃないという話がしたい
元々けものフレンズは美少女動物園、
時々SFというIPだった。
だが、シーズン2の4章は確実に違った。
この章は後半以降、明確に、
SF作品として描かれていた。
※この記事はS2ー4章ネタバレを含みます。
・Science Fiction
冒頭の引用文は、ジャパリパーク最初期の調査班の一人、カコ博士の「視点」から語られた当時のファーストインプレッションだ。
この視点で語られるストーリーが展開される事は、けものフレンズが「SF作品」として成り立つ上では大きな意味を持つ。本当にただファンタジー美少女動物園をやりたいだけなら、島の成り立ちも、それを取り巻くヒト達の小難しい話もする必要なんて無いからだ。
しかし、どうか思い出してほしい。けものフレンズというIP作品は99%ファンタジーだが、なんでもあり異世界で何となく擬人化してふわふわやっている美少女動物園ではなく、現実世界に即したフィクション世界の上で「もしも、あらゆる環境を再現し、動物達が人の姿を形取る不思議な島が現れたら、この世界はどう対応するのか」というSFベースでこの世界が動いているということを。
そして未踏の地を歩む探検隊の如く、けものフレンズ3はS2ー4章でそこへ踏み込んだ。“Science Fiction”の通り、作中での科学者目線で未知の島へ足を踏み入れた出来事が綴られ、この島の非科学的な様相と、それを確かな現実として裏付ける目の前の事実に対して、彼女の反応も、暗にプレイヤーへ投げかけられた共感も、とてもシンプルだった。
ドキドキするだろう?
ワクワクするだろう?
ファンタジーではありながらも、
この島は、確実に、
隠された何らかの法則によって、
科学的に動く世界という事実に。
もう一度冒頭の主題を復唱しよう。このシーズン2の4章後半は、明確にSF作品だった。何故か?カコ編で科学者目線でのシナリオを展開したから?それはそう.com。
だが、4章にはそれに加えて「量子力学」がモチーフとされる要素がシナリオ構成に組み込まれており、より合理性重視のロジカルな展開を形作っていたからだ。
正確には、S2-3章でフェネックの「大切なものは目に見えない」の発言が「星の王子さま」を原典とする様に、S2-4章も「振り向くな」がキーワードとなる「オルフェウスの冥界下り」になぞらえたシナリオ展開が取られており、その内部でロジックとして働いている機構が「量子力学」モチーフという形だ。
とはいえ「量子力学」と言われてもピンとは来ないだろう、シュレディンガーの猫と言われると聞いたことはあるかもしれないが。ひとまずの説明は後回しにして、モチーフとされているシーンから見ていこう。
・生死の重ね合わせと希望
間接的に過去と現在が交差するメイン編11話、クライマックスにルーラーと1対1で対峙するヤタガラス。そこへ駆けつけた味方全員に対し、自分一人を残してアクシマから脱出するよう進言するシーンだ。プレイヤーへは、自分を信じろという自信のもと「島を出るまで決して振り向くな」という忠告も添えて。
先にこのシーンでヤタガラスが意図していた内容から前置きすると、ヤタガラスは全員のアクシマ脱出を見届けた後、自身諸共ルーラーを道連れの形で溶岩へ固めた後にダイオウが居た空洞へ封殺する自殺行為を敢行し、この現場を誰の目にも観測させなかったという事だ。
その結果、島外へ避難したメンバーからは遠巻きの島全体でのマクロな状況でしか様相を確認できず、現場でヤタガラスが決死の道連れを行ったというミクロの状況を誰も観測していない生死不明の状態を作り上げた。
だが事態が終わって現場へ戻ってきた後、ヤタガラスを熟知する従者のハシブトガラスは、状況証拠からヤタガラスが実行した内容、同時に生存が絶望的であることを推察する。
それでも、全ては推察であり、決定的な証拠を見たわけでも、その目でヤタガラスの最期を目の当たりにしたわけでもない以上、生きているかもしれないという可能性の希望が残され、ひいてはハシブトガラスへの「私がいなくなっても希望を持ち続けろ」というヤタガラスからのメッセージでもあったのが本意だ。
この「死んでいるかもしれないが、生きているかもしれない」という可能性上での「重ね合わせ」の状態こそが「量子力学」モチーフという訳だ(ここで「シュレディンガーの猫」を知っている人が『またアレかよ』という顔をする)。
・量子力学① ミクロ世界
まず量子力学とはなんぞや、端的に言えば物質を形作る最小構成単位「原子」やら、光を粒子として見た時の「素粒子」やら、極小の世界での物質(ミクロ)の動きを解明する学問だ。
先のアクシマで例えれば、目視で観測できるアクシマ全体(マクロ)の動きを研究するのが古来の物理学で、目で見えないアクシマ内部のヤタガラス(ミクロ)の動きを研究するのが量子力学。わりと100年前からやってる。
・量子力学② 粒と波
事の発端はさらに数百年ほど前の1600年頃「光とはなんぞや、ビームの様な粒子なのか、音波の様な波動なのか」で議論が加熱していた頃。物理学者アイザック・ニュートンは、プリズム現象から光は複数の色で構成されている発見から様々な色の粒が集合したとされる「光は粒子である」を主張し、同時期の物理学者クリスティアーン・ホイヘンスは、2つの光を交差させても粒同士をぶつけた様な軌道の変化が起こらない点と、水中で光が屈折する現象からホイヘンスの原理を作り上げ「光は波動である」と主張した。
眠たくなってきたので、けものフレンズの話題も間に挟もう。
けものフレンズでは、この「粒の性質」と「波の性質」に近く、両方の性質を持ったものが存在するため、例え話として合わせて紹介する。
まず、例えばここに1枚の壁があったとする。
ここで「粒の性質」を持つものはボールの様なもの、壁をすり抜けて通る事はできない。だが、音に代表される「波の性質」を持つ波長は幾分か壁を通過するため、壁の先でも知覚できる。
そしてアニマルガールの、けものプラズムによって生成された獣耳や尻尾などは「普段は衣服などの物質を通り抜ける(波の性質)が、自分の一部であると強く意識した時は通り抜けなくなる(粒の性質)」そして意識された尻尾ならスカートを持ち上げる、という挙動をする。それらを基にした設定という断定はできないし、この性質が粒と波の全てという訳ではないが、性質イメージの助けになれば幸いだ。
閑話休題。そのまま200年ほど「光なんもわからん」で2つの説を行ったり来たり、途中で波派のトーマス・ヤングが『水面で2つの波がぶつかり合うと波が強い場所と弱い場所で「干渉縞」と呼ばれる模様を作る波特有の現象が、光でも再現される』という実験結果で波派が優勢になったり、粒派のアルベルト・アインシュタインが『金属に光を当てると、ビリヤードの様に金属中の電子を跳ね飛ばす粒の性質が見られる』という実験結果、後のソーラー発電となる光量子仮説でノーベル賞を取ったりしていた。
どちらかが正しければ、どちらかがおかしくなる様な実験結果が交互に見つかっていく中、ついに光が粒か、波か、を見極める為の実験が行われた。
・量子力学③ 二重スリット実験
画像で左から用意された物として
①電子を1発だけ打ち出す銃(Electron beam gun)
②電子が通る隙間をニ箇所開けた板(Double slit)
③電子が当たった場所が反応する写真乾板(Screen)
この装置郡で電子を1発だけスリットごしに乾板へ撃ち、
「光が粒なら」乾板に写るのは通ったスリット側の1点だけ、
「光が波なら」同時に2つスリットを通った波模様が写るはず、
という二択が想定された実験が実施された。
結果から言うと、乾板には1点の粒が写る「粒の性質」を表した。
が、問題なのは反復検証を繰り返していると、電子の着弾位置の統計(a→d)が徐々に「波の性質」を表す干渉縞として表れたことだ。
「粒」とされる1つの電子しか飛んでいないはずなのに、スリットの片側しか通っていないはずなのに、実験結果は「もう片方のスリットから出てきた何かと電子がビリヤードの様に干渉しあって着弾位置がずれ、そのズレ方で現れる干渉縞は波が持つ性質」という超常現象をも疑う結果が打ち出されたのだ。
・量子力学④ コペンハーゲン解釈
こうして「粒か波か」を調べるはずの実験は「粒と波」という答えになっていない結果となった。失敗だったのか?いや、そうではない。
逆にこの実験結果そのまま「乾板に当たって見える様になった時は粒に、そこまでの見えない過程では波になっている」と解釈し『電子は観測されていない時は波として複数の可能性の中で存在するが、観測された瞬間に粒として可能性が1つへ収束して実体化する』という暴論の「コペンハーゲン解釈」が提唱され、この波と粒の性質両方を持った新たなミクロ概念が量子と定義されるに至った訳だ。
このコペンハーゲン解釈によって、上の二重スリット実験の結果は「観測できない波として2つのスリットを通過し→スリットを出た2つの波が互いに干渉し合い(複数回検証を重ねた際の干渉縞)→乾板への着弾で見える様になった際に、波過程の干渉でズレた位置で1つの粒へ収束して着弾した」という流れで説明がつくとされた。ぜんぜんわからん。担当者がラリっていたとしか。
・量子力学⑤ シュレディンガーの猫
さて「コペンハーゲン解釈」における量子は、実際に観測されて1つの粒へ実体化するまでは「雲のように波として複数の可能性で重なり合って空間に存在するもの」とされた。「なにいってだこいつ」と思った君は正しい、当時の物理学者も同じ様に「複数の可能性として空間に実在してるってなんだよ」「見た瞬間に具現化するとかありえん(笑)」とコペンハーゲン解釈のありえなさへブチギレていたので。
その中でエルヴィン・シュレーディンガーがコペンハーゲン解釈をあり得ないと反論するために述べた下記の思考実験がみんな大好き「シュレディンガーの猫」だ。
箱に放射性物質(量子)、放射線検知器、青酸ガス装置を取り付ける。
放射性物質はランダムな時間経過で量子がアルファ崩壊して放射線を発生し、検知器が反応する。
検知器が反応すると連動してガス装置も作動し、ネコが死ぬようにする。
ネコを入れ、蓋を閉めて内部を観測できないようにする。
一定時間経過後、放射性物質が崩壊したかどうかによって箱の中の猫は生きているか死んでいるか、開けるまでどちらか分からない状態となる。
ここでコペンハーゲン解釈だと、放射性物質の崩壊は観測されるまで確定しない上で「両方同時に存在する」ため、開ける前の箱の中では猫が生きている状態と、死んでいる状態の両方が、この世界に重ね合わせで「両方同時に存在し」箱を開けて観測した瞬間に猫は生と死のどちらかへ収束する、という解釈になる。
こうして「マクロ世界に置き換えて考えてみたらありえんやろ」という主張で、コペンハーゲン解釈への反論として論文に記載された思考実験が「シュレディンガーの猫」だ。論文内の例え話であり、決してシュレディンガーが実際こんなサツバツ装置を作ってネコを入れた暗黒マッド科学者ではないので実際安心な。
そしてS2-4章の序盤では「箱に入った猫(ホワイトサーバル)」に加えて「中を見ない」という会話が挟まれることから「シュレディンガーの猫」へのオマージュと、クライマックスにおける生死不明の重ね合わせ状態となったヤタガラスが量子力学モチーフである示唆となっている。
しかし悲しいかな、これだけありえないと言われつつも、当時提唱された量子力学解釈の中で最も二重スリット実験の結果を合理的に説明でき、最も破綻が出ていないのがコペンハーゲン解釈であり、シュレディンガーの猫も却って量子力学におけるミクロ世界の挙動を解説してくれるかのような扱いになってきている節もある。
・量子力学⑥ 不確定という前提
そういう訳でコペンハーゲン解釈は事実であるとする考え方で研究が進められ、さらに「量子は観測していない時は波になっており、かつ量子を常時観測することは不可能なため、量子の運動と出現位置は不確定な確率の範囲内でしか表せない」という前提が提唱され、未観測の量子が波として存在している位置の確率を数式で示す「波動関数」が登場する。
「常に量子を観測することはできない」というのは、上の二重スリット実験でいえば電子銃の発射から着弾までを全てカメラの様な観測機で捉え続ければ、常に可能性が収束した状態で記録できると思っても、観測機で撮影するための光を当てた時点で電子の挙動が変わるミクロ世界では、それ自体が観測対象への干渉(それこそ電子と光でビリヤードするようなもの)となってしまい、正確な運動の記録は得られない。
古典物理学時代の「時速1kmで北へ動いたので、北に時速1kmで動いたということです」の当たり前体操とは異なり、運動する量子へ干渉せず観測し続けることは必然的に不可能なため、北へ動いたようで北西に居るかもしれないし、北東に居るかもしれない量子の存在位置は、波動関数による確率の範囲でしか予測できない『確率解釈』という考え方が確立する。
よって、コペンハーゲン解釈の「観測すると結果が収束する」と「常に観測することは不可能」が合わさると「量子を観測していない間は複数の可能性のまま絶対に状態が確定しない」という『不確定性原理』が成り立ち、4章クライマックスでのヤタガラスの生死の重ね合わせはこの理屈で成り立っている。
しかしヤタガラスが不確定性原理によって重ね合わせ状態で踏み止まっても、誰かに観測してもらうまでは同じ不確定性原理によって作中でも長い間ずっと生死どちらでもない不確定な状態のままとなってしまう。
だが、観測され、可能性が生へ収束したヤタガラスは戻ってきた。
一体誰によって?いや、恐らくこの記事で最も簡単な内容だろう。
君だ
ちなみにこのコペンハーゲン解釈、不確定原理やら確率解釈やらのオカルトじみた理論に対して、発表当時に猛反発を受けたり上述のシュレディンガーの猫が述べられたように、アインシュタインもこれまでの物理学人生での経験から、全ての事象は必ず何らかの原理に基づいて確実な結果へ決定されるはずだという信念のもと、量子力学の確率でしか表せない事象という理論に激怒して『神はサイコロを振らない』という言葉を残したのだった、めでたし、めでたし。
・箱に残された希望
非常にモチーフ元の量子力学の説明長くなってしまったが、S2-4章では「振り返るな(見るな)」をキーワードとして、量子力学における「観測」をしないことによる「不確定性原理」でシナリオの機構を成り立たせている。
さて「箱」と「見るな」の組み合わせの一つに「パンドラの箱」という有名なギリシア神話が存在する。端的に言えば、色々あってパンドーラーが神々から「絶対に開けるな」と前フリされた災厄の詰まった箱(原典では壺)を好奇心で開けてしまい、封印されていた疫病・不幸・犯罪といった災厄の概念が世界中へ飛び出し、無事クソミソな結果になって終了、というお話。
これだけだと単に世界がクソまみれになるだけなのでもう少し続きがあり、パンドーラーが慌てて箱を閉めるまでに飛び出さなかった「エルピス」と呼ばれる物が箱に残された。エルピスは一般的に「希望」と訳されており、要は「どんなに災厄が蔓延っても手元には希望が残った!完」というのが大体のパンドラの箱引用で使われる粗筋だ。
が、原典の解釈で「災厄の詰まった箱にそんな甘っちょろい物が入ってるわけないだろ」という観点からエルピスは一説に「予兆・予知」ともされており、箱へ最後に残った災厄とは「今後起きる全ての事象への予知」であり、これが世界へ飛び出さなかったからこそ、人類は未知の未来へ「希望」の余地を残す事ができたという説もある。予知だけに。
ややナンセンスだがここに量子力学を絡めると、予知の災厄による観測で未来の可能性を単一に収束されるのを防いだことで、未来は雲のように複数の可能性のままで存続し、未来の可能性から最善の収束を選び取ろうとする意思、すなわち「希望」になったとも解釈できる。ヤタガラスが生死の重ね合わせ状態へ持ち込んで「希望」を残したのも同じ理論で、けものフレンズ3がシナリオにパンドラの箱モチーフを組み込んでいるならば、エルピスを予知とする説の上で採用した方がしっくりくる。
・振り向かない
さて、パンドラの箱と、量子力学(コペンハーゲン解釈)両方のモチーフが色濃く出ているとされるシーンが、以下引用のS2-4章カコ編におけるカコミスルとの別れの独白だ。
「振り返らずに、まっすぐ帰るのだ」というカコミスルの言葉に反して振り返ってしまった彼女は、カコミスルも、今通ってきた森も無い光景を目の当たりにする。もし、彼女がここで振り返らなければ、これが絶対となる今生の別れだったとしても「まだカコミスルはどこかで生きているかもしれない」という不確定性原理を根拠とした一抹の可能性と希望が残されていた。
けれども、彼女は振り返ってしまった。確かに「カコミスルはもういない」という事実を観測し、収束してしまった。可能性を全て失くした「私一人だった」という後悔のモノローグは『見るなのタブー』原典の1つでもあるギリシア神話の「オルフェウスの冥府下り」で、冥府から妻を連れ戻る途中に「振り向いてはいけない」という交換条件の中、出口間際に振り向いてしまったことで再び独りになってしまったオルフェウスを思わせると同時に、これもモチーフの1つとなっている。
また、終盤で洞窟へヤタガラスを迎えに行くのも同様のモチーフかつ「振り返るな」への言及も、オルフェウスとカコ博士の過ちを示唆した上で「流れ去った時を振り返って後悔しても時は戻らない、前へ進み続けろ」という二重のメッセージになる。
ちなみに元ネタのオルフェウスは自身の失敗を悔やみ(振り返り)続け、最終的にそれが原因で悲惨な最期を遂げるのだが、ここでは語らない。カコ博士は時が流れたアクシマで、同じ一人と一匹、同じ状況、同じ景色の中、彼女はもう振り返らなかったから。
余談だが「振り向くな」と「オルフェウスの冥府下り」をテーマとしたフリーゲムー、その名も"Don't Look Back"という作品がある。クリア時間30分ほどで近い趣を得られるため、気になった人はプレイ(Flash版終了でPCは不可、iOS/Androidアプリのみ)して解説記事を読んでみてほしい。
また「オルフェウスの冥府下り」繋がりで、ケルベロスが門番をする洞窟を、冥府下りでオルフェウスが潜った地獄の門に見立てたカレンダに対し、カコ博士は「望み(希望)を全て捨てよとはどこにも書かれていない」と返す。これは、作品として実在するロダンの地獄門にはダンテの『神曲:地獄編』より「汝らこの門を通る者、一切の望みを捨てよ」の碑文が刻まれているが、ここはそんな地獄の入り口ではないという教養に富んだ返しであると同時に、こちらも間接的に希望を持ち続けろというニュアンスだったのだろう。
・存在証明
話がだいぶギリシア神話へ逸れてしまったが、もう一度量子力学へ話を戻そう。シーンは初見で多くの人が困惑したと思われる、セーバルとアオツラカツオドリが重ね合わせとなって会話が進むシーンだ。
明確なロジックがあったヤタガラスと違って言葉通りでの使い方だが、この重ね合わせの見せ方も量子力学モチーフだ。始まりのジャパリパークの地へ佇み「懐かしい」と感じたセーバルは、このジャパリパークで一番最初にアニマルガールとして誕生した当時のアオツラカツオドリの視点と重ね合わせとなっている。
なお、このシーンでのフウチョウ二人はあくまでセーバルに対して返答をしており、アオツラカツオドリの声に対しては、セーバルへの言葉が間接的かつ抽象的に重なり合って会話としてのように見えている状態だ。
そのため、アオツラカツオドリのセリフを抜き出して、フウチョウ達の言葉をアオツラカツオドリへの具体的な返答にすると以下のようになる。
今、出会えたこの瞬間のこと
帰ってきた時に言う言葉
私が今「ここにいるよ」と伝えるため
今、君と同じ時間にいるよと伝えるため
君ではない誰か
そして君を呼ぶ声
君が今「そこにいる」から
今、同じ時間に居ることを確かめるため
この問答の肝はシンプルで、他者の存在を認めた上で「私はここにいる」という意思表示と「君がそこにいる」という肯定の存在証明だ。
けものフレンズ3では「見る」という行為が頻繁に強調され、その中でもここは特に「今、見ている」ひいては「君(アオツラカツオドリ)を認識している」を強調しており、これ自体が量子力学における「観測」をなぞっていると同時に、過去にアオツラカツオドリの存在が確かに観測されたという意味合いにもなる。
「見て、認識」する「観測」という行為は量子力学のコペンハーゲン解釈において、量子は誰かに観測されることで波動関数での確率的な存在が一つの位置へ収束するように、最終的に自身の存在というのは他者という観測者の認知を通じて確かに「ここにいる」という周囲共通認識で証明される。これは「誰も観測者が居ない森で倒れた大木は音を立てたか?」という問い掛けが有名だろう。
自身の存在証明は、原則として個人一人で行う事はできない。例えば、君が昼飯を食べながら「私は誰が何と言おうと主任サラリマンだ」と自己認識したとしても、もしかしたら自身の脳が認識できていない君の妄想かもしれず、その自身の認識が現実で絶対に正しいという証明は不可能だ。
だから、他者から「君は主任サラリマンだ」と認識されれば周囲共通認識が生まれ、君は確かに主任サラリマンとして現実に存在している証明となる。ややこしい例に対して本質はシンプルな事で、もし君が後ろから名前を呼ばれたら自分の事だと思って振り返る、それと同じ事だ。名前とは、自己の認知であり、他者からの認知だ。
・名付け
この記事の考え方は必ずしも合っているとは限らないし、量子力学自体も現代で不確定性原理が誤りという論文が発表されるなど、何が正しいのかは明らかになっていない。コペンハーゲン解釈の「量子は観測していない時は波に、できる時は粒になる」という基本も、真実はどうあれ「現状最もそれが実験結果と辻褄が合う理論」であり、科学とは「本当にそうなのか」より、まず「矛盾が無い説明の上で、実験結果を予測できる理論を作り上げる」ことが優先される。
始祖コンピュータの父、ジョン・フォン・ノイマンが量子力学に関わっていた頃、彼は量子がどう計算しても確率的でない確実な状態にはならない事を厳密な数学で証明した際「では何故人間が観測すると確実な状態へと収束するのか」という点について、大真面目に「現代科学で表せない人間の抽象的自我(心)で観測結果を見る、知る行為そのものに量子の収束を決定させる特殊な力がある」とSFもビックリの主張(ノイマンの観測理論)を残している。
凡人からすると非常に極端な例だが、これも「本当にそうなのか」より「それが辻褄の合う理論」という一つの科学理論で、この記事のここまでの内容もまた量子力学というモチーフに沿っての「そう考えると辻褄が合う」という私の理論であり、この自分なりの「そう考えると」に当てはめるプロセスこそが、よりシナリオのテーマを読み解く面白さへと繋がる。
シナリオが持つテーマを物語という媒体で描写されたものに対して、持てる知識と理論の上に当てはめてテーマを読み解く、あるいは自身が作り手としてテーマを既存のモチーフへ当てはめて伝えようとするのは、4章終盤の海とカコ編での「名前を付けると目の前の物事や、今の気持ちがよく分かる」まさにその通りで、特にこの「名付け」はセーバルぶらり旅以降のシナリオに頻出する、けものフレンズ3におけるコアを形成する概念でもある。
・ロマン
初代けものフレンズのリリースから早7年。このジャパリパークという世界には、作中の人間キャラにも、読み手にとっても未だ謎が数多く残されており、長いスパンで断片的に情報が開示されるのも、あえてその環境を促していると言える。
そして、可能性の情報量を持った謎には「神秘性」がある。見ていない、確かめ切れない場所には、量子の振る舞いの様に「複数の可能性」が、確率や状況的にほぼあり得ないとするものまで含めて同時に存在し、それはまるで現代日本において絶滅したとされるニホンオオカミやニホンカワウソが、まだ何処かで生きている希望かの様な「ロマン」という趣に言い換えることもできる。
アインシュタインの「神はサイコロを振らない」という、量子力学の確率解釈に対して最後まで反対を貫いた言葉には、合わせて「この世界に隠れた変数があるはずで、我々がまだそれを発見していないだけだ」という主張も貫き通していた。これはアインシュタインの信念なのだが、ある意味でのロマンでもあった。
この考え方をけものフレンズへ当てはめて考えると「このジャパリパークには多数まだ隠れた変数(法則)のSFが存在し、我々はその可能性に包まれたロマンを追い続けている」という訳だ。だから、4章後半のカコ編にドキドキして、ワクワクして、読み進める手が止まらなかったのを覚えている。
どうか、何度でも思い出してほしい。けものフレンズは99%ファンタジーだが、根幹は現代~近未来ベースのSFであり、この島は「隠された何らかの法則」によって科学的に動く世界であり、この世界はファンタジーの奇跡ではなく、法則に従って「必ず約束を果たす場所」だということを。
何度でも、思い出してほしい。
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