【エッセイ】日本で見つけた中国④:周恩来の文化遺産「日本は美しい文化を持っている」
著者:王敏(法政大学名誉教授、当財団参与)
日本文化の特徴を一言でいうのは難しいが、周恩来がどう認識していたのかは大変気になる。対日観に結びつくテーマでもあるが、「日本は美しい文化を持っている」(『周恩来外交文選』p90 中央文献出版社1990年)という認識が基本だったようだ。
「美しい文化」観を明らかにするために遺稿をひもとくと、参考として気になったのが日本留学を去る際に遺した詩作「雨中嵐山」と「雨後嵐山」である。優しい言葉遣いながら青年の気概にあふれており、この二つの詩へ注目してすでに10数年になる。
周恩来は日本を去る前の1919年春、京都を探訪した。桜が咲き乱れる嵐山にひかれたようだ。四季を通してもっとも美しい風景が広がる京都は現在でも外国人にはたまらない記憶の心象風景であろう。周恩来にとってはもう一つ、嵐山探訪に魅了されながら日本の歴史を再発見したのも、美しい日本観を増幅したと思われる。
それは京都を見下ろす大悲閣千光寺への参拝が大きなきっかけになった。中国史の治水王を思い出させる縁になる寺であり、江戸時代の儒者・林羅山に日本の「禹」と称えられた角倉了以が、晩年この寺を立て居住した。利水事業に献身した人々の供養のためだったという。
治水の先賢・禹は周恩来の家系と無関係ではない。周恩来の母方の万家では祖父・万青選及びその子孫まで4世代にわたって水利管理を専門職としてきた。幼いころは万家に出入りして禹にしたしみ、中学校の作文で9回も禹を取り上げている。治水の大切さを知り、国民の生活と国土保全にかけがえのない事業の重要性を自覚していたのだと思える。
周恩来の先祖の生家のある紹興には親族が参拝してきた大禹陵がある。山腹からは繁栄した街が一望できる。大悲閣千光寺を見て、似たような景色だ、との感想をもったにちがいない。千光寺の坂の参道を上り下りしながら、周恩来の胸に去来した心情が想像できる。
京都は科学技術の成果に敏感で、中国より一足早く電気が通じた。近代化のシンボル、琵琶湖疎水の開通成功により、「電光」がこぼれる京の街並みの夜景が眩しかったはずだ。そもそも琵琶湖疎水の案を訴えた最初の人が角倉了以だったから、角倉了以の夢が現実になったのを周恩来が目にしていたのである。
周恩来は「雨後嵐山」で「十数電光」を描いていた。
思えば、のちに中国の総理となった周恩来は治水と水力発電の建設に力を入れた。他界直前の遺言により、黄河河口に散骨された。生前の行く先々に「疎水」が伴われていた。
周恩来の美しい文化のありかたは日本の嵐山でもあったと私には思える。
百年前の日本では、嵐山大悲閣千光寺、角倉了以、林羅山などに関する知識は一般教養であり、常識としても引き継がれていた。その一部が外国人用の日本語教科書の内容になっている。周恩来が使用した松本亀次郎が編纂した教科書にも掲載されている。このあたりの資料を、拙著『周恩来と日本』(三和書籍)が参考になると思う。
1919年4月5日、周恩来が詠った「雨中嵐山」と「雨後嵐山」の二つの詩のうち、一作目の「雨中嵐山」は、日中平和友好条約を締結した1978年の翌年、関西の経済界を中心に亀山公園に記念詩碑が建てられた。第二作の「雨後嵐山」は国交回復半世紀の今年、大悲閣千光寺の境内に有志が詩碑を建てた。亀山公園と千光寺は桂川を挟んで向かい合っている。
周恩来は、日本を再訪して忘れがたい桜を見たいというのが、一生の願望だった。第二作の詩碑が咲き乱れた桜のもとに鎮座し、日中共通の願いはともに手を携えて「美しい文化」をつくることなのだ、という周恩来の声が聞こえる。