「着物警察」と、文化の混ざり合い

日本の経済の危機感が、近年より世間に浸透しているようである。

その中で、外国人向け観光産業が大きく注目されている。これは完全にイメージの話だが、日本の観光力はかなり高いのではないかと思っている。日本が生み出してきたたくさんの文化が昔から海外で評価されている、というのは大体の学校教育でも取り上げられてきた話題ではないかと思う。今後は、観光目的ではないにしても、多くの外国人が訪れることだろう。

そんな中、ふと「着物警察」という言葉を目にした。他の人がみている着物を見て、自分が知っている着方と違ったり、着ているものが違ったりすると、文句を言ったり、勝手に着方を直してくる人のことを指す。こうした動きは、着物に限らず、他のあらゆる文化でも見られる。程度は様々であれ、過剰なオリジナル信者、形式を尊重しすぎる人たちであると思う。こうした「〇〇警察」たちは、単純に見れば自身の価値観を押し付け、他人にいい迷惑をかけているように感じる。

ただ、程度が過ぎていることに目を瞑れば、こうした動きは「文化を保護する」活動の一つではないかとも見て取れる。あらゆる文化には、オリジナル、純粋な元来の形式がそれぞれ存在するが、時間とともに、沢山の人を介在して伝わっていくうちに、その形式というのは変わっていくものである。一つ例えればスーツの文化については、主要なスーツ文化が染み付いている欧米のいくつかの地域によって、流派のように分かれている。また、音楽についても同様である。クラシック音楽も作曲家の出身地ごとに曲の特色が存在し、ジャズも時代や地域とともに、様々なジャンルの音楽と融合を重ねている。文化というのは、人から人へ伝わっていく中で、他の文化と混ざり合い、純粋な「色」を失い溶け込んでいく。色々な色と混ざり合い、より複雑な色へと混ざり合っていく。その中で、その文化の純粋なオリジナルの「色」はアーカイブとして残していくことは、後続の文化に対して大きな価値を残すだろう。

しかしながら、「〇〇警察」の問題点は、簡単に言えば、価値観の押し付けにより常識外の行動を取って迷惑をかけていることだが、文化の「色」の観点で言えば、その過激思想により、文化の「色」の混ざり合いを拒否してしまうことであると思う。国際交流により非常に多様な文化に溢れた現代社会では、創作活動としてゼロからイチを生み出すものより、アーカイブされているいくつかの文化を混ぜ合わせ、新たな色を作り上げている創作のほうが圧倒的に多い。いや、むしろ大昔から創作というのはそういうものかもしれない。その中で色の混ざり合い、文化の「変化」を拒否することは、新たな文化の創造を拒否することと同義となってしまう。こうした他の文化の存在を許さない思想は、勝手ながら、改めなければいけないと思っている。文化が外に出ないということは、その文化が評価される機会をどんどん失っていくことと同義であると思う。文化が広く伝わるということは、「変化」を伴うことを受け入れるべきだろう。

ここまでいろいろ「〇〇警察」を批判してきたが、オリジナルの「色」を守る活動自体は価値が非常にある。構成の人たちが、あらゆる文化のオリジナルの形式や「色」がどういうものだったのかを確認できるようにしておくことは、その後の創作や文化活動にとって重要な遺産となる。しかしながら、新たな価値が次々生まれる人気の文化と、文化を嗜む人が少ない文化とでは、保存の難易度が段違いである。また、文化を保存していける人たちの両手に抱えられる量は限りがあるのである。その手からこぼれてしまった多くの文化は数え切れないだろう。「着物警察」の人たちが、考えを改めて、元来の着物の着方を押し付けるのではなく、その価値が伝わるように発信してもらえればそれでいいのではないだろうか。


日本には昔から評価された多くの文化を持ち、それに魅力を感じたたくさんの観光客が訪れていく。こうした動きは、文化としてみれば、日本の文化を学び吸収する外国人が増えること、また日本に対し海外の文化をもたらす外国人が増えること、この2つを意味する。今後日本の立ち位置はどうなっていくのかわからないが、一度世界一の経済大国として名を馳せた日本は、文化面で再注目を浴びやすい立ち位置であるのは間違いないと思う。そうした中で、「着物警察」のように、文化に関連する衝突は数多く起こると思うが、基本思想としては、文化の変化自体は受け入れつつ、守っていくべき文化を再確認し、その価値は高めていくべきであると思う。


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