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カンダハの頃

 昨冬は、北陸は平年並みの雪だったのに、北海道はまれにみる大雪だった。仕事の関係で早速調査に赴いたのだが、帰りの飛行機の便が悪く、午前中少し時間が余ってしまった。そこで、中島公園にある「冬のスポーツ博物館*」へ行ってみた。こじんまりした2階建ての建物の中に、スキーを中心としたウインタースポーツの数々の資料が展示されていた。その中で特に私の目を引いたのは、昔のスキーの締具だった。「カンダハ」と呼ばれるその締具は、靴の踵にワイヤーを引っかけ、つま先で締める方式で、私の子供の頃はそれがほとんどだった。本当になつかしい思いで見入った。
 私が初めてスキーを履いたのは中学1年生の時だから、かれこれ36~7年前になる。家庭教師のKさんと東京から日帰りで赤城山へ行った。学校のワンゲル部主催のスキー教室に参加することにしていたのだが、それを聞いたKさんがその前に少しでも経験しておいた方が良いとわざわざ連れて行ってくれたのだ。確か北九州の出身と聞いていたけれど大学生だからスキーができても不思議ではないと思ったが、早朝待ち合わせた場所へ行ってみると、彼自身はスキーの用意など何もしていない。1冊の入門書を差し出して、往きの電車の中で読めと言う。何のことはない、彼はスキーの経験など全くなかったのだ。それでもスキー場では付きっきりで面倒を見てくれた。おかげで帰るまでには緩斜面で全制動・半制動で何とか滑れるようになっていた。
 スキー教室は万座だった。夜行バスで行ったのだが、今と違って鄙びた温泉で、そこら中に硫黄の臭いが立ち込めていた。泊まった旅館も湯治宿という風で、隙間風がひどく、温泉で暖まらなければ眠れそうにもなかった。その代わり雪は抜群。初心者の私にも赤城山との違いがはっきりわかった。そこで教わったのもやはり全制動・半制動。経験者(!?)の私は自由時間に仲間を誘ってゲレンデ周辺を探検してみた。カンダハという締具は踵が少し上がったし、靴も革製の浅い登山靴のようなものだったので、比較的歩きやすかった。しばらく歩くと、数十センチの段差があったので、皆で跳んでみようということになった。うまく跳べる者、転ぶ者、様々だったが、小柄なT君が跳んだときはびっくりした。勢い余ってスキーの先が雪に突き刺さり、体は外れて前に投げ出されてしまったのだ。まるで休憩のために脱いだスキーを立てたような形になった。雪まみれの本人はゲラゲラ笑っている。だから怪我はないとは思ったが、笑い方が尋常でない。よく見ると、脱げたスキーには靴が付いているのだ。そればかりか、立ち上がった彼の足は何と裸足だった。スキーに付いた靴の中には靴下がしっかりと納まっていたのだ。それを知って、そこにいた全員が雪の中を転げまわって大笑いした。セフティービンディングなどあまり普及していない頃の話だ。
 こうしてスキーが大好きになった私は、それから毎冬スキー場に足を運んだ。しかし、そうは言っても東京に住む中学生だ。せいぜい3日か4日のバスツアーで、年に1度。2度も行ければ多い方だ。だからウデの方はさっぱりで、ボーゲンからなかなか出世しない。そのうち受験になって中断したまま、福井に来るまでやらずじまいになってしまった。
 福井の大学に赴任してまず思ったことは、雪国に来たのだから絶対にスキーを再開したいということだった。その冬、従弟からスキー用具一式を貰い受けて、意気揚々と近くのスキー場へ出かけたのは良いが、10数度の緩斜面が怖くてたまらない。こんな筈ではなかった、これではいけない、そう感じてそれからは暇を見つけてはスキー場へ通った。そうするうちに10年前とはスキーもずいぶん変わったことを知った。昔、半制動と言っていたのがプルークボーゲンで、ボーゲンと言っていたのがシュテムターンであること、最高級の技術と思っていたパラレルやウェーデルンも少し練習すれば私でもできることもわかった。そして、一番驚いたのはリフトで上がることが当たり前になっていたことだ。そして、整備されたゲレンデから一歩も外へは踏み出そうとしない。そのため、スキーはカッコよく滑る技術ばかりが優先し、単調で金のかかるスポーツになってしまったような気もしないではなかった。
 こんな出会いからスキーに親しむようになった私なので、歩くスキーは原点に戻ったような気がする。

* 現在は大倉山ジャンプ競技場内に「札幌オリンピックミュージアム」として移転

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