Base Ball Bear『DIARY KEY』
Base Ball Bearの9枚目のフルアルバム『DIARY KEY』がリリースされた。
本作は結成20周年を迎えるベボベの不変と普遍と変革と今とこれからが深く明記された一枚となっていると考える。
各曲への雑感をそれぞれまとめ、総括としてアルバムへの評価をまとめたい。今回はかなり取り留めなく書き連ねています(個人名は基本苗字のみ敬称略)。
【各曲雑感】
1.DIARY KEY
表題曲であり、本作のリードトラックの一つ。演奏がイントロからBメロに入るまでベースとドラムのリズム隊によるものとなっており、ギターのサウンドで塗りつぶすような音構築をしてきた初期から20年を経て、アルバムの顔となる部分をリズム隊が担うようになったのだなあとしみじみ感じる。
リズム隊のみによるカッコいいイントロと言えば、俺は山下達郎「いつか」や黒夢「MASTERBATING SMILE」が思い出されたりするのだけど、全く引けを取らぬ風格を有したイントロに仕上がっているし、「ストロングスタイル」という言葉が彼らからでるのも頷ける力強さがある。
冒頭の「急に雨が降ると知ってたら 白い靴なんて履かなかった 散々だった日」というラインは、本作ラストの「ドライブ」の歌詞と響き合う部分であり、本作がコンセプトアルバムとしてそれぞれの曲がつながり合っていることを示している。
続く「歌う自転車 通り過ぎる ”Tomorrow Never Knows” 誰かも似た気持ち抱いて」というラインもまた必見かつ、アルバムの核を成すイメージをはらんだ一節となっていると考える。ここでの「Tomorrow Never Knows」はミスチルのその曲を指しているという。これは歌詞の引用で「J-POP」の曲名を持ってくるという歌詞上のトライについて本人からの言及があったが、「Tomorrow Never Knows」のサビの歌詞に注目したい。
「果てしない闇の向こうに手を伸ばそう」
「癒えることのない痛みならいっそ引き連れて」
前者は「誰かも似た気持ち抱いて」というリリックも踏まえると、コロナ禍の明けた未来へ希望を抱く想いとつながり、後者は「海へ」の歌詞と響き合うのではないか。ただ、小出祐介の好きな曲として出したのではなく、このアルバムの歌詞の1ピースとして、この曲である必然性があるのだ。
サビの歌詞はシンプルでありながら、非常に観念的というか暗喩的で意味がつかみづらいように感じた。「本当」はどのような意味合いなのかは知る由もないが、俺は「見つけて」という「鍵」は、歌詞に潜んでいる「キーワード」のことではないだろうか、と考えている。作詞者の考えている曲における「キーワード」がリスナーである「君」に「いつか渡せたらいいな」ということではないか、と。すると「戸惑った心」というのも戸惑ったままにそれをつづった詞のことになるし、いつかは咀嚼して飲み込みたいということかもしれない。
演奏と歌詞の絡み合い、マッチングでいうと「乗り込んだ中央線 ひとりひとり特異点 ゆれてゆれて 見失った ここは何線だ」の部分ではドラムがタム回しをして、ギターはディレイをかけ「ひとりひとり」感や「ゆれてゆれて」感というべきニュアンスが増幅して伝わってくる。こういった遊び心は全編にわたって効いている。
また、「人さし指 くちびるに当てて笑った月 思い出とかして詩が 体に渦巻いてる」のラインはメジャー1stアルバム『C』のイメージが表れた部分であり(「人さし指~」⇒「シーッ」という「お静かに」のポーズ、「月」⇒三日月の形が「C」となる)、20年という月日を重ねるとそういったものが「思い出」と化して体の中を駆け巡っているのだろう。ベボベ自身も、私たちリスナーも。
ラストは「きっと最後は きっと最後に きっと最後は なんてジョークさ To alive by your side」と重さ軽さを上手に行き来している。本気のメッセージをウェットに吐き出すだけでなく、「なんてジョークさ」という軽さを携えておかないと折れてしまう。しなやかさをたたえた一節だ。この曲もリスナーの傍にあり続ける一曲になるに違いない。
内容としては全く関わってこないだろうが、「日記」と「鍵」というワードから、谷崎潤一郎の「鍵」という小説があったことを思い出した。
2.プールサイダー
「プール」と「サイダー」という輝ける青春の必需品ともいうべきマテリアルがつながった言葉だというのに、一つになると「プールサイドにいる者」という意味に変化するのだから恐ろしい。しかし、その二面性こそベボベというバンドを表している。
堀之内が「KISSミーツThe Police」と形容するように、これまでの彼らの楽曲ではなかった跳ね感のあるリズムとなっている。また、これまで「スローモーションをもう一度 part.1」などといった長尺曲で使っていたダブなドラムの残響がほぼ三分という短さの中で間奏に効果的に使われている。正直、個人的には聞き始めはリズムに乗れないなあと思っていたのだが、間奏のダブパートを設ける編曲でイナズマを撃たれた。ちょうどアトロクでも最近ダブ特集してたっけね。
ベボベは基本的には「主役」ではなく「脇役」の、「AでもなくCでもないその狭間でモヤモヤしたB組」の心に寄り添う言葉を紡いできた。「主役の人のためのSummer Day」「すべての見学者たちへ 届け」というフレーズはまさにそういった側面に結びつくものであるし、これまでの曲で言うと「スローモーションをもう一度 part.2」や「ファンファーレがきこえる」といった楽曲が思い起こされた。
しかしながら、もう「きらきらに飛び込め It's Okay 楽しもうよ いまを」と自らが楽しむことを肯定しているサビになっている。配信リリース時、「あの、こいちゃんが…」と驚いているファンの姿が少なくなかったのを覚えているが、さもありなんな開けたフィーリングの言葉になっているなと思うばかりで。
一方でこの曲がコロナ禍と称される2021年にリリースされたことを鑑みると、先述したサビ冒頭の歌詞は、「こんな今でも俯かず楽しんでいこうよ」という呼びかけにも、目前にあると信じたい「きらきら」な未来へ目を向かせる言葉にも聞こえる。「静かに苦しんだ日々に 飛沫の祝福を Just have fun!」の部分は、ステイホーム含め静かに過ごさなければならない今を過ごす私たちに、「飛沫(ひまつ)」を交わし合うようなコミュニケーション伴うこれからがあらんことを、という祈りにも捉えうる。
もちろん、「プールサイダー」という題名から、「見学者たち」に「プール」で「飛沫」をあげてはしゃげるような祝福を!とストレートに読むことも可能であるが。多様な読みが可能であるということだ。
このように、今だからこその目線と、普遍性をもったメッセージとの両立が本作の歌詞の特徴になっているのではないかと考えている。「変えたくなかったものだって いつか変わっていく」けれど「変わっても変わんない想いが」存在するのだ。その併記は口にするは易し、行うは難しではあるが。
3.動くベロ
曲名のインパクトよ。cali≠gariに「舌先三分サイズ」という曲があったななんて思いつつ。前作『C3』リリース後の展望として、意識的に控えたファンク・ソウルめいた楽曲をスリーピースバンドの応用編として作っていきたい的なことを発言していたのだが、今作でその発言に応じているのはこの曲くらいなものだろうか。小出のカッティングから四つ打ちのドラムを基調として鳴りの気持ちいい言葉の並んだ曲となっている。歌詞については、鳴りの気持ちよさ、口が動いてて気持ちい言葉、聴感が気持ちいいことを重視された「無意味が気持ち良いわ」なものとなっており、前作収録曲の「Grape Juice」の後継的位置づけも可能かもしれない。
「口to口で探して」というのは先述のような「気持ちいい」言葉は口を、ベロを動かすことで探すしかないということでもあろうし、「今夜ごと」や「素面で語り明かそう 朝日昇るまで 素肌で混ぜ合わせよう 熱り気の済むまで」という部分と重ねると、セクシャルなニュアンスも感じられる。
「無意味な」言葉の連なりの中では、「代田のマンション」の「マンション」の発音が次の「宇宙のステイション」に合わせて、「メンション」と岡村靖幸マナーに則っているものだったのが印象的。「十字架You&I」然り、ベボベのファンキーな楽曲には岡村靖幸の影を感じるので。
それに続く「接触に色移り」は2021年には目が止まる一節として機能する。こと「口to口」の接触による「色移り」は避けなければならない問題であること言うまでもないので。それを踏まえると「ほてり」を「火照り」ではなく「熱り」と漢字をあてたのも意味を帯びているように感じられる。
「よう動くベロ」に「言葉もねぇよ」という、対照的な言葉を当てて、リフレインさせて、ギターソロでぶっちぎるというパートも面白かった。あそこはライブではもう何十秒も伸ばしてほしいやつだ。
涮羊肉(シュワンヤンロウ)
キャッシュアウトフロー
嵯峨の屋おむろ
モヘンジョダロ
4.SYUUU
「SYUUUって驟雨か」と分かった時、俺は大瀧詠一を除いた三人のはっぴいえんどによる楽曲「驟雨の町」を思い出した。全然関係なかったけれど。楽曲は一聴すると「高速四つ打ち」とカテゴリづけたくなる初期ベボベ の王道チューンに類する楽曲のように思えるが、リズム隊が強化されてその足腰の強さが当時とは段違いとなっている。個人的にはハイハット?が「チッチッチッチッ」ではなく「チッチッチッチチッ」という刻みになっているのが気持ちええなあと思う所で(ドラムとしてスカを意識したと何かで見たが、それがどの点で生かされているのかは分からず)。
そこに乗る歌詞は当時のような「心模様」を描いた抽象的なものではなく、非常に多層的になっている。冒頭から、「角曲がっ」ても誰かがいない状況というのは死を意味しているように読み取れるし、涙もその死に由来するものとして読み解くことが可能だ。そしてそれはコロナ禍の今を描いたものとしても読みうる。「ただただラッキーだったって 悲しくない日々が続いて なんとなくで写真撮って」とかまさにでしかない。
また、活動の指針表明にも捉えうるように感じた。「明日、笑ってふざけるから」や「わかってる ふざけるよ」、「角曲がったら、とびっきりのアイデアを用意してる」というのは、常に実験を繰り返し、新たな価値をリスナーに提示してきた彼らの姿勢に重なる所があるのではないだろうか。
にぎやかなパーティーは隅っこにいようよ
失礼はないように でも早く出ようよ
夜風に乗せる話はいくらでも
少し歩いていこうFriend
のパートは、当時フェスシーンや「四つ打ちロック」に対抗しようとしてきた『C2』的なスタンスを感じるし、本作にファンク的な楽曲を収録しなかったのも、周りがそうし出したからということで、一貫性があるスタンスだということがうかがえる。
「ありがとう ばかやろう」と状況に対する怒りの表明にも、氣志團の同名曲のような「Friend」に対する思いの丈であるようにも聞こえるフレーズで幕を閉じる。アウトロもギターソロめいた演奏でフェードアウトではなく、ぴたっと切るように終えるのメチャカッコええですよね。
5.Henshin
タイトルの「Henshin」って「返信」だったのか!と冒頭に種明かしされつつの、アルバム内ではこれまでの勢いを一旦落ち着かせるミドルチューン。ドラムに対し「あまり上手過ぎないように」という演奏への注文が付けられたそうだが、「深夜の魔法な時間だったよ」でしっかりとキメも入れつつな所、スキルフル~。しかし、それにしてもこの曲はホントにボーカルの桜井和寿みがすごくないですか。
あることないこと 想像しちゃうだろう
返信できないくらい 忙しいのかい
既読もつかない 電話もつながらない
嫌われた いや、そんなことはあるまい
人の興味など 移ろってなんぼ
自分もそうしてきたのに ちょっとさみしかったの
ここらへんの歌いまわし、文末の言葉遣い、言葉の詰め方ったら、もうほんとに桜井和寿だよなと思うばかりで。
愛にしゃぶりついたんさい 愛にすがりついたんさい
「マシンガンをぶっ放せ」
先に行ってくんさい「旅人」
ただじゃ転びやしませんぜって「ニシエヒガシエ」
捨てた夢もいっぱいござるよ
ロマンチストではこの先生きてゆけぬぞ「その向こうへ行こう」
こういったいわゆる「詞らしい詞のための言語」ばかりを用いるのではなく、口語をナチュラルに用いるのは詞作の拡張に必要な姿勢ではないかと思う。それこそ、方言が入ってきたりするのも面白いよね。藤井風とか、シドとかスピッツみたいな感じで。
サビの言葉というのは、返信が来ない相手への思いとして読めるだけでなく、このコロナ禍ではなかなかできないこととして存在しているのも面白い。「期待してた映画あったろう 三度 公開延期だってよ」というのは、「プールサイダー」の最後の歌詞と紐づけると「007 NO TIME TO DIE」のことではないか。まさに、今書かれるべき歌詞だといえよう。
ここでは、「夢を見た」ことが印象的に歌詞に現れているが、「Henshin」が「変身」だとするとカフカの同名作になぞらえているのかもしれない。カフカの「変身」の主人公はある朝目覚めると体が巨大な毒虫になっていた、という不条理な設定から始まる。いかような夢を見たとて、現実の状況は不条理な惨状である。だからこそ、「会いたい」「抱きしめたい」と願わずにいられないのだろう。
6.A HAPPY NEW YEAR
「美しいのさ」以来?の関根ボーカル曲。正直、彼女のボーカルソングの中でも一番好きかも。楽曲は、あっけらかんとした歪みの効いたギターのコードストロークによるギターポップに仕上がっている。それこそチャットモンチーなどの名前をTwitterの検索で見かけたが、そういったゼロ年代のロックバンドの曲に通ずるフィーリングのある楽曲だといえよう。
小出の交友関係などから、曲名を見てユーミンの同名曲を想起したリスナーも少なくないのではないのだろうか。「A HAPPY NEW YEAR!」とエクスクラメーションマークが歌詞上で付されている点や「今年も沢山いいことが あなたにあるように いつもいつも」「陽気な人ごみにまぎれて消えるの」と、本作の歌詞と通ずるところが少なくない。しかし、ユーミンのこの曲はどちらかというと「君と僕」の話の舞台としての「A HAPPY NEW YEAR」なのだ。この曲はそこにとどまらない詩作になっている。
サビの「A HAPPY NEW YEAR!」に続く「3行の祈り」は「あなたに」そして「ふたりに」送られているものだ。ユーミンの曲同様「君と僕」の話として読むことも可能だが、ラストサビの「生きてくれてありがとう」を自らに言うというシチュエーションは考え難い。やはり、神の視点というかメタ的な位相からの言葉に見えるし、関根のどこか芯の強くないシルキーな歌唱がその印象を強めているように感じる。生への強い肯定の言葉だし、「新品の朝」という言葉が出てくるのも、『新呼吸』時のループ感覚、ダビングデイズ的思考とは一線を画した、未来を肯定するフィーリングに基づくものだといえるだろう。
関連曲としてユーミンの同名曲を挙げたが、もちろん「朝日を見に行こうよ」も外せない一曲(当然SMAPの名曲)。「DIARY KEY」の「Tomorrow Never Knows」然り、「J-POP」の名曲の固有名詞におびえない小出の作詞術が光っている。個人的にはこの一節を含む「シルエットの~青に次ぐ青で」のくだりは東京の街を移動しているという点で『C2』収録曲「不思議な夜」を思い出した。
7.悪い夏
俺の住まう町北九州から、ないあがらせっとによって「グッドサマー」という楽曲がリリースされたこの夏に、夏の楽曲の多さに定評のあるベボベからは「悪い夏」と冠されたサマーソングがドロップされた。
冒頭のこの二行でこれまでのベボベのサマーソングとは一線を画している。
どこへいくの どこまででもさ 身を焦がす感動が欲しいよ
忘れちゃうだろ 火を見てれば 何を燃やしてたのかなんて
これは完全にSNSでの炎上を切り取ったフレーズであり、非常に秀逸な批評的比喩だ。ベボベのリスナーはここのフレーズからきっと「「それって、for 誰?」part.1」を思い浮かべるだろう。しかし、この一節は「それって~」とはまた位相の異なる批評的言葉だと考える。
「それって~」はTwitterという場における各個人の振る舞いを切り裁くような言葉を重ねることを通して、自分の振る舞いにブーメランさせていくという手法をとっていたが、「悪い夏」の先述のフレーズは各個人の、というより全体の状況、「個人」ではなく「皆」の様子を切り取ったものになっているのではないか。より、対象とする人数が大きくなっているのではないか。
「カーニバル」と言葉では書いてあるが、ここでは「カニバル」という言葉にも聞こえる。「誰もいなくなっ」て続く「カニバル」は何を食べることになるのか。
イントロのローファイな耳心地の音だったり、不穏かつ歪んだギターリフは夏のギラギラ感や、先述の燃えているSNSの様子を想起させる一方で、激しく身を求める「二人」の様子もうかがわせる。冒頭に続くフレーズは、身体の混ざり合うセクシャルな匂いのする二文だ。
肌蹴る夏 高くなる熱 昇る朝日 混ざる汗
いけるとこまでいこう どんな制止も 気にするこたぁない
前半はまだその匂いは強くない(「肌蹴る」や「高くなる熱」というのは地球温暖化であったり、コロナによる体温上昇にもつながりうる)が、後半は「混ざる汗」と結びつけるとかなり…だなと。今年Awichが「口に出して」という含みありありの楽曲をリリースしたが「どんな制止も」の「制止」って…ねえ、と思わなくもなかった。
サビのエクスクラメーションマークの数ったら、「BOYFRIEN℃」の時のような。「ほら、みろ中毒 さらに夢中」といったフレーズはまた冒頭の炎上に関連する様々へのメッセージになっているといえるだろう。
この曲はクレジットが三人になっており、イントロからのドラムパターンは堀之内によるものでそこから作り上げたのだという。サビの開けたところまで持っていく流れも面白い。「転がった蝉」から続くパートは譜割りの仕方も面白いが、このアルバム内で意図的に描いていない「死」の描写がまざまざと描かれている。
8._touch
タイトル見て、まず安室奈美恵…?(『_genic』というアルバムがある)と思ったけど、関係は当然ないだろうね苦笑
どちらかというと、この「_」はここに言葉が入る、という意味でつけられたそうな。歌詞の中でも「ハイタッチ」や「バトンタッチ」という「○○タッチ」という言葉が出ており、それを裏付けている。しかし、一方で「_」の存在したこの表記自体にも意味があると考える。コロナ禍に入り、感染対策から、不用意に何かに触れるのを避けるようになっている現状がある。まさにタッチとの間にスペースが入る余地を作らなければならないのだ。
ギターカッティングと、動きまくるベースライン、比較的シンプルかつルーズめなドラムによるサウンドでできている。インタビューでも三人によるグルーヴの達成としてはこの曲がイチオシされている。
「描く」を「猫く」って書いて 転げた夏の夜
飛び飛びになったデータ 妄想が補ってる
というパートのダダダダッというキメは演奏を編集したものではなく、本人らの演奏によるものと言うから、またレベルアップしていってるのだなと。またここでのキメは「飛び飛びになったデータ」感が増幅されている。
「泣いちゃいそうさ」に向かうまでの演奏というのは、「泣いちゃいそう」になる際の感情のこみ上げといったものが反映されているように感じる。エモーショナルさが演奏を通しても描かれている。また、「泣いちゃう」といえば小沢健二の(今のところの)最新曲だなと思いつつ。
「新月色」も「深海色」もいずれもこのアルバムジャケットの色とつながりが見いだされる。また、「口ずさんでるこのエレジー タイトルはまだない」というのは、「深海色」と結びつけると、ミスチルの「名もなき詩」のことか…?というのはさすがに考えすぎな気がする。
サビの頭の「治りたいな その手が触れて すーーっと 熱が引いてく」というのは最初ヴェポラップのことだろうか、と思ったけど、TLでも見るように「痛いの痛いの飛んでけ」的なそれと考える方が大きい気がする。
「タッチ」のウィスパーボイスや、アウトロがフェードアウトな点、未来について触れている所など「時間」への意識が強い点などから、『光源』収録の「Darling」とのつながりも考えうるのではないだろうか。
9.生活PRISM feat.valknee
前作「EIGHT BEAT詩」に続くベボベのラップ曲は、小出一人によるものではなくvalkneeを客演に迎えたものとなった。お誘いいただいた「ポップカルチャーは裏切らない」での月の人さん(@ShapeMoon)による言及として、「ベボベもフックアップするポジションになった」というものがあったが、結成20周年を迎えて、後進を後押しする立場にもなっているというのは何とも時の流れを感じる。
valkneeといえば、ソロの作品もさることながら2021年リリース楽曲ではZoomgalsとDos Monosによる「陰毛論」の「青雲それvalkneeが見た光」はマージでパンチラインだったよなと焼き付きまくりで。
小出パートはこれまでに引き続き、ガチガチに脚韻重視のフロウで。最初のバースから、「Last of Us」の「アス」で細かく踏んで勢いづけて行っている。2ndバースも「間取り」から「魂」まで細かく韻を踏む言葉の対象がミクロに向かっていっており、視点の焦点の絞り具合を押韻を踏まえながら追っていくことができるのは面白い。大いなるマクロから生活というミクロへと向かっていく意識で言えば、「遠くから届く宇宙の光 町中で続いていく暮らし」という小沢健二「僕らが旅に出る理由」の一節が思い出される。
対してvalkneeも押韻への意識は少なくないもののよりスムースなラップをしている。しっかし「ねこ ことり りす Smells Like Teen Sprit」はマジパンチラインだぜ。次に「要点絞って話して 取りこぼしないよう躍起になって たぶん、一心不乱になってやってるって言ってもいい」という歌詞に対するマジなスタンスを表明してるのもかっけーぜ。
この曲は2021年における生活のあれやこれやが刻み込まれていると思うが、移動中に「新譜もチェック」できるのってまさに今の時代って感じで。20年前なら移動中に「新譜もチェック」は中々できなかった。音楽の視聴環境の変化が生活の一部として歌詞に刻み込まれているのだ。過去曲で言うと「USER UNKNOWN」はメールでのやりとりが歌詞に表現されているが、確かに当時はメールでのやりとりが主流だったのだ。
また、「ベランダ」はここでは「PERLIAMENT」を吸うか聞いて「ぼーっと」胸を撫でおろす場所として描かれている。「動くベロ」で引用した岡村靖幸「どぉなっちゃってんだよ」では「ベランダ」は「胸を張」る場所として描かれているのと対照的である。この二曲の間にはおよそ30年という時間が隔たっているが、描かれかたも大いに変わるものだ。
サビというかフックにおける歌詞の内容というのはダブルミーニングではあるだろうが、これまでのベボベの楽曲になぞらえるとどうしても「ヘヴンズドアー・ガール」が出てきてしまうのはしょうがない。学校という小さな社会を抜けて、大きな社会にたどり着いてもいつだって「ドアは半開き」なのだ。
10.海へ
煽るようではなく、淡々と、しかし着実にサビへと緩やかに上昇するようなメロディーラインをもった楽曲。インタビューやTwitterのスペースなどでこの曲のことを「予感」の曲だと自身で評していた。冒頭の「明日早い夜に限って~」から始まる二行からその「予感」というのが、明るい「予感」を指していることがわかる。そして、続く歌詞を読んで、俺はこの曲は小沢健二「さよならなんて云えないよ」と深く通ずる曲なのではないかと考えている。
左へカーブを曲がると 光る海が見えてくる
僕は思う! この瞬間は続くと! いつまでも
上に引用したフレーズはこの曲の中でも特に広く知られている部分ではないか。小沢健二がテレホンショッキングに出演した際、タモリがこの部分を取り上げて、「生命の最大の肯定」だと評したという。そして、小沢健二自身もタモリのその解釈に「びっくりするほど理解していただいて」と同意している。
また、この曲に関して、どの時期のどの番組かは失念してしまったが、このような肯定を描く背後にはひどく冷たく張り詰めた思いが存在するのだとも語っていた。歌詞の上では基本的にはきらめいた光の当たる部分のみが描かれているが、それはつまり冷たい部分を意図的に描いていないのであり、その「描かないことによってそのことを描く」という手法を取っているということでもあるのだ。まさにそれは、小出本人が語る本作『DIARY KEY』の語り方と深く通ずるものである。
明るい「予感」を曲にした今年の楽曲として、筋肉少女帯「楽しいことしかない」がある。大きな抑揚のある希望に満ち満ちた楽曲だが、近いタイミングで同様のメッセージを投げかける楽曲が世に放たれていることには、何らかの意味があると信じよう。
「日常」は溶けて「物語」に変わってしまうが、「胸の奥」の鍵をかけた「日記」は「変えない」でほしいと思う。「日記」をつづったその時の「想い」の比喩だと考えると、数十年前の表現に私たちが心打たれるのは、その表現に込められた「日記」を紐解き読むことができているからだろう。本作の楽曲の詞に現れるものはどれも2021年らしいものばかりだが、そこに込められた思いには時代を超える強い普遍性が宿っていると考える。
曲名を見て、俺は佐野元春「コヨーテ、海へ」を真っ先に思い出した。「海」を死をもたらすものの表象として捉えることももちろん可能だが、俺は「ここから先は勝利ある 勝利あるのみ」だと感じさせる場所としての「海」なのだと捉えたい。
11.ドライブ(DIARY KEY mix)
曲調としては「ホワイトワイライト」路線のギター分厚めなミドルチューン。「ベボベ節」なメロディーラインとかって色々あるけど、こういったミドルチューンにも確実に「ベボベ節」がある。本人も「高校生ぐらいの曲作りはじめた時からずっと、ほっといたらできるというタイプ」と言及しているくらいで。どっしりとした構えの良さからラストチューンとされたが、ここに置くほかないよな。安定感抜群。
冒頭の「青ざめた 夢見た朝」というのは「青ざめた夢を見て起きた朝」ということか、「何かの夢を見た朝に顔が青ざめた」ということなのか。この夢を見るというパートは「Henshin」の歌詞とつながる。「青」という色は「青い紙吹雪」という言葉と結びつくか。しかしながら、実際の色以上に心情を表すブルーであることは、「泣き濡れた」と続くことから明白であるだろう。
歌詞における他の楽曲との連関で言えば、「届いたスニーカー」が一曲目「DIARY KEY」の「白い靴」と響き合う。そして、「ドライブ」では「スニーカー」を(「部屋着のまま」なので自宅に届いたものをそのまま)部屋の中で履いてみているのに対し、「DIARY KEY」では屋外で使用している点が対照的だ。同様のモチーフを用いていても、全く同じように登場させないのはひねりが効いているし、「アルバムで通して聴く意味」というものにも結びついてくる仕掛けだといえるだろう。
サビの「やんでも また再生しよう」の「やんでも」がひらがななのは、恐らく「止んでも(「再生しよう」との関連)/病んでも(サビ以外から窺える不安定さとの関連)」のダブルミーニングだろう。そして「再生」も間違いなく音楽と治癒の多義的な用法。いやあ上手い…!し、技術をひけらかすようではなく、あくまで自然な所も印象深い。
そして、楽曲はイントロからのゆったりと大きなムードで終えるのではなく、フィルイン?からガッツリ歪ませたギターが飛び出し、曲の1/4を占めるアウトロが始まる。このアレンジにしたのは大正解だと思った。確かに、コロナ禍における生活のリズム感としてはアウトロの前のようなムードでしかるべきなのだが、一方でそれまでライブなどで生活の活力を得ていた人たちは身を撃つような衝撃を欲していたに違いない。この裂くようなアウトロが少しでも明るいこれからを見せてくれるような気がするし、この曲を、この曲とともに、また再生しながら歩んで行くとしたい。
この「ドライブ」という楽曲単体に関しては小出も言及しているようにこの文章で十二分に語りきられていると思うので、ぜひ。
【いくつかの総評】
〇これまでの自らの歴史との接続
本作がリリースされた2021年で結成20周年を迎え、フルアルバムの枚数も10枚を目前としている。そのように表現を重ねてきた彼らだが、本作の収録曲はいずれもこれまでの自らの楽曲と接続点を明確にもつ曲が多いように感じる。
それは、歌詞や作曲編曲における単なる焼き回し感ではなく、ここまでの道のりを見てきているかのようなそれだ。「檸檬」というベボベのシグネチャーともいえるワードであり本作でも登場しているが、時代を通して何の表象としての「檸檬」であるかや、歌詞における機能というものは変化していっている。全体のムードとしても『C』以前の彼らのようだと評する声もあるが、それはシティポップ・ファンク・ソウル色が出始めてきた周囲の状況を見て、「周りと同じでは面白くない」と方向転換した彼ら特有のひねくれ感のあらわれであり、あくまで懐古的なものではない。「周りと同じでは面白くない」という思いから活動の方向が決まる点ではインディーズの頃から一貫したものだといえるが。
〇普遍性と「時代のムード」
先述した月の人さんの「ポップカルチャーは裏切らない」でもザックリと言及したが、本作の歌詞の内容は時代や場所を問わない普遍的なものが中心に据えられていると考える(改めて、各曲から読み取れるメッセージをここに羅列はしない)。一方で、それを描く舞台として用いているのは、「今」である。まごうことなく我らが歩いてきた/いる、「今ここ」である。
「今ここ」とはこの楽曲の制作時期からリリースまでの期間の日本を指すものである。単に「コロナ禍」におけるアレコレを婉曲的に、または比喩を用いて描いているだけでなく、「生活PRISM」における出勤時での新譜チェック(音楽の視聴方法の変化)などはまさに「今ここ」に生きる姿をキャプチャーしたものだといえるだろう。下の記事においても小出は「時代のムードを真空パックするのは、過去のいろいろな名曲を聴いてもすごく大切なことだと思う」と述べており、この時代における一つ一つの行動の変化や人付き合いの仕方、街の様子を歌詞に表すという点を本作では強く意識したのではないか。特にこの2021年はコロナ禍でもあり、東京オリンピックが開催されたということもあり、描かれるべき時代であったことは言うまでもないか。
また2021年ははっぴいえんど『風街ろまん』リリース50周年でもある。このアルバムの中で松本隆は東京オリンピックによって変わりゆく東京の街を歌詞に焼き付けた。1971年当時の目に映るものを、そしてその時点での移り行く前の自身の思い出が染みついた街並みへのノスタルジックな思いを表した歌詞は現代においても様々なバンド、アーティストによって歌い継がれている。つまり、書かれる内容や様子、言葉は変われどそこに込められた思いには強い普遍性があるということだろう。そういった強度を本作の歌詞にも感じられる。
〇サウンドに関して、編曲の自由度
前作『C3』が非常に三人のみの音で、「ロック」を鳴らすという点に注力した作品で、贅肉のないストイックな作品になっており、曲調の観点においてもファンク・ソウルテイストの楽曲は「スリーピースサウンドの応用編」として意識的にその数を減らしたものだった。
ステイホーム期を経て、大きな音を出した際のインパクトを通して、そして小出のメモ的な楽曲のストックを通して制作されたのが、本作であり『C3』からの「これまで通り」な変化やステップアップを見るのは中々難しいものがある。本人たちも言及しているがこれまではアルバムリリース⇒アルバムツアーという1セットでの感触を経て次の制作に臨んできていたため、『C3』のオーディエンスの反応を経たものではない。本来であれば「スリーピースサウンドの応用編」としての様相を呈した楽曲の割合が増していたかもしれない。だが、そういった楽曲の流行りが見られる今「周りと同じことをしてもしょうがない」といずれにしてもこのような楽曲群になったのかもしれないが。
いずれにしても本作にそろった楽曲はどれも前作の反動か、編曲の自由度が高いように感じる。「悪い夏」のイントロの音の歪ませ方や「プールサイダー」のダブパートの存在が顕著な例だろうか。キメの付け方も「邦ロック」バンド的なものにとどまらず、「Henshin」や「_touch」のように遊び心に満ちたものであり、技術に裏打ちされた「笑ってふざける」姿が表れているように感じた。
また、「Love Music」出演時など様々なタイミングで、ことスリーピースサウンドでいうとギターがストロークをするとそこが出音のピークになり、その山をどうつけるかという点への腐心を語っていたが、今作のギターの音が厚くなるところ、メチャ音デカくさせてないか。「動くベロ」の間奏とか、「_touch」のサビとか異様にデカいなと思った。良い悪いという問題ではなく、一先ず本作のダイナミズムの付け方のクセの一つとしてこのようなやり方を採用してるのかな、という感じで。
個人的な思いとしてはまだまだチャップマンスティック曲が聴きたい~というものがまずある。小出のラップにも引けを取らないほどの強力な武器になっていると思うのだよね。そして、「文化祭の夜」みたいなゴリゴリに粘りあるファンク曲をまた作ってほしい。
〇個人的な評価
「すべての2021年へ」これが本作のキャッチコピーとなっている。もちろん、『新呼吸』の「すべての2011年へ」を踏まえたものであるが、まさになコピーとなっているのではないだろうか。それほどに「言い尽くせている」アルバムになっている。前作がストイックだったので、少し心配していたが、多彩なアレンジもベボベの楽曲の魅力の一つだと思うので、まだまだ面白く「ふざけて」くれそうな期待に満ちたアルバムだと思った。快作。