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第十四章 真実の扉(二)

 物心ついたときには傍にいるのがあたりまえとなっていた牧江が今日はいない。否、今日だけでなく、明日も明後日も不在となる。

『すぐに戻ってまいりますから、3日だけお休みをくださいね』

 もっと休んでかまわないと言った自分に、昨夜、牧江はいつもと変わらぬ笑顔でそう暇(いとま)乞いをした。
 社に出入りする者の数は日頃からさほど多くはなく、通常美姫の傍に詰めて世話係を務めている牧江も殊更口数の多い娘ではない。だが、いつも影のように控えている牧江がいないだけで、社の中はがらんとして味気なく、殺風景な印象が拭えなかった。

 散歩をしてくる。臨時の側仕え役として次の間に控えていた筆頭世話係のトキにそう言い置いて社を出たのは、かれこれ半時まえのことである。
 敷地内に広がる見事な日本造りの庭園を、少女はひとり、これといった目的もないまま歩き回った。

 頭上にはぬけるような秋空が広がり、時折、爽やかな涼秋が戯れるように少女の髪を弄んで吹き抜けていく。めでたい門出に相応しい日和であったが、少女の心はなぜか晴れなかった。

 気鬱をそのまま呼気に載せたような重苦しい吐息が、今日何度目ともしれぬまま小さな口から押し出された。

 今日は、姉とも慕う牧江の、16回目の誕生日。

 毎年この日は、ささやかに、けれども心をこめて牧江と自分、ふたりだけで祝ってきた。去年も一昨年も、そのまたまえも……。だが、今年からは違う。いまこの瞬間にも神前にて夫婦(めおと)となることを誓い合い、夫となったであろう御堂宗佑が祝うようになるのだ。

 宗佑と牧江。ふたりは似合いだと心から思う。だが、ひそかにトキに頼んで用意させた祝いの品は、いまだ渡せずにいた。
 鬱屈した思いに自分ながら嫌気がさすものの、美姫は、その理由を子供じみた我儘のせいと責任転嫁し、心の奥深い部分にひそむ感情から目を背けた。

 ――そうよ、祝言にも呼んでもらえないのだもの。少しくらい意地悪をしたって罰は当たらないわ。牧江のお嫁さん姿、わたくしだって見たかったのに。

 わざわざ業者を呼び寄せて、時間をかけてみずから選んだ祝いの品をすぐに渡してしまってはつまらない。牧江の幸せを願って、一生懸命に選んだ夫婦茶碗なのだから。
 わざと口唇をとがらせて、美姫はだれにともなく自分が拗ねているのだということをアピールしてみせる。そして、そうすることでようやく気が済むと、社に戻ることにした。あまり長いこと出歩いていると、口うるさいトキのお小言をくらうはめになるからだ。
 いつのまにか、庭園のはずれのほうまで来てしまった美姫は、社に戻るため、近道となる屋敷の裏手にまわった。そのときである。


「ええっ? それほんとなの?」

 母屋の離れに作られた使用人専用の休憩所から、どこか下世話な調子を含んだ女の声が聞こえてきた。窓の下をそのまま通り抜けようとした少女の耳に、『牧江』『御堂』という固有名詞が飛びこんできて、思わずその足を止めた。

「事実かどうかはわからないけど、もっぱらの噂よ」
「でも、もしそれがほんとだとしたら、お屋形様も随分冷酷非情よね。だって、産んですぐに捨てた自分の娘を使用人として雇って、あまつさえ、それを妹の産んだ娘、ようするにご自分の姪のお世話係にしてるってことでしょ?」

 ――なに……?

 美姫の足は、途端に竦んでその場から動けなくなった。

 聞いてはいけない。そう思うのに、両の足は根を張ったようにピクリとも動かず、代わりに心の臓が、ものすごい速さでドキドキと胸を打ちはじめた。
 天然の風を入れるため、大きく開け放たれた窓から、複数の女たちの無遠慮な話し声がなおも聞こえてくる。窓の下に、島を上げて《御座所》と崇める深窓の姫君がいて、自分たちの会話を盗み聞いているとは夢にも思わなかっただろう。

「だけど、その話が本当だとしたら、おかしいわよね。だって、いくらこの島独自の掟があるにせよ、法律上あのふたりが結婚できるわけないもの」
「だからじゃない。そのためにお屋形様は産んですぐあの娘を里子に出したのよ。『血』を汚した以上、あの娘は【有資格者】とはなり得ない。つまり、できそこないってこと。ついでに司坊ちゃまと美守お嬢様、あのおふたりが『ああ』なのも、【そのせい】らしいわよ」
「でも、仮にお屋形様と御堂の当主が【そういう】関係だったことが事実だとして、その過ちのせいで『血の汚れ』が起こってしまったわけでしょ? なのにどうして牧江は宗佑さんと娶されたの? それって、おなじ過ちを繰り返すどころか、さらに事態を悪化させることになるんじゃない?」
「そこがあたしにも、いまひとつわからないのよねぇ」
「あくまで噂でしょ? どうせデマに決まってるわよ。だって、あの気位の高いお屋形様が、御堂の当主とはいえ、そう簡単にお心を許すとは思えないもの。ましてやそんなお情けをかけられるなんて……」
「そうよねぇ。お綺麗だけど、御前に出ると畏縮しちゃって、わたしなんか毎回慄えちゃうもの。並みの男じゃ歯が立たないわ」
「あら、立たないのは歯だけ?」

 わずかな間を置いた後に、キャーという賑やかな笑いが女たちのあいだで弾けた。女たちは、美姫にはよくわからない内容で盛り上がり、ひとしきり騒いでから、ようやく逸れかけた話を本題に戻した。

「それにしても、おなじお貌立ちでどうしてあんなにも雰囲気が違うのかしら。前(さき)の《御座所》の真夕姫(まゆき)様は、それはお優しくて儚げでいらしたのに」
「お立場の違いでしょう。巫部の御家は代々《形代》が当主の座に就く宿命だもの。余程の覚悟と靱(つよ)さがなきゃ、守り抜けないわ」
「そう考えると、お屋形様も少しお気の毒よね」
「あら、《御座所》だってそれはおなじよ。《御座所》がいなければ《御魂》は鎮まらない。代々の《御座所》の犠牲の上にこの島も、あたしたちの平穏な生活も成り立ってるんだから」
「いまの姫様だって、あんなにお小さいうちからお気の毒よね。産後すぐ真夕姫様が《御座所》としての使命をまっとうされることになったから、娘の美姫様はご誕生とほぼ同時に次の《御座所》の地位を継がれたでしょう?」
「あたし、そこもまえまえから疑問に思ってたのよねぇ」
「あら、どこよ?」
「だって、いまの姫様は巫部の直系である有資格者の真夕姫様からお生まれになったけど、『双子の姉妹』っていう必須条件を満たしてないじゃない? それでなぜ《御座所》を引き継げるの?」
「特殊な例ではあるけど、『資格』はお持ちだったんじゃない? お社に《御座所》不在っていう事態を避けるための表向きの体裁かもしれないっていう噂は聞いたことあるけど、いくらなんでもそこまで禁を犯して《御魂》が鎮まるとは思えないし」
「そんなのわからないわよ。お偉い方々の考えることなんて、あたしたち下々の者には到底理解できないもの。お屋形様だってまだ三十を超えたばかりの女盛りでしょう? その気になれば、これからいくらでも次のお子様を望めるわよ。『血の汚れ』だなんだって言ったっていっときだけのことかもしれないし、だとすればその中に【本当のお世継ぎ】がご誕生になるかもしれないじゃない? それにこれも噂だけど、聞いた話だと、いまの姫様が双子ですらないほんとの理由って――」

 窓のすぐ下で美姫が立ち聞いていることに気づいたわけでもないだろうに、女たちは急に声のトーンを落としてひそひそとやりだした。だが、どんなに声を落としたところで、美姫がその気になりさえすれば、常人には持ち得ない力をもっていくらでもその内容を聞き取ることができる。
 なにも知らない女たちは、訳知り顔で美姫の出生の秘密について語り合った後、「うそぉ、いくらなんでもそれは穿ちすぎよぉ」と品のない声でその内容を一笑に付した。笑える要素など、なにひとつないというのに。

 いつのまにか固く握りしめていた両の拳を建物の壁に強く押しつけ、美姫は口唇を噛みしめた。その眼に、悔し涙が滲む。どんなに声をひそめたところで隠しとおすことなんてできない。この耳には全部聞こえてしまった。自分が望むままに風がすべてを運んできてくれたから。あなたたちの言う《御座所》の『資格』って、これのこと? いますぐにも女たちのまえに出て行って、そう詰問してやりたかった。


 思いがけない形で知ってしまった己の出生――


 それが、ただの下世話な噂話ではないことを、幼い少女は生来備わった優れた直感力で正確に感じとっていた。

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