【第三回コラボ祭り】小説版『アストロノーツ・アナザーアース』
古びた倉庫のような建物が建ち並ぶ敷地の一角。入り組んだ狭い路地のつきあたりで、ふたりの男が対峙していた。
ひとりは建物の壁を背に張りつくような格好で立ち、いまひとりはたったいま自分が歩いてきた路地を背に、余裕の笑みを浮かべて立っている。そして、ゆっくりとした歩調で一歩、まえに進み出た。
「たっ、助けてくれ……っ!」
壁際まで追いつめられたほうが、最後の勇気を振り絞るように必死の形相で頼みこんだ。まだ若い。十代後半からせいぜい二十代前半といったところか。カラカラに渇いた口から漏れ出たその声は、緊張と恐怖に掠れてひどく聞き取りづらかった。
若者のその懇願が、追いつめている男に理解できなかったはずもない。だが、男はそれでも容赦なく、相手との距離を詰めた。じっくりと、いたぶるように充分な間合いをとりながら。
「ひ……っ」
若者の口から、鋭く尖った悲鳴が空気とともに短く吐き出された。いつ伸びてきたのかわからない。だが、いつのまにか目許を覆うように片手で顔面の上部を掴まれ、完全に視界を奪われていた。
「ひっ……たっ、たすけ……っ」
「わりぃね、坊ちゃん。そいつぁ聞けねえな。なぜって、親のスネ囓ってる分際で、ろくすっぽ勉強もせずにヴァーチャルな世界でヒーローごっこに現(うつつ)抜かしてるクソガキがさ、オジサン、いちばん嫌いなのよ。自己陶酔も甚だしい偽物の正義漢。そーゆーの、片腹痛すぎちゃってうんざりするんだよね。若者風に言うと、うぜえ、マジムカつくってやつ?」
「ご、ごめん、なさ……い……っヒギャアァアァァァーッ!!」
最後の言葉は、途中から断末魔の絶叫へと移行した。
男の手と若者の顔面のあいだで、目映い薄緑の光が炸裂していた。
男のごつい掌の中で、若者のこめかみの両端がピクピクとふるえる。光の収束とともにほどなく力を失ったその身体は、凭(もた)れていた壁を滑るようにズルズルと崩れ落ちていった。
若者が地面に完全に座りこんだところで男は手を離す。白目を剥いた凄まじい形相が露わとなり、弛緩しきった上体は、そのまま地面にドサリと転がった。口から溢れた血泡が、倒れこんだ路面を濡らして濃い染みをひろげていくのが見えた。
「ごめんで済めば、警察はいりませ~ん!って言葉、ボク知ってるかい? 冥土の土産に、ぜひおぼえて帰ってね~」
上機嫌で言い放った男は、さっきまで若者の顔を掴んでいたほうの手をヒラヒラと振る。そして、ぷらりと散歩でもするような動きで身を翻し、その場を立ち去ろうとした。直後。
「あ~あ、か~わいそ。若い子相手に、ホント酷いことするわねぇ」
嗤(わら)いを含んだ女の声が物陰から響いた。
立ち止まった男が鋭い視線を投げかける。その視線の先、建物と建物のあいだにある細い路地の向こうから、ひとりの女が姿を現した。
豊かな巻き毛を白い指先が弄ぶさまも妖艶な、肉感的な肢体の美しい女だった。
「盗み見とは言い趣味だな、ヴィスパー」
たったいま起こった惨劇を目の当たりにしたというのに、女は男の剣呑な眼差しに射貫かれても、平然とした態度でその場に佇んでいる。艶やかな唇には、零(こぼ)れんばかりの笑みが浮かんでいた。
『囁きのヴィスパー』――それが、この世界での女の通り名だった。
「べつに盗み見るつもりで覗いてたわけじゃないのよ? ただ、現実世界(リアル)でちょうど暇だったから、時間潰しでもしようかなと思ってアストロにプラグインしたら、お楽しみの現場に遭遇しちゃったってわけ」
言って、女は気取った仕種(しぐさ)で両の掌を軽く持ち上げ、肩を竦めてみせる。芝居がかった表情までが、ひどく板について見えた。
どこまでも賢(さか)しらな女の態度が鼻につく。男は険しい表情のまま、女を見据えた。
「用がないなら、とっとと消えたらどうだ? 俺はおまえの暇潰しの相手にはならんぞ」
「もちろんそうするわよ。あたし、自分の得になる相手とじゃないと遊ばない主義なの。でもザザ、親切だから、消えるまえにこれだけは忠告しといてあげる」
女は得意然と相手に言った。
「『ジェノサイド・ザザ』。最近ちょっと、派手にやりすぎじゃない? アストロ内でのあなたの評判、要警戒人物としてだいぶ知れ渡ってるわよ?」
「泣く子も黙る有名人。嬉しいねぇ。名声あってのSNS。ヴァーチャルな世界で俺が天下を取るのも時間の問題か?」
「勘違いしていい気になってると、そのうち粛正されるわよ」
「なんだと?」
怒気を孕(はら)んだ鋭い眼差しが、ふたたび女を射貫いた。だが、ヴィスパーはやはり動じなかった。
「いまみたいな手荒なやり方で相手が構築してきたデータを完全破壊すれば、攻撃された側は現実世界でもかなりのダメージを被(こうむ)ることになる。アストロSNS内でプレイヤーが体験した死は、生々しすぎる感覚のせいで、非現実世界で創り出された偽物の現象だと脳が冷静に認識することができなくなってしまう」
「現実と遊びの区別もつかなくなるほうがバカなんだろ」
「そうね、そうかもしれない。それだけ夢中になってのめりこんでる証拠だものね。実際、寝食も忘れるほどこのアストロSNSに填まりこんでる人たちを、『アストロ廃人』って言うらしいわよ」
「くだらねえ」
男は鼻で笑い飛ばした。だがヴィスパーは、その様子を冷然と見やった。
「笑ってる場合かしら、ザザ。『アストロ廃人』には、もうひとつ意味があるって知ってる?」
「ほう、どんな?」
「アストロ内での死を実際の死と誤認したプレイヤーは、現実世界でもそのまま目覚めなくなってしまうらしいわよ。躰は生命活動を維持しているのに、脳が生きていることを否定してしまうんですって」
さっきのように、とてつもない恐怖と苦痛を味わったプレイヤーならなおのこと、とヴィスパーは男の背後に目線を送った。血泡を吹いて倒れたはずの若者の姿は、いつのまにか忽然と跡形もなく消失していた。
「自分は殺された。その思いが強すぎて、自己暗示にかかってしまうの。それもかなり強力な。そしてデータを破壊された衝撃と心に負った傷も深すぎるせいで、プレイヤーの精神は実際にも死んでしまう。その結果、脳死のような状態で目覚めなくなってしまうか、あるいはごくわずかな割合で目覚めたとしても、心は死んでしまったまま、まさに廃人と化してしまうってわけ」
「それで? そういう残忍な手口でアストロ内の秩序を乱す輩は許せないと、自分の創り上げた世界を守るべく、創設者『ジーニアス』様が満を持して立ち上がった、と?」
「それだけじゃないわ。アストロ内におけるあたしたち『悪役(ヴィラン)』の長も、だいぶお怒りよ」
「なにっ!?」
厳つい風体の男も、これにはさすがに顔色を変えた。
「ヴィランの長『圧倒的・理不尽(あっとうてき・りふじん)』あってこその、あたしたちでしょ? 『理不尽』がいなければ、あたしたちがこうして正規の登録手続を踏まずにアストロシステムを侵し、自由に出入りできるようにはならなかった。余計なお世話かもしれないけど、『理不尽』の不興を買うのは得策じゃないと思うわ」
「待て! 俺のなにが勘に障って『理不尽』の粛正対象になってるっ」
「さっき説明したわ。あなたは少し、自由にやりすぎたの」
「だからって……」
わずかに動揺を見せる年配の男に、華やかな容姿の女はわずかに顔を寄せ、心情を覗き見るようにその目を覗きこんだ。
「忠告ついでだからひとつだけ教えてあげる。ザザ、あなたこないだ、中学生くらいの男の子もかなり残酷な手口で殺したでしょ?」
「データを破壊しただけだ。実際に殺したわけじゃねえよ。第一、どのガキのこと言ってんだかさっぱり見当もつかねえ」
「そう。その、やったほうはだれだかさっぱり憶えてないって程度のお遊び感覚でいたぶった被害者たちの中に、ある大物政治家の隠し子が混ざってたの」
「なんだと?」
「跡継ぎがなっかなかできなかったところに、ようやく年若い愛人とのあいだにできた、まさに待望の長男でね、だいぶ歳いってからできた子供ってこともあって、それはそれは、目に入れても痛くないほどの溺愛ぶりだったんだけど、その子がね、運が悪いことにアストロSNSに填まって、ヒーロー(ノーツ)として日々活躍しているさなかにヴィランと遭遇して殺されてしまったの。もちろんヴァーチャルな世界でね。でも、当然ながら現実でも……」
ヴィスパーはそこで思わせぶりに言葉を呑みこんだ。皆まで言わずとも、あとはわかるだろう。ザザを見つめる目が、そう物語っていた。
「そいつは目覚めた、のか?」
ゴクリとかすかに息を呑んで尋ねた男に、ヴィスパーは小さくかぶりを振った。
「妾腹(しょうふく)とはいえ、跡継ぎとして大事に大事に育てられたお金持ちの家の子だもの。無敵のヒーローとして活躍するためにそろえたアイテムは、お金に糸目をつけない、レアなものばかりだったでしょうね。それがたぶん、裏目に出たんじゃない?」
女の言葉を聞いた瞬間、ザザの中で、「あいつか!」と思い当たる顔がようやくうっすらと浮かんだ。
「セレブ御用達の医療施設で、名医と呼ばれる医師たちが日本中から集められて全力で治療に当たったけど、結果は回復の見込みなし。アストロ廃人。いたいけな少年がそう呼ばれる脳死状態に陥ってしまったことで、情報産業大臣の逆鱗に触れてしまったのよ」
「……それでなぜ、『理不尽』が動き出す?」
重い口調で尋ねた途端、ザザを見るヴィスパーの目に侮蔑の色が浮かんだ。
「いま、ちゃんと聞いてなかったの? あなたが遊び半分で嬲(なぶ)り殺した子供は、情報産業大臣のひとり息子だったの。そのおかげで政府が動きはじめてしまったのよ」
遊びがすぎたわね。女は冷ややかに言い放った。
それゆえの粛正――つまり、足を引っ張る邪魔者は、早々に見切りをつけて排除する。そういうことか。
ザザの口許に、皮肉な笑みが浮かんだ。
「名前のとおり『大量虐殺』を楽しむのは勝手だけど、あたしたちまで巻きこまれちゃ迷惑よ。もう少し自重したら?」
言葉どおり、さも迷惑そうな女を、ザザは無表情にじっと凝視した。そして、
「ヴィスパー」
ややあってから、低い声で不意に呼ばわった。地の底から響くようなそのトーンに、呼ばれた女はギョッとした顔をする。そして、わずかに後退った。
「な、なによ。気に入らないからって、あたしに当たられても困るわよ。あたしだってほんとはこんなこと――」
「おまえ、随分裏の事情に詳しいな」
言い訳めいた言葉を羅列しようとする女を遮り、ザザは言った。
「現実世界(リアル)での、そんなコアな情報、どっから仕入れてくる?」
途端に女はカッと柳眉を逆立てた。
「なに? 親切心でせっかく忠告してあげたってのに、今度は詮索? 悪いけど、そういうプライベートなことにお互い首つっこまないのがこの世界での暗黙のルールでしょ。妙な関心抱いて身辺嗅ぎまわるような真似したら、こっちにも考えがあるわよ」
言ってから、ヴィスパーは意地悪く口の端を吊り上げた。
「だいたい、そんなこと言ったらザザ、あんただっておかしなとこだらけじゃない。アストロ内での外見じゃ判断できないけど、リアルじゃそこそこいい年齢なんでしょ? 言動で察しがつくわよ。ひょっとして、あたしの父親世代なんじゃない?」
値踏みするような目を向けられても、男の表情は動かなかった。
「いまは平日の昼間。まともな社会人なら、バリバリ働いてる時間よねぇ? 今日だけじゃなくて、そういう不自然な時間帯にアストロにプラグインしてること、多くない? こんな時間にお気楽な学生たちに混ざってプラプラしてるなんて、ひょっとして会社、クビになっちゃった?」
「おまえには関係ない」
どこまでも冷ややかに言い放つ男を、ヴィスパーは同様に、なんら親しみのこもらぬ目で見やって頷いた。
「そうよ、あたしには関係ない。あんたがどこのだれかなんて興味も関心もない。だからあたしに余計な関心を持つのもいっさいやめて。あんたには関係のない話でしょ」
「いいだろう。さっきの質問は取り消そう」
男は同意して、だが、とその後に付け加えた。
「おまえのことはこの際どうでもいいとして、もらった情報に関しちゃ、このままにはしておけんな」
「このままにはって、なに? なにかする気?」
「まあ、ちょっとな。俺にいい考えがある」
言って、ただでさえ人相のよくない顔貌(がんぼう)に、人の悪い笑みを浮かべた。
「その坊ちゃんだって、ようはこのアストロにプラグインしてる最中に悲劇に見舞われたわけだろ? となれば、アストロ内で起こった問題は、結局運営側の責任ってことになんじゃねえのか?」
「……呆れた。まさか責任転嫁する気?」
「いいや、俺は事実を述べてるまでだ。だってそうだろ? これだけ爆発的に利用者が増えてる人気のツールだ。サービスを提供する側はきちんと責任を持って、利用者が安全かつ快適に楽しめる場を構築し、なおかつ徹底管理する義務がある。そういうもんだろ?」
どの口がそれを言う、と思ったが、ヴィスパーは黙って耳を傾けた。
「それを怠った結果、サービス利用者に危険が及んだり事故が起こったならば、それは完全に運営側の管理不行き届きじゃねえのか? システムの脆弱性に気づきながらも、対応も改善もできなかったってことだろ? ならその責任は、アストロシステムの開発者である『ジーニアス』様に、とっていただけばいいのさ」
「その結果、サービス停止、なんてことになったらどうするわけ?」
「また新しいのに乗り換えればいいだけの話だ」
ザザは平然と答えた。
「アストロがこれだけ爆発的な人気を誇って社会に認知されたんだ。最大手が潰れりゃ、甘い汁が吸いたくて堪らない連中が、こぞって似たようなサービスをひっさげて擡頭(たいとう)してくるだろうよ」
言って、ザザはニヤリとした。
「ま、俺が思いつくくらいだから、責任転嫁の件はすでに『理不尽』が動きはじめてるかもしれねえな。足を引っ張らねえよう、ご忠告に従ってしばらくは活動をセーブしてやるとするか。けど、そのまえに――」
不意に言葉を途切れさせたザザは、女の背後に視線を向けると、その躰を雑に押しのけた。そのままわきを通り抜け、大股で移動する。そして、ひとつの倉庫前に立つと、いきなりその扉をぶち破った。
ぶち破った、というより、一見強めに蹴り飛ばしたかに見えた動きだったが、男の身長の倍以上はあった分厚い扉が、その一蹴でものの見事に粉砕し、轟音を立てながら崩れ落ちた。
バーチャルな世界に在りながら、その破壊の衝撃で濛々と土埃まで舞い上がるさまがやけにリアルである。
その塵芥の乱舞がおさまったところで、男は建物の内側、扉わきに向かって声をかけた。
「まあ、そういうことなんで、俺たちヴィランの目論見はだいたいわかったと思うが、ことの詳細を『ジーニアス』にご報告いただくまえに、盗み聞きの代償はキッチリ払っていってもらおうかな? ヒロイン(ノーツ)のお嬢ちゃん」
出て来るよう促され、壁の向こうでかすかに気配が動く。そしてほどなく、粉砕された扉のあった位置に、ひとりの少女が姿を現した。
「これはこれは」
蒼褪(あおざ)めた顔をそれでも気丈に反らし、昂然と自分を睨み据えるそのさまに、ザザはさも愉快そうに口許を歪めた。いまにも舌舐めずりしそうなその様子に、背後の女が聞こえよがしに独りごちた。
「最初からいたぶる気満々で、ぜぇんぶ手の内話して聞かせるなんて、趣味ワル……」
「おまえだって途中から気づいた上であれこれつっこんだ質問してただろ、ヴィスパー。この件に関して言うなら、おまえも共犯だぜ?」
肩越しに言葉を投げかけられて、女は軽く肩を竦める。そして、グロスの光る、やや肉厚の唇を色っぽくすぼめて見せた。
「しかたないじゃない。だって、あたしもちょっと興味があったのよ。その子でしょ? あの『ジーニアス』に才能を見初められて、最近アストロに参加しはじめた秘蔵っ子って」
「へえ、やっぱこいつがそうか」
「『テディ・ベア』。アストロではすでに、ちょっとした有名人よね。はじめまして、子熊のお嬢ちゃん」
前半はザザに、後半は少女に向かってヴィスパーはそれぞれ言葉をかける。入り口に佇む少女は、なおも硬い表情のまま目の前の敵を睨み据えていた。
腕力では到底目の前の獰猛そうな男には適わない。
盗み聞きしていたことがバレた少女は、ふたりのまえに姿を見せる直前、ジーニアスにSOSの通信を送っていた。
『ごめん、テディ。僕、これから検査で……。巧(たくみ)兄さんもいま、アルバイト中だし……』
かけているバイザー越しに耳に流れてきた意味不明の言葉。
『え!?』
『あ、うううん。なんでもない。すぐに助っ人を手配するから、少しのあいだだけ、なんとか自力で凌いで!』
言うなり、一方的に切られた通話。
いったいなにがどうなるのかさっぱりわからないが、ジーニアスの言葉を信じて、いまは自力で急場を凌ぐ以外に術がないようだった。
少女は腹を括って、できるかぎり時間稼ぎをすることにした。
「話は聞かせてもらったわ。いまの会話は、『ジーニアス』に報告するまでもなく、すでにデータを録音して転送済み。悪いけど、アストロをあなたたちの好き勝手にはさせない」
「可愛い顔して随分勇ましいな、子熊ちゃん。あの『ジーニアス』にどんな才能を買われたんだか知らねえが、ひょっとして、見かけによらずとんでもねえ戦闘力を発揮して、俺を楽しませてくれるつもりかい?」
「あなたと遊ぶ気はありません。あなたがすべきことは、被害に遭った人たちへの謝罪と贖罪。わたしは、そのために必要な裁きを下すだけ」
「小娘の分際で随分偉そうだな。どうせ社会に出たこともない世間知らずだろ? 世の中の仕組みも満足に知らねえクソガキ風情が、青臭い正義感振り翳(かざ)して、身の程も弁えずに目上の人間を偉そうに見下す。そういうのがな、俺ァ大っ嫌いなんだよ!」
「社会に出ていながら、まともな倫理観も道徳心も満足に養えていない人に、小娘呼ばわりされるおぼえはありません。年齢に関係なく、人と人とが関わって生きていく以上は、最低限の秩序や礼儀、互いを尊重し合って思いやる気持ちが必要でしょう?」
――そうだ。わたしは現実社会でそんなふうにして人と関わっていくことがとても苦手だった。
男に向かって言葉を紡ぎながら、少女は心の裡(うち)で己自身と向き合った。
絶えず人の顔色を覗い、嫌われることを恐れ、なにひとつ取り柄のない自分はこの先、生きつづけてもいいのだろうかとつねに自問していた。
自信が持てず、将来への不安ばかりが募る、希望のまるで見えない苦しい日々。背中を丸め、膝を抱えて蹲(うずくま)り、自分の殻に閉じこもるだけだった毎日。そんな中、突然目の前に現れ、新しい世界への扉を開いて導いてくれた人がいた。君だからこそ必要なのだ、と手を差し伸べて――ジーニアス……!
「好き勝手に振る舞いたいのなら、SNSなんかに足を踏み入れたりしないで、自分ひとりの世界で思いっきりやりたいようにやればいいじゃない。正規登録もせずに勝手にシステムに侵入してきて、個人を特定されないのをいいことに弱い者いじめのし放題。しかも、あなたのやっていることはすでに、いじめの領域すら超えている」
「被害者たちの現実世界での人生すら踏みにじって、前途ある彼らの未来を奪ってるんだからぁ――ってか?」
男がからかい口調で少女のセリフを代弁してみせた。ふてぶてしいその態度に、反省や後悔の色は微塵も見られない。完全に少女を格下と侮って、見下していた。
「自分の力を誇示した挙げ句の嬲り殺し――ジェノサイド・ザザ、あなたのしていることはすでに立派な犯罪です」
「偉そうに滔々と説教垂れちゃってまあ。正しいねえ。正しすぎて反吐(へど)が出るよ。自分(テメエ)の正当性を笠に着て正論で相手を責め立てるのは、さぞ気分がいいだろう。どうだい、正義のヒロインになりきってるケツの青いお嬢ちゃん。創りものの世界で自分が立派な人間になれた気分てのはよ?」
ザザは、そう言って薄い唇をめくり上げ、尖った犬歯を見せつけるようにしながら凶悪な笑みを浮かべてみせた。纏う気配に、徐々に殺気が籠もりはじめていた。
「ひょっとしてお嬢ちゃんも、お金持ちの家の子かな? 娘に甘~いパパに頼んで、大人気のSNS、アストロでの地位と名声と戦闘力抜群のアイテムを買い揃えてもらっての正義の味方ごっこかい? まさかとは思うが、ヒロイン(ノーツ)じゃなくて、守護者(ヴィジランテ)なのかな?」
「どれも違います」
答えながら、少女の中でも緊張が高まっていく。油断すればおそらく自分も、この男の殺戮の餌食にされる。相手の目に浮かぶ殺伐とした光が、少女に危険を知らせていた。
現実世界(リアル)では、あたしはなんの力も持たない、ちっぽけな存在にすぎない。
美人なわけでも、頭が良いわけでも、運動神経が並外れて優れているわけでもない。全部並み以下。どれも自信が持てないし、これだけはだれにも負けないって胸を張って言える特技だってない。楽器は弾けないし絵も下手。歌なんて人前で声を出すこと自体考えられない。
人付き合いも苦手。性格も暗い。行ったり行かなかったりの高校は、クラスの中でも影が薄くてみんなから敬遠されっぱなし。話しかけてもロクに返事がないし、1日中じっと俯いて席に座ってる姿が幽霊みたいで気持ち悪いって言って。友達って言える相手なんかひとりもいない。だけど――
少女は昂然と胸を反らした。
『君にはだれにも負けない創造する力がある。それが君にとっての最大の武器になる!』
この世界へ導いてくれた『ジーニアス』の言葉。
――あたしには、創造する力がある。それがあたしの、最大の武器……!
刹那、野球ボール大の光の球が、少女の顔めがけて飛んできた。弾丸のような勢いのそれを、少女は逃げることなく凝視する。
――シャボン玉!
心の中で呪文のように唱えた瞬間、瞬く間に顔のまえまで迫った光は、少女の鼻先でパッと弾けて輝きを失い、一瞬にして消えてなくなった。
「ほう……」
男の口からやや感心を含んだ、如何にも楽しげな声が漏れた。
いつのまにかロケットランチャーのような砲身へと形を変えていた男の右腕が、狙い定めていた少女から的をはずして下ろされる。その腕が完全に下げられたときにはすでに、先端部分は普通の人間の手に戻っていた。
少女は相手の様子を見ながら、自身もまた、戦闘に向けて態勢を整えていく。
――腕力ではとても敵わない。でも、この世界でならあたしは戦える。ただのちっぽけでなんの取り柄もない、無力の女の子なんかじゃない。根暗で引っ込み思案な凜野(りんの)はななんかじゃなく、アストロノーツの『テディ・ベア』としてどんな相手とも渡り合える。
少女は自分に言い聞かせた。
――あたしの武器は、相手の心に自分の心を添わせることができること。そして、頭の中で思い描いた状態に物質を変えられること。
思って、生きた人間も創造したとおりに変えられたらよかったのに、と、あとから浮かんだ考えに、ひとり、含み笑いを漏らした。
「なにが可笑しい?」
見るからに悪人、といった風体の男が眉間の皺を深くする。少女はあわてて表情を取り繕(つくろ)いつつ、内心でひそかに「このおじさんもトイプードルかなんかに変えられればよかった」と嘆息した。
「なるほどな。小手先の仕掛け程度じゃ通用しないってわけだ」
ただ一度の攻撃で見切ったのか、男は独り言にしては大きな声で呟く。少し離れた場所で、完全に見物人を決めこんでいたヴィスパーが、からかい口調でそれに応じた。
「だから言ったじゃない。その子熊ちゃんは、『ジーニアス』の秘蔵っ子だって。ナメてかかると痛い目見るわよ、ザザ」
勘に障る女の口出しに、男の表情がみるみる不機嫌になった。だがそれも一瞬のことで、その顔にふたたび悪辣な笑みを浮かび上がらせると、次の瞬間には第二の攻撃へ移っていた。
「キャ……ッ」
いきなり繰り出された鋭い拳に、さすがの少女も悲鳴をあげて咄嗟によけようとする。そしてそのまま大きく体勢を崩してバランスを失い、派手に尻餅をついた。
「あっという間に弱点見~っけ!」
男は少女を見下ろして、ニタリと嗤いながら言った。
「なるほどね。こういう場合は素手のが有利ってわけだ。これも所謂(いわゆる)年の功ってやつかね。人生の経験値がモノを言うってか?」
少女を見下ろす男の瞳に、獰猛な色が浮かび上がった。
――どうしよう。完全に見抜かれてる。
少女の怯えを感じとったか、男の表情が喜悦に歪んだ。『ジェノサイド・ザザ』――ヴィラン名に相応しい残忍さがその目に爛々と宿っていた。
「反撃に出られちゃうと困るんで、考える隙も余裕もないうちに、さっさと片付けちゃおうかな」
言いながら、グローブのようなごつい手が、少女の襟首を乱暴に掴むと自分の目線の高さまで軽々吊り上げた。
少女の視界の端で、空いたもういっぽうの手が、固く拳を握りしめて大きく後方へと振りかぶられるのが見えた。
――これ以上の時間稼ぎなんてもう無理っ。
恐怖に竦んだ少女の思考が、一瞬にして凍りつき、その活動を停止してしまう。
「目上の人間に無礼を働いたテメエの傲慢さを、たっぷり悔やむんだな。こ・ぐ・ま・ちゃ・ん」
振りかぶった拳が、反動をつけるために小さく後ろへ引かれ――
――ジーニアス……ッ!!
少女が絶体絶命の窮地に立たされたそのとき、
「かよわき者の助け呼ぶ声聞こえたならば、天の向こう、地の果てまでもいざゆかん!」
突然朗とした声が辺りに響きわたり、上空から飛んできたなにかが、振り上げたザザの拳と少女を吊し上げていた腕とを立てつづけに直撃した。
「ぐあっ」
その衝撃で、ザザは握りしめていた拳を開いて少女を放り出してしまう。勢いよく投げ出され、地面に転がった少女は、痛みに顔を蹙(しか)めた。
――なに……?
地面に手をついて起き上がろうとした視界のすぐ横で、上から降ってきたかのように、何者かの両足が風を纏ってストンと着地した。少女をみずからの背後に庇い、ザザと対峙するような立ち位置だった。
「な、なんだテメエはっ!?」
驚愕と怒りに満ちたザザの声が、目の前の人物越しに少女の耳にも聞こえてくる。直後、着地の体勢からスッと軽く両足を開いて仁王立ちになった謎の闖入者は、みずからの腰に両手を添えた格好で名乗りを上げた。
「正義のヒーロー『キャプテン・ギーク』、ただいま見参!!」
ようやくゆっくりと身を起こした少女は、上体を捻り、目の前に立つ人物の後ろ姿を茫然と仰ぎ見て内心で呟いた。
――――だれ…………?
- つづく -
………………かもしれない