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第十二章 神の目醒め(一)

 ビクッと身を竦めた雛姫の動きがそこで静止する。硬張った表情で視線を彷徨わせた雛姫の脳裡に、つらい選択肢を突きつけられていた現実が蘇った。

 大好きな真尋のために、本当に自分がしなければならないこと──

「雛、惑わされるな。奴の言葉に耳を貸すんじゃない! 俺を信じろっ」

 雛姫の表情の変化に気づいた真尋が、すかさずその注意を自分に向けようと声を嗄らして叫ぶ。見上げた雛姫の頬に、またひとしずく、鮮血が落ちて自分の涙と混じり合った。


 本当に大好きな人。自分の命より大切な人。
 自分が向けるのとおなじ想いで──否、それよりも遙かに大きな愛情で、ずっとずっと包みつづけてくれた人。

 ヒロ兄……。


 雛姫は目を閉じ、大きく深呼吸すると自分の足下に視線を落とした。

 そこに広がるのは、神の怒り。


「美守っ、ロープの替わりになるものを寄こせっ!」

 雛姫の思いを読み取った真尋が、説得を断念して上方に向け声を張り上げた。突然の指示に、真尋の腕を押さえていたふたりの女たちはあわてふためいて辺りを見回す。真尋は、それへ向かってさらに言葉を重ねた。

「帯締めっ、帯揚げっ、それで足りなきゃ襦袢の紐があるだろう! 早くっ!」

 言われて、トキははじめて自分が身につけているものに気がついた。
 平生であれば、毒づいたり恥じらったりと、余計なリアクションをしかねない老女も、今回ばかりは真尋に命ぜられるまま素早く帯を解いて必要な小物を抜き出した。それらを固く結びあわせ、一方を美守とともに握ると、掴みやすいように結び目を作ったもう一方の端を真尋に向けて抛(ほう)った。

「雛、この紐に掴まって先に引き上げてもらうんだ」

 言うなり、真尋はとうに限界を超えている躰に鞭を打って、渾身の力で雛姫の躰を紐が掴める位置まで引き上げた。
 傷口から新たな鮮血が噴き出すのを見て、雛姫が泣き声をあげた。だが、真尋はかまわず自分の胸の位置まで雛姫の躰を持ち上げた。

「雛、早く掴まれ!」

 言われるまま、雛姫は真尋の負担を少しでも少なくするためだけに夢中で手を伸ばし、下から吹き上げる熱風に揺れる紐の端をやっとの思いで掴んだ。

「ヒロ兄、お願い、先に上がって。雛、後でいいから!」

 すでに、血の気を喪っている兄の顔を間近で見て、雛姫は激しくしゃくりあげながら懇願した。だが、真尋は頑として首を縦に振らなかった。

「いいから。おまえが先だ。おまえが引き上げてもらえば、あとは俺は自力で上がれるから。いいな、下は見るなよ。少しの辛抱だ。絶対に紐を放すな」

 こんなところで押し問答をしている猶予はない。察した雛姫は、真尋の言葉に滂沱と涙を零しながら何度も頷いた。

 真尋の合図を受けて、女たちはただちに雛姫のぶら下がった紐を引き上げにかかった。
 真尋も可能な限り下から雛姫の躰を支え、なんとか雛姫の伸ばした手が崖の端にかかる位置まで引き上げることに成功した。

 あと数センチ。

 美守の差し出した手が、もう少しで雛姫の手をとらえる。その手首には、真尋に掴まれていた痕がくっきりと浮かび上がっていた。
 真尋が、必死に自分を生かそうとした証し。痛くはない。ただ、兄の熱い想いだけがジンジンと脈打っていた。その指の跡を見つめながら、雛姫は1秒でも早く上に行って、真尋を引き上げる手助けをしようとそればかりを考えていた。

「雛姫、もう少しよ!」

 美守の指先が、雛姫の手を掠る。しっかりと雛姫を掴まえるために美守とトキが身を乗り出そうとした瞬間、ふたたび起こった鳴動によってそれぞれの躰は勢いよく下から突き上げられた。その反動で、紐を握る力に弛みが生じた。

「雛っ!」

 激しい縦揺れにみずからもまた翻弄されながら、真尋は溶岩流の中へと抛り出されそうになった雛姫の躰に腕を伸ばした。
 岩盤から崩れ落ちる大小無数の岩石が容赦なく真尋に降り注ぐ。その衝撃に耐えながら、真尋は落下してくる雛姫の躰をやっとのことで受け止めた。

 体力も気力もとっくに限界を超えている。なにより、腹部からの出血が多すぎて思うように力が入らない。自分ひとりなら、とうの昔に細胞の一片までもマグマに熔かされていたろう。
 雛姫だけは死なせない。絶対に、どんなことがあっても。その思いだけが真尋の心と躰を支えていた。

 腕だけでなく、全身の感覚がすでになく、ともすると意識も途切れがちになる。風も、思うように操ることができない。それでも、かろうじて生への執着のみでかじりついていた岩盤が、真尋より先に音を上げ、期待を裏切った。

「きゃあぁぁぁーっ! 真尋ーっ!!」

 美守のけたたましい悲鳴と同時に、臓腑が浮き上がるような感覚を一瞬だけ味わった。だが、落下しかけた腕を、思いがけず力強い手が掴んだ。

「間一髪。君の悪運が強いのか、はたまた僕がヒーローの器なのか。どっちだと思う?」

 ギリギリの淵に身を乗り出して、涼やかに微笑したのは司だった。

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