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第三章 巫部島(二)
巫部島へは、それから15分あまりで到着した。
二度目に乗り継いだ連絡船には、真尋と雛姫以外だれも乗り合わせなかったため、島に降り立ったのも当然ながら兄妹ふたりきりとなった。
時刻はすでに午後7時になろうとしている。西の空に沈みかけた太陽が、海の向こうに見える陸地の稜線にかかり、空と海をオレンジ色に染め上げて美しく輝いていた。
「んー、やっと着いたぁ!」
桟橋を抜けて人気のない港に降り立った雛姫は、足下にバッグを置くと、長旅で凝り固まった全身の筋肉をほぐすように思いっきり伸びをした。
「ヒロ兄ってばほんとに唐突なんだもん、朝はびっくりしちゃったよ。おまけに旅行先は雛が決めていいって言ってたのにさ」
「旅行のことは予定どおりにおまえが決めればいい」
「……? これがその旅行じゃないの?」
「これは、そんなんじゃない」
真尋は、雛姫の不思議そうな視線を受け、つと目を逸らした。
「用事はすぐに済ませる。おまえは、なにも心配しなくていい」
「べつに心配はしてないけど……」
――用事?
雛姫は納得しきれないまま相槌を打ったが、それ以上問いつめることはしなかった。
「ま、いいや、なんでも。雛はヒロ兄と一緒ならどこでも楽しいから。雛ね、さっき船に乗ってて思い出したんだけど、図書館でガイドブック見てたときに、ヒロ兄と旅行するなら瀬戸内海のどこかがいいなぁって思ってたんだよ。ヒロ兄の好きな新鮮なお魚がいっぱい食べれて、景色も綺麗で、見どころもたくさんあるうえに雛がまだ一度も行ったことがなく…て――」
饒舌だった言葉が、そこで途切れた。
「雛?」
呼びかけた真尋の声すら耳に入らぬ様子で、雛姫はふらふらと歩き出した。
狭いロータリーを挟んだ道路の向こうに、雛姫は引き寄せられるように歩いていった。そして立ち止まったのは―――
『其は人にして人に非ず
其は生にして生に非ず
遙か古より伝わりし 常夜の御魂の御座所なり』
巨大な石碑のまえに佇み、雛姫はその碑文にじっと見入った。
「この石碑が、どうかしたか?」
追いついて背後から尋ねた真尋に、雛姫は石碑を見上げたまま呟いた。
「あたし、ずっとまえにここに来たことある?」
「――どうしてそう思う?」
「わかんない。なんとなくこの石碑、見たことあるような気がしたから」
雛姫は、そこではじめて真尋を振り返って、そんなはずないのに変だよね、と笑った。
「――雛」
「なあに」
「頭の痛みは大丈夫か?」
「頭……?」
脈絡のない兄の質問に、雛姫はキョトンとした。
「べつに痛くないよ。頭もお腹もほかのとこも」
「そうか」
「ヒロ兄ってば、いきなり変なの」
――頭が痛い。おでこが灼ける……っ!
高熱こそ出さないものの、あれから毎夜、雛姫はうなされつづけている。そして当人は、朝になるとケロリとしてなにも憶えておらず、そのことにまるで気づいてすらいなかった。
時間がない。早く、しなければ―――
「ヒロ兄、これ、なんて書いてあるの? 難しい漢字ばっかりで、全然読めない。『ひとにしてひとに――』」
「『そはひとにしてひとにあらず』――人であって、人ではない。生でありながら、また生でもない」
「人であって人じゃなくて、生――生きてるけど生きてない……? なぞなぞかなにか? 足の数が朝は4本で昼は2本、夜は3本。これなーんだ、みたいな?」
「そうじゃない」
真尋は苦笑した。
「この島は、昔から『神の棲む島』と呼ばれている。この碑文は、そのことを謳ったものだ」
「神? 神様が住んでるの?」
「ただの言い伝えだ。『御魂』というのは、その神のことを指している」
「すごいね。どんな神様なの?」
無邪気に尋ねた雛姫に、真尋はわずかに言いよどんだ。雛姫はそれに気づいた様子もなく、ふたたび石碑に刻まれた文字を熱心にたどる。民俗学を研究する兄の影響を受けてか、雛姫はこういった方面について、いたく関心が強い。地方にまつわる伝承や風習、それらと密接に関係した人々の生活などについて、時折兄がわかりやすく解説してくれるため、物珍しく映るそれらのことに、ますます興味と想像力を掻き立てられるらしかった。
其は人にして人に非ず
其は生にして生に非ず
遙か古(いにしえ)より伝わりし
常夜(とこよ)の御魂(みたま)の御座所なり
永(なが)の流離は御魂の運命(さだめ)
本意(ほい)ならざりし血盟は、永訣を以て其を違(たが)わしめん
縟礼(じょくれい)を以て祀られしは、光にして闇の御魂
撫恤(ぶじゅつ)は暴戻(ぼうれい)
乱世は安寧
光華(こうか)は朽廃(きゅうはい)
輿望(よぼう)は讒謗(ざんぼう)によりて潰え
悖戻(はいれい)は慷慨(こうがい)を以て濁世(しょくせ)を平らぐ
穎悟(えいご)は魯鈍(ろどん)
邪は正
其は神(しん)にして邪鬼なり
畢竟、此方(こなた)は羈絆(きはん)によりて
尊(たっと)き御魂を棲まわしむ
幽明混ざりし異境なり
其は人にして人に非ず
其は生にして生に非ず
而(しか)して死にも非ず
ただただ、尊き御魂の御座所なり―――
真尋は、低い声でゆっくりと碑文を読み上げてやった。
「ねえ、ヒロ兄」
しばらく沈黙した後に、雛姫は言った。
「この神様は善い神様なの? それとも悪い神様? 『光』だけど『闇』で、『邪』だけど『正』、『神』なのに『邪鬼』なんだよね? あとの意味は、雛にはよくわかんないけど」
「善いか悪いか、というのは、あくまで人間の価値基準に照らした場合の判断だから、実際にその存在が善であるか悪であるかを決めるのは難しいな」
おなじく石碑を眺めながら真尋は答えた。
「だが、この神が二面性を備えていることはたしかだ。よく知られるところでは、ヒンドゥーのシヴァ神なんかがこれに相当するが」
「シヴァ神?」
「インドの神話に出てくる三大神のひとりだ。ブラフマー、ヴィシュヌ、そしてシヴァ。シヴァ神は、破壊と同時に、植物を育てるといったような創造も司ると言われている。日本では不動明王に相当するな」
「じゃあ、この島に祀られているのはお不動様?」
「いや、それとはまったく異質のものだ。ただ、相反する性質を併せ持つ、という面では多少似通っていると言えなくもない。『撫恤』というのは『慈しみ憐れむこと』だが、それに対しては『乱暴で惨い』を意味する『暴戻』が、『すぐれてかしこいこと』を意味する『穎悟』に対しては『愚かで鈍い』という意味の『魯鈍』が、それぞれ根本的な部分では結局おなじものに繋がっていく、として引き合いに出されている」
「それがここに書かれている文の意味?」
「おおまかなところでは」
真尋は頷いた。
「光の当たらない場所に影はできないし、その逆もまた起こりえない。光だけでも影だけでも世の中は成立しない。表裏一体――『神』の存在をとおして、それがこの世界の成り立ちの真理だとしている」
「シンリ、ってどういう意味?」
「物事の正しい局面を表す言葉だ」
「正反対のことがおんなじになるってことが正しいの?」
「物事をひとつの側面からのみ判断しても意味がない、ということだ。この石碑にしても、いろいろな角度から見れば、それぞれに見える部分も形も色も違ってくるだろう? 十人十色、という言葉があるように、何人もの人間がいれば、人の数だけ考えかたや感じかた、とらえかたなんかも変わってくる。ある人にとってかけがえのない大切なものでも、別の人間にとってはなんの価値もないがらくたでしかない場合もある。雛は俺が好きか?」
唐突な話題転換だったが、雛姫は迷わず即答した。
「うん。もちろん大好きだよ」
「ありがとう。だが、違う立場の人間、たとえば俺の授業を選択している学生にとっては、俺という人間は課題ばかり出す嫌な講師かもしれない。雛の気持ちも学生たちの評価も、どちらも御堂真尋というおなじ人間に対して向けられたもので、そのいずれも間違いじゃない。そして俺自身の中にも、善い面と悪い面、両方が内在している」
「神様だけじゃなくて、ヒロ兄にも『二面性』があるってことだね。それに雛にも」
「そのとおり。人間社会の中でも、二極性というものは絶えず存在している。『人々から寄せられる信頼や期待が心ない謗りによって破れる一方で、非道な行いが罷りとおった乱れた世の中を、不正を嘆く心が治めたりもする』と碑文にも書かれているように」
「どっちかが正しくてどっちかが間違ってるって決めつけることもできないし、善いことも悪いことも、どっちか片方だけで存在することもできないってことだね?」
「そうそう。なかなか優秀だぞ」
褒められて、雛姫は面映ゆそうにはにかんだ。
「この島に住んでるのは、きっと人間ぽい神様なんだね」
雛姫は、ごく何気ない口調で述懐した。だが、途端に真尋の顔から穏やかな笑みが消えた。
「……神話も、結局は人間が創り出したものだ。ギリシャでも北欧でも日本でも、登場する神の描かれかたはそう大差ない。浮気をしたり夫婦喧嘩をしたり妬んだり争ったり、逆に深い愛情を注いで慈しんだり」
「そっか。そうだよね」
「信仰というのは、人間が倫理に則して社会生活を円滑に、そしてより心豊かに送るために発展した人間特有の精神理論を具体的に体系化させたものだ。文化や文明、地形特有の気候を含めた自然現象、あるいは歴史的背景などが教理に反映されていくことが多いから、土着――つまり、その地域に根付くかたちで発展した信仰ほど、その土地の特色が色濃く現れることになる」
「ようするに、そこに住む人たちに馴染みやすくて、わかりやすくて、親しみやすいけど手が届かない存在が神様ってこと?」
「人智の及ばない、畏怖すべき対象でなければ、行いを戒め、ときには悔い改めたり、あるいは救いを求めて心の拠り所とすることはできないからな」
「たしかにそうかも。雛は仏教徒でもクリスチャンでもないけど、なにかあるとやっぱり咄嗟に手を合わせて心の中で神様にお祈りしちゃうし、ときどきはお父さんやお母さんにもお願いしちゃうこともあるけど、そういうのが支えになることってあるもん。祈ったり、奇蹟を願って助けを求められる存在って、きっとだれにでも必要なんだね」
「そういうこと。無条件に恕(ゆる)しを請える大いなる存在もな。この島でも、そういう風土に根付いた信仰が発展してきたんだろう」
「それで神様に住んでもらうことになったんだね」
納得した表情で雛姫は兄を顧みた。
「だけど、それなら神様のほうは、どうしてこの島を住む場所に選んだのかな。こんなにいっぱいあるんだから、どの島にしようか、とか、選ぶのに迷わなかったのかな」
打てば響くように返ってくるはずの答えが、不意にそこで途切れた。雛姫は不思議に思って兄を顧みた。
「……ヒロ兄?」
「――この島の人間と、契約を交わしたからだ」
「へえ。そうなんだ」
―――本意ならざりし血盟は、永訣を以て其を違わしめん―――
石碑に視線を戻す雛姫を、真尋は複雑な思いを抱えてそっと瞶(みつ)めた。