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第十三章 乾坤の狭間(二)

「おまえ……っ」
「これまでの非礼の数々、心よりお詫び申し上げます」

 言うなり、波子は深々と頭を下げた。

「少々乱暴な手段になってしまいましたけれど、真尋様に確実に目醒めていただくためには、ああするよりほかなかったのですわ」

 波子は、お辞儀をしたまま頭だけ持ち上げて小首をかしげると、兄妹に向かって悪戯めいた笑みを浮かべた。その表情の中に、さっきまでの邪悪な気配は微塵も見当たらなかった。

「波子さん、ヒロ兄が目醒めるってどういうこと? どうしてここにいるの? それに、ここはどこ? ほかのみんなは? いったい、なにがどうなっちゃってるの?」

 矢継ぎ早に浴びせかけた雛姫の質問に、波子は下げていた上体を起こすとにっこりと笑った。

「真尋様を解放するのが姫様の真の御役目。最初に申し上げましたでしょう?」
「でもあたし──」
「姫様は充分、その役割を果たされましたわ。この場所にいることが、その証拠です」
「ここ、どこ?」
「ここは、天と地が交わる場所──人ならざるもののみに開かれる幽明の地」
「人じゃない? じゃあ、やっぱりあたしたちは死んじゃったってこと?」

 雛姫の質問に、波子はさも可笑しげにクスクスと笑った。

「そうじゃありませんわ。姫様は、唯一《御魂》を鎮めることのできる力をお備えになった《御座所》。そして真尋様は、風の神の『真(まこと)の名』を受け継がれた唯一の御方」

 思いもしなかった波子の言葉に、雛姫は瞠目して兄を振り返った。だが、真尋は驚いた様子もなく、厳しい視線を波子に向けている。そして、重い口を開いた。

「おまえは何者だ」
「申し遅れました。わたくしは天の神の妻にして、大地の女神の母なる御方、海の女神に使わされし者にございます。度重なるご無礼、ひらにご容赦くださいませ、風の御方」
「海の女神がなぜおまえを使わした」
「天の神によって奪われし風の神の御力を、『真の名』を受け継がれた御方にお返し申し上げるためでございます。奪われた風の力は、己の罪を悔いた大地の女神によって母なる海の御方の許へと届けられました。荒ぶる神によって天地両神が滅ぼされる直前のことでございました。我が主は、最愛の娘より託されたその力を、風の御方が真に目醒める今日まで大切に護られてきたのでございます」
「完全に目醒めた保証はどこにある」
「それは火を見るより明らか。貴方様の麾下(きか)たる風の子が、これこのように有形を成しております」

 波子が示した先に、ひとりの青年が膝をつき控えていた。雛姫の知る洋服とも和服とも異なる丈の長い浅葱(あさぎ)の装束に身を包んだ青年は、雛姫と目が合うとかすかに表情をなごませた。

 あ、あの人……。

 青年を見た瞬間に、雛姫の胸にピンとくるものがあった。ここに来るまでに何度も励まし、包みこんで助けてくれた《気配》。あれは、彼だったのだ。
 無我夢中で注意を払っている余裕もなかったが、いまから思えば、崖から落ちそうになっていたときも、ずっと自分と兄を支え、守っていてくれた気がする。おそらくは、地下から吹き上がる熱風からもふたりを庇い、守ってくれていたのだろう。

「荒ぶる神の怒りに巻きこまれ、多くの同朋が消滅した結果、いま現在、人型をとれる力を有するはこの者だけですが、それでも充分お役に立てるかと」
「『黒風(こくふう)』と申します」

 波子の紹介を受け、青年は真尋に向かって低く名乗った。

 穏やかで、物静かな雰囲気にそぐわぬ呼称。だが、それゆえに消滅を免れ、生き延びることが適ったのであろう。太陽の光を遮り、空が黒く見えるほどに砂塵を巻き上げる暴風をそう呼ぶのだと、雛姫は随分後になってから知ることになる。

 風の子と呼ばれる青年の、兄に対する恭倹たる態度に雛姫は不安をおぼえた。兄が、急に手の届かない存在になってしまったような気がしたからだ。


「……ヒロ兄は、風の神様なの?」

 我ながら、現実離れしたバカみたいな質問をしていると雛姫は思った。だが、現実離れした現象が実際にいくつも起こった後では、そう質問するよりほかなかった。
 不安げな様子で自分を瞶める少女。そんな雛姫を見て、真尋は微笑(わら)いながら、そうではないとかぶりを振った。

「でも、いま波子さんが……」
「風の神本人じゃない。風の神の名前を受け継いでいるんだ。神々にとっての名前──殊に『真の名』と呼ばれるものには、絶対的な支配力が備わっていると言われている」
「その名前を、ヒロ兄が持ってるの? どうして?」

 質問を重ねた雛姫に、真尋はいくぶんの躊躇いを見せて言いよどんだ。
 その躊躇いの中に、すべての答えが詰まっている。雛姫はそう感じた。両親のことも、自分の出生のことも、兄と自分との血の繋がりに関する真実も。

「それについては、真尋様に代わってわたくしがご説明させていただきますわ」

 迷いを振り切れぬ真尋に代わり、波子がすかさず説明役を買って出た。そんな波子に、真尋は一瞬、咎めるような視線を向けた。しかし、差し出た振る舞いであるにもかかわらず、波子は悠然と構えて真尋の非難を受け止めた。

「真尋様、先程も申し上げましたとおり、いまがまさに潮時なのです」
「しかし――」
「いいえ。これは、【ある御方】のご意志でもあるのです。ですから、すべてこの波子にお任せくださいませ」

 言うなり、波子は真尋の返事も聞かず、両手を大きく天に差し伸べた。

「さあ、姫様! いまからお望みどおり真実をお見せいたしますわ。これからご覧になるものをお信じになるか否か、ご自身の内に流れる尊(たっと)き血の宿業を、真正面から受け止めて向き合われるか否かはすべて姫様のお心次第」

 波子の背後に、突如巨大な波が現れた。
 3D映像のように実体を持たないそれは、しかし見る間に容積と勢いを増して膨れ上がり、真尋と雛姫めがけて襲いかかってきた。

 幻とわかっていてなお息を呑まずにいられない迫力の巨濤が、ふたりの頭上から覆い被さってくる。

 波に呑まれると同時に雛姫の視界から真尋の姿は消え去り、波子も、そして黒風と名乗った青年の姿はおろかその気配さえもが一瞬にして消えて失くなった。
 優しく心地よい光のシャワーが雛姫の全身を包みこむ。その粒子ひとつひとつがやわらかに共鳴し合って、言葉にはならない深い想いで雛姫の心を満たしていった。




 其は光にして闇。
 其は正にして邪。
 其は神にして邪鬼。

 その昔、実の母の手にかかって生命を絶たれた哀れな赤子。
《御魂》と呼ばれし存在は、畏怖の対象であると同時に、島の守り神でもある。
 その『真の名』を、《風音(かざね)》といい《風花(ふうか)》という。

 風の神の血を引く尊き双子。《荒ぶる神》は、二つ名を持ち、いずれか一方では決して成り立たぬ。

 ──愛しい我が子、愚かな母を恕(ゆる)しておくれ。

 深い悲しみの中、みずから進んで贄となり、大地に生命を捧げしは、双子の片割れではなく母たる娘。それが真実。
 己の血を分けた最愛の者を救うため、娘は躊躇うことなくみずからの死を選び、それをもって大地の女神への贖罪とした。

 母を喪った悲哀。母が消えた寂寥。母の犠牲を当然と嘲弄し、苦しみを悦んだ者への瞋恚と憎悪。その一方で募る、母への思慕。注がれた愛情から生まれた仁慈と寛容。

《風音》と《風花》。

 離れた場所にいながら、ふたつの魂は強く引き合い、融合し、天地両神の力をも吸収して、やがてひとつの強大な力へと変異した。

 其は死。其は生。

 世界の有りようを一瞬にして虚無にも変える甚大なる力をもって、《御魂》はひとつの奇蹟を起こした。

 このままでは世界が滅ぶ。

 父たる風の神は、その生命を賭して力の暴走を封じこめた――



 やがて、《御魂》の奇蹟によって息を吹き返した母たる娘は、目覚めた後にすべてを覚る。最愛の夫の消滅と、《我が子ら》の消失を。

 風の神によって封じこまれた《御魂》の暴走。

 保たれた島の平穏は、大いなる力の拮抗の、危うい均衡の上にのみかろうじて成り立っていた。均衡が破られれば、すぐさま島は沈む。《御魂》もろともに。

 風音、風花、今度は母がそなたらを護ろうぞ。

 娘は《御魂》が眠る地に社を設け、安息が妨げられることのないよう《荒ぶる神》を祀った。


 後に娘は、父なき双子をふたたび産み落とす。
 ひとつは、消滅する寸前、風の神より託されし『真の名』を胎内にて育み、引き継がせた命。そしていまひとつは、神の力をもって一度はたしかに途絶えた生命が再生したことにより、娘自身が新たに得た、《荒ぶる神》の剛暴を鎮める力を備えた命。

《父》の雄勁(ゆうけい)と《母》の慈愛。

 ふたつが揃ってはじめて《御魂》は平らぎ、島の守り神としての役割を果たす。
 以後、力は脈々と受け継がれ、島の安寧は守られた―――


 すべては、ここからはじまった……。


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