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第十六章 解放(一)

【神の力を受け継ぐ者たちは皆、己の裡にひそむエネルギーの強大さゆえに本来の寿命を待たずして力尽きてゆく。歴代の《御座所》も、資格を持って生まれ、その使命をまっとうしてきた姉妹たちも。当然、真夕姫に希望を託された宗佑も、そして牧江も──】

 澄んだ声が、耳許でやわらかに言葉を紡ぐ。

 ――だれ? お父さんとお母さんは事故で死んだのよ。ヒロ兄はそう言ってたもん。

【いいえ、それは真実ではない。《御座所》の寿命は覚醒から10年と保たない。御堂の直系たちもおなじように、しかし血が薄いぶん多少の猶予を与えられて、それでも短命に終わってきた】

 ――じゃあ、ヒロ兄は? ヒロ兄も長生きできないの? 雛を残して死んじゃうの? それとも雛のほうが先?

【そうしないために――あなたを守るため、ただそのためだけに真尋はこの島へ戻ってきた】

『声』が、次第にはっきりと意識に呼びかけるものへと変わる。


【雛姫、目を開けなさい。真尋が、愛するあなたを守るために闘っている】



 その言葉にハッとして、安逸とした眠りの狭間を漂っていた雛姫の意識は一気に正気の中へと浮上した。

 目を開けた雛姫の双眸が壁をとらえる。
 巨大な竜巻のように、大木や家なども根こそぎ巻き上げてしまいそうな威力で回転している空気の壁。

 見上げても、先端が見えないほどに高く聳え立ったその壁の威力と迫力に気圧されて、雛姫は思わず後退った。その両肩を、背後から強い力で押さえこむ手があった。

「しっかりご覧になるのです。あの中にいるのはどなたでしょう? 目で見ることができなくとも、姫様なら感じとれるはずですわ」

 波子に言われて、雛姫は壁向こうに目を凝らした。

 どんな状況にあっても、見誤らずにいられるただひとりの存在――

「ヒロ兄……ッ!」

 叫んで飛び出そうとした雛姫を、波子がふたたびしっかりと押さえた。

「どうか落ち着いて。この状況で飛びこんでも弾き飛ばされるだけですわ。躰中の骨が砕かれて、一瞬のうちに命まで奪われてしまいます」
「でもヒロ兄が!」
「ええ、そうです。真尋様はいま、全力で己の力と闘っておられる。人の身でありながら、神の力を制御しようと全霊で挑んでおられる。そしてまもなく、《荒ぶる神》にその力をぶつけるでしょう」
「そんなことして、ヒロ兄は助かるの? 無事でいられる?」
「いいえ。人の身にはとても耐えられない。《荒ぶる神》の力を凌駕し、鎮めることに成功したとしても、その時点で人としての真尋様は間違いなく力尽きてしまうでしょう」
「そんな……っ。そんなことって――」
「だから申し上げましたでしょう? 真尋様は覚悟を決めてこの島に戻られたのだと。すべては姫様、あなたを守るために」

 雛姫は、茫然と目の前の壁を見つめた。

 凄まじい勢いであるにもかかわらず、その風圧を雛姫がまともに受けることはない。雛姫を守るため、真尋の命を受けた黒風が、姿を消して自分をガードしているのが気配でわかった。

「……んなの、て……、こんなのってない……」

 呟いた雛姫は、零れる涙を拭おうともせず壁を睨みつけると、声の限りに絶叫した。

「あたしはっ、ヒロ兄の命犠牲にしてまで自分だけ助かりたいなんて思ってないっ! 優しい思い出だけくれたって、ヒロ兄がいない世界で、独りで生きていけるわけないじゃないかっ! こんなの勝手すぎるよぉぉぉっ!!」

 波子の手を振り切り、ありったけの力を咽喉(のど)と全身にこめて、少女は思いの丈をぶちまけた。そして、両目から堰を切ったように溢れ出る涙もそのままに、顎の先からボタボタと雫を零しつづけながら壁を睨みつけてジリジリと後退した。

 ――全身がバラバラになったっていい。あんな壁、突き破ってやる!

 日頃のおっとりとした性格もどこへやら、完全に頭に血を上らせた雛姫は、ただ一点を視つめて突進しようとした。その躰がふわりと持ち上げられる。手に負えないと見た黒風が、人型に戻って抱き上げたためだった。

「いやっ、放して! 放してったらっ」

 暴れる雛姫を、黒風は困り果てながら乱暴になりすぎないよう押さえこんだ。その目の前で、激しい爆音とともに壁の内側が一瞬にして真っ赤に染まった。
 凍りつく雛姫の眼前で、赤い柱は渦巻く風の勢いを衰えさせることなく、天空に向かって果てしなく伸びる。
 雛姫の躰から、一気に力が抜けて黒風の腕の中で動かなくなった。

【風の力を御して、地中のエネルギーをいま、真尋が吸い上げている】

 目覚める直前、自分に語りかけてきたおなじ声が、ふたたび頭の中で響いた。

「…ロ兄……は?」

 硬張った顔を火柱に向けたまま、雛姫はだれにともなく問いかけた。その脳裡に、謐(しず)かな応えが返って来た。

【《荒ぶる神》の持つエネルギーを昇華しきれば、真尋もまた消滅する】

「そんな……」

 黒風の腕の中から離れた雛姫は、よろめくように数歩進むと、見えないなにかに縋りつくように跪いた。

「お願い。ヒロ兄を助けたいのっ。あたしはどうすればいいのか、あたしになにができるのか教えてくださいっ! どうかお願いしますっ」

 魂を揺さぶるようにして雛姫は声を振り絞った。必死に訴える少女の躰を、黒風とはまた違った、別の気配が包みこむ。それは、驚くほどやわらかで、あたたかな気配――

 だれ……?

【あなたは独りじゃない。雛姫、どうかそのことを忘れないで】


 囁きとともに、気配が消失した。次の瞬間、雛姫の躰は白い光のベールに包まれていた。

第十五章(三)     第十六章(二)

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