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第2章(3)
『金の鳥 銀の鳥』【作品紹介】
グレンフォード財閥創立五〇周年記念式典が盛大に催されたのは、それから数ヶ月後のことである。
家督継承の話が持ち上がった直後の正式招待であり、拒むことも、しらばっくれることもできずにイヤイヤ出席した式典会場で、俺はイザベラ・グレンフォードと二度目の再会を果たした。
再会、といっても、最初にシルヴァースタイン家の人間として挨拶を交わした以外は、招待客に取り囲まれて女王然と微笑む姿を遠目に眺めただけで、直接、私的に言葉を交わすようなこともなかった。
上流階級の人間ほど、目先の利益に敏感で貪欲な連中もいない。
シルヴァースタイン家次期当主に俺の名が挙がったことは、この時点で招待客すべての知るところとなっており――というより、祖父さんたちにしてみれば、まさにこのタイミングを狙っての指名だったのだろう――主催者側であるグレンフォードの一族のみならず、一招待客に過ぎないはずの俺までが大勢の人間に取り囲まれる羽目になり、身動きの取れない状況が随分長いことつづいた。
他家主催のパーティーで、お披露目という名の見せ物にされる悪趣味この上ない趣向は、祖父さんたちの思惑どおり、じつに見事に功を奏したというわけである。
晒し者にされるほうは、たまったものではなかった。
永遠につづくかと思われた拷問から、ほんのわずかな隙を突いて抜け出したときには、年甲斐もなくお色気たっぷりなマダムたちにとことんまで精気を吸い尽くされて、すっかりへとへとになっていた。
おもてに出て、新鮮な夜気にでもあたりたいところだったが、下手に人気の少ない庭やバルコニーで下心満載のマダムや令嬢に捕まっては目も当てられない。婚約者がいることなど、貞節を守る楯にすらなりえない非常識な世界なのだ。無論、俺とて品行方正を標榜できるほど身持ちが堅かったわけではないが、それはまたべつの話である。
そんなわけで、ひとときの安息を求めて、やむなく壁際に置かれた丈の高い観葉植物の陰に身を隠した。
通りすがりのボーイからシャンパンを受け取って咽喉(のど)を潤し、ホッとひと息ついて壁に寄りかかる。ざわめく空間を、重なる緑の葉の隙間から見るともなしにぼんやりと眺めて、どれくらい経ったころだろう。視界の隅に、チラリと動くなにかをとらえ、何気なく目線を移した先にそいつを見つけた。
おなじ鉢植えの向こう、緑の葉陰に身を潜めるようにして佇む小さな人影。
変声期を迎えたかどうか、といった年格好のその子供は、植物のこちら側にいる俺の存在になど気づく様子もなく、じっと息を詰め、死人のように血の気の失せた蒼白い横顔をわずかに俯かせて、なにかに耐えるように身を縮めて立っていた。
幼さの残るカーブを描く白い頬に華奢な顎のライン。利発さが覗(うかが)える秀でた額。
そいつが『だれ』なのかは、初対面であっても、その顔を見さえすれば一目瞭然だった。
生気をまるで感じさせない、ビスクドールめいた完璧な造形美は、『人類の至宝』と呼び讃えられる母に生き写しでありながらも、大人と子供の狭間で揺れ動く、束の間の危うさのようなものが垣間見えて、それがさらなる魅力へと繋がっていた。
月の光を浴びたなら、透けて見えそうなほど儚げで、触れれば淡雪か泡沫(うたかた)のように消えてしまいそうなほど弱々しく、同時に痛々しくもあった。
実際、見た印象そのままに、本人も消えてなくなってしまいたいと願っていたのかもしれない。葉陰で息を殺し、身を潜めるそのさまは、自分の存在をだれかに気づかれることを恐れるあまり、ひたすら気配を殺して、寄り添っている樹に同化しようとしているように見えた。
もっと樹の傍に。
華奢な躰が、より深い葉陰を求めて鉢植えの傍に寄せられる。刹那、手近に伸びた葉に何気なく触れようとした細い指先がビクリとふるえた。その震動で、周辺に重なり合った枝葉全体を大きく揺らした。
額にかかるつややかなプラチナ・ブロンドの隙間から、プルシャン・ブルーの輝きを放つ双瞳が限界まで見開かれてこちらに向けられる。
観葉植物の葉陰をしばしの安息の場と定めて気配を殺していたのはこちらもおなじだったわけで、その結果、そいつは鉢植え越しに佇んでいた俺の存在に、いまのいままでまったく気づかなかったらしい。
怯えを含んだ蒼い瞳にじっと見据えられ、こちらもリアクションに困ってわずかに苦笑し、肩を竦める。吸い寄せられるように盗み見ていたバツの悪さも手伝って、なんとも言えない気まずい空気が数瞬漂った。
「エリス」
不意に背後からかけられた呼び声に、今度は指先だけでなく、華奢な躰全体が大きく慄えた。
見知らぬ第三者の存在に驚愕の色を浮かべていた双眸が、たちまち深い闇に覆われていく。それは、見ているこちらが驚くほどの劇的な変容ぶりだった。
「エリス、なにをしているの? こちらへいらっしゃい」
重ねて呼ばれ、声の主のほうへ躰ごと振り返ったときにはすでに、生気に乏しい蒼白い顔からはいっさいの感情が消え去っていた。
『人形めいた美貌の少年』が『美しい人形』そのものに成り変わった瞬間だった。
「さあ、こちらへ来て、皆様にご挨拶を。母様をひとりにしないで」
「はい」
抑揚を欠く細い声で応じて、【それ】は去っていく。
招き寄せる母の許へたどり着き、母が満足げな微笑みを浮かべてなにごとかを話しかけても、人形の無表情は冷たい闇にコーティングされたままだった。
大勢の取り巻きたちが、美しい母子の許へと集まってくる。
その人だかりの中に消えていく直前、シルクの長手袋に覆われたしなやかな手で息子の背を軽く抱いたイザベラ・グレンフォードが、ゆっくりと振り返った。ガラスめいた碧玉の瞳が、遠目ながらまっすぐに俺の姿をとらえる。刹那、薔薇色の口唇に、不気味な薄笑いがくっきりと刻みこまれた。
毒を含んだ艶やかな嗤笑は、強い残像となって脳裡に灼きつき、いつまでも消えない不快な後味を残していった。
それからわずか数ヶ月後に流れたイザベラ・グレンフォードの死の真相を、正確に見抜いた部外者は、おそらく俺だけだっただろう。
突然駆け抜けた悲報に、社交界はそれこそ天地をひっくり返したような騒ぎとなり、シルヴァースタイン家の家督継承の話も、自然、しばらくのあいだ保留となった。
イザベラの抱える底の見えない晦冥と、その狂気に絡めとられ、いまにも呑まれそうになっていた生贄の子羊。
母の死と相前後して報じられた息子の訃報は、あまりに小さく、ひっそりとしていた。
母子を襲った悲劇は、最愛の息子の不慮の死に耐えられず、後を追うようにして儚くなったという美しい母にスポットがあてられ、大々的に取り上げられたからだ。
社交界を揺るがし、全世界の注目を攫った一大ニュース。
話題性は充分だったが、騒ぎの大きさに比して、それが社会に与える影響は殆どなかったと言っていいだろう。だが、大きな関心事となりながらも、大半の人々にとっては所詮、ただの他人事でしかなかったそのニュースこそが、その後の俺の人生を、一八〇度変えるきっかけとなる。
この、一見自分とはなんの関係もない『事件』を契機に、俺は家を捨て、家族を捨て、シルヴァースタインの名を捨てて、ただのカシム・ザイアッドとしての新しい人生を歩み出すことになるのだから。
いまでも思う。
もし、あのとき、イザベラ母子(おやこ)とほんのわずかでも接点をもつことがなかったなら、そしてなにより、生きることそのものを諦め、母に隷属する人形としての存在に甘んじて壊れる寸前だったはずのあの子供が、最後の最後、おそらくは本当の意味での崖っぷちまで追いつめられた瞬間に、命懸けで母親に反旗を翻さなければ、俺はいまごろ、どうなっていただろう、と。
俺は、たったひとりのあの小さな子供に、救われたのだ――
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