第十六章 解放(二)
【《御座所》は短命。そしておなじく、風の神の血を引く宗佑も牧江も夭折した。人から人へ。神の力を引き継ぐことは、徒人(ただひと)の身にはあまりに重すぎる】
やわらかな声が、雛姫の頭の中に語りつづける。
真尋を助けたい。一心に願う雛姫の心に応えるように、わずかな可能性ながらも、突破口はあるのだと示唆する。ただし、失敗したときに払う代償は、真尋と雛姫、ふたりの命。
「いいです。それでもかまわない。このままいけばヒロ兄の命は間違いなく消えてしまう。だったら、たとえほんのわずかだとしても、あたしはその可能性のほうに賭けたい!」
雛姫は怯まない。いまさらそんなことを恐れたりはしないと昂然と頭を上げる。
いらない。欲しくない。真尋の命を犠牲にしてまで得る生になんか興味はない。生きるなら、絶対に真尋と一緒でなければ価値などないのだ。
揺るぎないその決意に応え、導く気配がある。
鍵は、神の力を受け継ぎながら、それでも短命に終わらず一族を率い、《御魂》を守りつづけている存在――人としての感情のいっさいをどこかへ捨て去ってきたかのような、厳格な志姫の姿がすぐさま雛姫の脳裡に浮かんだ。
《御座所》の双子の姉妹として生まれ、代々『長老』と呼ばれて一族とともに《御魂》を守ってきた《形代》たちは、《父》の名を受け継ぐ者。そしてその殆どが、短命に終わることなしに天寿をまっとうしている。
理由はなぜか。
巫部の血筋において、『資格』を持って生まれるためには双子の姉妹でなければならない。この言葉が示す意味の中に、『ただし、一卵性に限られる』というさらなる条件が暗に含まれていた。ウキとトキ、ふたりの老婆が大地の力を借りることによって、隔たった場所から互いの意思疎通を図ることができるように、神の力は、おなじ遺伝構造を持った人間のあいだでのみ、やりとりすることができる。
《母》の力。《父》の名。
双子の姉妹それぞれが受け継いだ力は、やがて世代の交代に伴い、次代の双子の姉妹に受け継がれる。
では、《御座所》と《形代》、それぞれの真の役割とはいったいなんであるのか。
これまで『有資格者』は、大抵の場合《御座所》から生まれてきた。そして、その時点ですでに、『長老』と呼ばれる姉妹の片割れから『御力』が喪われているのが常であった。
志姫、真夕姫の姉妹がそうであったように、徒人となった《形代》は、『長老』として島を統括する役目を担った。そして、己の姉妹である《御座所》が《御魂鎮め》の任に就き、次代の《御座所》が社でつつがなく成長を遂げるさまを見守りながら、一族の繁栄を維持する任にあたる。なんらかの事情により、《御座所》が『有資格者』を産むことができない場合に限り、『長老』はその任を降り、みずからが《母》となって『有資格者』をこの世に送り出し、《御座所》ともども短い生を終えてきた。
次代の《御座所》と『長老』が成長するまでのあいだは、仮の長老が立てられ、一族を守る任に就く。巫部の一族は、そのようにして永い歴史を閉じられた輪の中で歩んできた。
【神の力は、母となった《もうひとりの自分》とのあいだでやりとりするときのみ、寿命を縮めるほどの負荷を肉体にかけずにすむ】
『声』は告げた。
『有資格者』のいずれかが新たな生命をその身に宿し、次なる世代へと力を引き継ぐ準備が整ったときこそが力のやりとりの好機。母たる役割を担うのは、もっぱら《御魂》鎮めの任に就く運命(さだめ)にある《御座所》。母胎に宿ったふたつの生命それぞれに、《御座所》の持つ《母》の力と、姉妹の片割れである《形代》から受け取った《父》の名の半分とが引き継がれていく。《形代》はそうして神の力を失い、『長老』として一族を率いていく。それが、《御座所》と《形代》、双方のあいだで長きにわたり、暗黙裏に容認されてきた役目であった。
血を守るという掟を破った際、真夕姫は、身籠もった志姫が次の世代にスムースに己の力を引き継げるよう、巧みにその力のやりとりの特性を利用して、志姫にかかる負荷を最小限に抑えた。その結果、志姫は己の力を受け継がせた牧江を出産した後も、今日まで生き存(ながら)えることができたのである。けれども牧江は、もうひとつの『名』を受け継ぐ宗佑とのあいだにできた、『真の名』そのものを受け継ぐ真尋を単身産むことで、とてつもない負担を肉体に強いられ、若くして力尽きてしまった。
繭の中にいるような、あるいは母胎の中にいるような心地よさに包まれながら、雛姫は己の出生にかかわる秘められた内情を徐々に理解してゆく。
力のやりとり。
真尋が風の神の力を制して《荒ぶる神》を消滅させ、それによってみずからの命もまた尽き果てようとしているのなら、真尋を救う手立てはそこにあるように思われる。
だが、いまの話の中でもっとも重要だったのは、力のやりとりをするためには、おなじ遺伝構造を保つ存在同士――一卵性の双子でなければならず、さらにはその一方が身籠もっている必要があるという一点に集約される。
真尋を破滅に追いやるほどのエネルギーを自分が受け止め、昇華しなければ、真尋を救うことはできない。けれど、自分と兄とでは、一卵性どころか年齢も性別も、なにより母までが違う。そして当然のことながら、自分はまだまだ子供で、母になるなど想像すら及びもつかない状態にある。それでいったい、なにができるというのか。
雛姫の心を読んだかのように、『声』は語りかけてきた。
【心配しなくとも大丈夫。あなたが母親から引き継いだ力の中に、御堂の力の一部――義佑から宗佑へと受け継がれた《父》の名の一部が含まれている。御堂と巫部。ふたつに分けられた《父》の名は、義佑と志生の血を受け継ぐ牧江が、宗佑と娶されたことで真尋の中でふたたびひとつに融合して『真の名』として甦った。けれど、義佑と真夕姫の繋がりによって美姫に受け継がれた力も存在している】
そうだ。だから美姫は姉妹を持たずに生まれながら『有資格者』であり、かすかでありながら風の子の声を聞くことができたのだった。そして自分も――
【覚醒した真尋の中で、ほんのわずかに欠落した部分。雛姫、それをあなたが持っている】
「それじゃあ、その《父》の名の力の一部が……」
【そう、あなたの最大の武器になる】
少女を力づけるように、包みこむベールの輝きが増す。そして、さらに意外なことを付け加えた。この話の中には、なおも伏せられている事実がある、と。
「……え?」
雛姫は驚いて顔を上げた。
【覚醒後、十年を超えて生きた《御座所》はいない。『力』のやりとりをしなかった者は、巫部も御堂も短命に終わる。けれど、その中にも極めて少ないながら、例外はたしかにあった】
「例外?」
【真尋とあなたの年齢差は16。それでも『兄妹』として認知されたのはなぜ?】
言われてみれば、たしかにそのとおりである。牧江が真尋を生んですぐに『力尽きた』のであれば、いままで周囲を欺いてくることはできなかったはずである。美姫が雛姫を生んだそのときまで、牧江も、そして宗佑も生きていなければならなかったはずであった。なにより、自宅に飾られている写真の中の牧江と宗佑は、若くして事故で亡くなったとは言いながらも、明らかにいまの真尋より年上であることがわかる外見をしていた。
子供の自分から見て、中学生から上の世代の年齢は判別がしづらくとも、これだけははっきり言うことができる。写真の中で微笑む両親は、雛姫の目から見ても、父兄会で見かける同級生の親たちと変わらない世代に見えた。
そして、波子の力によって見せられた回想シーンの中で、志姫と対等に渡り合っていた美姫もまた、いまの真尋と、さほど年齢差があるようには見えなかった。
難しい顔で黙りこんだ雛姫の耳に、澄んだ声がふわりと舞い降りた。
【牧江は出産後、躰を壊して殆ど寝たきりの生活になってしまった。けれど、それでも真尋が16になる歳まで生きることができた。宗佑も同様に、御堂の家系としては驚くほど長命の40年という生涯を、あなたと真尋がこの島を去る直前に終えた。真夕姫の遺志を引き継いで、我が子である宗佑と牧江を娶せた義佑も、宗佑とほぼおなじ時間を生きた。そして前(さき)の《御座所》美姫にも、あなたが生まれた後に3年の月日をともに過ごす時間を与えられた】
それは皆、掟の外に置かれた者たちだった。
ふたつの血が混じり合うことで、牧江も美姫も、巫部の血筋に生まれた者として本来与えられた寿命より、少しだけ長く生きることがかなった。
父方の血筋から牧江に受け継がれたのは、風音の力の一部。おなじく美姫に受け継がれたのは、《父》の名の一部。
病臥しながら、牧江が32で亡くなるそのときまで愛する夫と息子の傍にいられたのは、義佑から受け継がれた風音の力が、宗佑の内にあるおなじ風音の力と共鳴し合ったことが皮肉にも幸いしたと考えられる。そして義佑や宗佑もまた、巫部の持つ『力』に触れたことで、知らず知らずその寿命を延ばしていた。
【母である美姫が27まで生きられたように、雛姫、あなたもひょっとすると予定の時間より数年、長く生きることができるかもしれない。二十歳より長く、25歳、30歳。いいえ、もしかしたらそれ以上に】
だからなんだというのだろうか。このまま行ったら、その世界に間違いなく真尋は存在しないのだ。宣告された寿命より少しばかり長く生きられたとしたところで、そんな生に意味はない。少しも嬉しくなどなかった。でも、だったらどうすればいいのだろう。
【これは、とても大きな賭。けれど雛姫、本来、御堂の直系として真尋にそっくり与えられるべきだった《父》の名の力の一部が、真夕姫、美姫二世代の犯した禁忌によって、あなたの中でたしかに息づいている――】
自分を包みこむ光の中に、ふたたびやわらかな輝きが増した。
【あなたは真尋を死なせたくない。そして真尋もあなたを守るために、まさにいま、この瞬間にも命を懸けている。互いの強い想いがあるかぎり、あなたがたが持つ力は、きっと相手を生かそうと願ったときにもっとも勁(つよ)く発揮されるはず】
『声』は告げた。ともに消えて失くなるか、それともこの世に留まるか。それはすべて自分たち次第なのだ、と。
【いまならば雛姫、真尋が願っているように、あなただけが助かることも充分可能で、それを選択したとしてもだれもあなたを責めはしない】
「でも、そんなことをしたら、あたしはたぶん、一生自分を恕(ゆる)せない」
雛姫の声は、揺るぎなかった。
「ヒロ兄を見殺しにする自分なら、いますぐ消えて失くなっちゃえばいいんだ。たとえあと何十年生きられるとしても、そんな命、あたしはいらない! 独りだけで長生きするんじゃなくて、ふたりで一緒に消えちゃうんじゃなくて、あたしは、ヒロ兄と一緒に生き残る途を選択する!」
言い放った途端に、治まっていた額がふたたび熱を帯びはじめた。
ベールに包まれた躰に浮遊感が生じる。雛姫の意を受けた黒風が、本来の姿となって雛姫の躰ごと移動を開始したためだった。
【額に意識を集中するのです】
間近に聞こえていたはずの『声』が、ずっと遠い場所で聞こえた。
【自分を信じなさい、雛姫……】