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第四章 山上の館(一)

 男の運転する車は、港からやや奥まった場所に広がる小さな集落を抜け、ほどなく細い山道へと進入した。
 舗装はされているものの、すでに途中から私道にでもなっているのか、車は対向車もないまま九十九(つづら)折りの狭い山道をひたすら上る。そして、揺られること十数分あまり。

 その建物は、島の中心部に盛り上がった、標高の低い山の頂付近に荘厳な構えを展開させていた。

 車2台が悠々と通り抜けできそうな立派な唐門を、黒塗りの車が速度を落として通り抜ける。その先には、職人の手によって丹精に造りこまれた、広大な日本庭園が広がっていた。
 庭園のあいだをゆとりを持って設けられた幅広の車道は、敷地奥の建物へとつづき、そのまま車寄せへと繋がっている。男は、その車寄せスペースの真ん中で高級車を停めると、リアシートに並んで座る兄妹を促してみずからも車から降りた。それに従って真尋が、つづいて雛姫もまた車を降りる。その目の前に、高級老舗旅館を思わせる、それは見事な数寄屋造りの建物が威風を誇っていた。

 ただただ圧倒され、声もなく屋敷を見上げる雛姫の耳に、それじゃあという男の声が届いた。振り返ると、車をその場に残したまま、庭の向こうに去っていく男の姿が目に入った。男は、どうやら自分たちを迎えに来ただけでその役目を終えたらしかった。
 当惑をおぼえて、雛姫は傍らの兄を振り仰いだ。その不安げな眼差しを受けて、硬い表情をした真尋がかすかに笑んでみせる。そして雛姫を促し、屋敷へと向かった。雛姫は、やはりしかたなくその後に従った。

 建物正面入り口は、欄間(らんま)付きの重厚な引分け戸によって飾られていた。檜葉(ひば)製の見事な造り戸は、一見して玄関の広さを物語るように一枚一枚が特注であることがわかる大きさだった。
 真尋は、その玄関口の中央に立つと、慣れた様子で扉を左右に開いた。
 雛姫は、おそるおそる兄の後ろから中を覗きこんだ。果たして、その向こうには、豪壮な外観に相応しい、格式と様式美を極めた内観が広がっていた。

 自宅アパートの部屋がまるまるふたつは入るかと思われる三和土(たたき)部分には、俯いた自分の顔まで映りそうな黒御影が敷き詰められ、その奥には磨き上げられた一枚板の欅の式台が配置されていた。そしておなじく欅の上がり框(がまち)を越えた先に、屋敷の奥まで通じる、入り組んだ廊下のごく一部が見えた。
 玄関の表札に、島の名前とおなじ『巫部』の文字が刻まれていた。とするとこの島は、この土地の名士の所有する島で、高級旅館のように見える立派なこの建物は、一個人の邸宅、ということになるのだろうか。
 雛姫には、それだけで充分、想像を超えた世界の話に思えた。


「遠路ようこそ、お戻りくださいました」

 奥からかかった声に、ふと視線を巡らすと、上がり框の左右両端に、ふたりの老婆がちんまりと座って手をつき、兄妹を出迎えていた。
 大きな屋敷構えにあって、遠近感がわからなくなるほど小柄な形(なり)をした女たちは、二藍(ふたあい)の絽小紋(ろこもん)に一方は鈍色(にびいろ)、そしてもう一方は葡萄染(えびぞめ)の名古屋帯を締めた、まったくおなじ貌をした老女だった。

 驚く雛姫をよそに、鄭重に迎える老婆たちのまえに真尋が進み出る。そして、

「真尋が戻った、と、長老にお取り次ぎを」

 そう低く言った。その言葉に、鈍色の帯を締めたほうが神妙な面持ちで頷いた。

「お屋形様は先程からお待ちじゃ。おまえはこちらへ」

 目を開いているのかもよくわからないような金壺眼(かなつぼまなこ)にひややかな光を浮かべ、老婆は思いのほか機敏な動きで立ち上がった。靴を脱いだ真尋がそれに従う。当然のように後につづこうとした雛姫を、しかし、葡萄染の帯を締めたほうが引き止めた。

「姫様はどうぞこちらへ」

 その言葉が背後からかかったとき、雛姫はそれが自分に向けて発せられたものだと最初気づかなかった。だが、真尋がすぐに立ち止まって雛姫を顧みた。

「おまえは向こうだ」

 静かに、だが、厳然たる口調で言われて、雛姫は目を瞠った。

「え、でも……」
「俺は少し用がある。先に休んでてくれ」

 言い諭すように重ねて言われ、雛姫は躊躇いがちに背後の老女を振り返った。老女は、有無を言わせず雛姫から荷物を取り上げると、「ささ、こちらへ」と促した。
 不安な思いでもう一度兄を見ると、真尋はなにも心配はいらないというように頷いてみせる。それ以上逆らうこともできず、少女はしぶしぶ踵を返した。
 歩き出そうとした雛姫の頭を、真尋の大きくあたたかな手がくしゃりと撫でた。思わず振り向いた少女に、真尋は黙って微笑を投げかけ、そのまま背を向けた。

 遠ざかっていく兄の後ろ姿が、なぜか切ない。

 理由もわからずこみあげてくる不安と心細さに押し潰されそうになりながら、雛姫は真尋を引き止めたくなる気持ちを懸命に堪え、いつまでもその後ろ姿を見送った。


 真尋の姿を、その目に焼きつけておこうとするかのように――

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