第四章 山上の館(三)
それは、高熱を出して寝込んだ3日後のことだった。
その日、大学に用事のあった真尋は、雛姫に留守を頼んで昼前から外出していた。
連日つづく猛暑はその日も記録を更新し、午前10時をまわるころには外の気温はゆうに35度を超えていた。
うだるような暑さの中、夕方には戻ると言い置いて出かけていった兄を玄関先で見送った雛姫は、クーラーを弱めに効かせた過ごしやすい部屋で、食卓兼勉強机の上に夏休みの宿題の計算ドリルを広げていた。
本来なら電気代節約のため、窓を開け放って扇風機をかけるか、あるいは駅向こうの図書館まで足を運ぶところである。けれども、躰がまだ本調子ではないのか、暑さを我慢する忍耐力も外に出る気力も湧いてこない。出がけに兄が電源を入れていってくれた、冷房の効く快適な室内で、雛姫はいつになくぼうっと過ごしていた。
なんだか朝からやけに懈(だる)く、おまけに下腹部にも鈍い、変な痛みがあった。
質(たち)の悪い夏風邪を、またぶり返してしまったのだろうか。
憂鬱な気分で、さっきから一向に捗らない数式だらけの面倒臭い問題集を、雛姫は恨みがましい目で見やってそのまま見開きの上に突っ伏した。
お昼をとうに過ぎているが、食欲もちっとも湧かなかった。
また熱を出して寝込むまえに、病院に行くか、買い置きの市販の風邪薬を飲むかしておいたほうがいいのだろうか。
鬱々と考えながら、行動に移すことさえ億劫で、踏ん切りがつかないままさらに時間は経過していった。
そして――
いつのまにかそのままうつらうつらと眠りこんでいた雛姫は、不意に、全身の毛が逆立つような、自分でもうまく説明のつかない異様な感覚に襲われて飛び起きた。
寒いわけでもないのに、躰の中心から湧き起こってくる顫(ふる)えを止めることができない。
呼吸は荒く、心臓がいまにも破けそうに荒々しく拍動を繰り返していた。掌や首筋、腋、足の裏から冷たい汗が一気に噴き出して衣類を湿らせた。
なにが起こったのか、まったくわからなかった。
無意識に確認した時計は、まもなく午後2時に達するところだった。
浅い眠りの中で、夢を見た記憶もない。だが、身の内から迫(せ)り上がってくる感覚が『恐怖』に近いものであることは間違いなかった。
やはり、自分はどこかおかしいのだ。
思うと同時に怖くなり、携帯に手を伸ばしたものの、兄に連絡することは躊躇われ、結局電話もメールもできなかった。
仕事に出かけている兄にわざわざ連絡を取るほど、事態が急迫しているわけではない。むしろ、余計な心配をかけるだけだろう。
風邪など滅多にひかない丈夫な雛姫が寝込んでからこちら、真尋は雛姫の体調についてひどく神経質になっていた。少しでも不調を訴えれば、真尋がとるものもとりあえず、職場から飛んで帰ってくることは目に見えていた。
きっと、珍しく体調を崩したせいで気が弱くなっているだけなのだ。
消えない不安を抱えながら雛姫は自分にそう言い聞かせ、ドリルを閉じると思い切って立ち上がった。
病院に行ってこよう。そして、薬を処方してもらえば大丈夫。注射は本当はすごく苦手だけど、早くよくなるなら我慢して打ってもらおう。
決心して、大量の汗を吸いこんだ服を着替えるために、押し入れの収納ダンスから新しいTシャツとスカートを取り出した。
保険証と家の鍵、お金の準備をするとカーテンを引いて手早く着替える。クーラーの電源を切り、バッグと洗濯物を持って、家を出るまえにベランダの端に置かれた洗濯機の中に何気なく衣類を放りこもうとした雛姫は、そこで愕然とした。
朝から体調が悪かった理由――とりわけ、下腹部の鈍い痛みがなんであったのか、雛姫ははじめて理解した。
知識だけなら一応あった。
3年のとき、女子だけが視聴覚教室に集められて、女性の身体の仕組みについて、スライドやDVDを使った特別授業が行われた。
女性教師の説明もあり、自分もいずれは辿る道なのだろうと漠然とではあるが了解したものの、なんとなく気恥ずかしさのほうがまさって実感すら湧かなかった。クラスの中でも身体が大きく、早熟な子の幾人かはすでに経験しているようだったが、同級生の中にあっても小柄で成長の遅い自分には、まだずっと先の話だろうと考えていた。
こんなとき、気軽に相談できる身近な大人の女性が雛姫には思いつかない。
激しい動揺をおぼえながら、それでも兄が不在でよかったと心のどこかで深く安堵した。
いくら家族で、幼いころから親同然に自分を育ててくれた大好きな兄であっても、打ち明けられない、そしてできれば知られたくないこともあるのだと、途方に暮れながら雛姫は嫌な気分を味わった。
特別授業を受けた際、配られた試供品があることを思い出した雛姫は、すぐさま部屋の中にとって返すと、勉強道具一式がしまってあるカラーボックスの一番下の段をひっくり返して目的のものを見つけ出した。
病院に行く必要はなくなった。だが、別の用事で出かけなければならかった。
他の同級生は皆、おそらく母親が人生の先輩となって女性としての心構えと適確なアドバイスをし、大人への準備がはじまった娘のためにいろいろと用意をしてくれるのだろう。だが、雛姫にはこんなときに頼れる存在はいない。自力で対処するよりほかないのだ。
もう一度着替えなおしてとりあえずの応急処置をとると、汚れたものを手洗いし、ベランダに干した他の洗濯物に紛れさせる。この天気なら、夕方とりこむころにはちゃんと乾いているだろう。
いまが夏でよかったと思うその反面で、なぜかひどく惨めだった。
みんな、こんなふうに大人になっていくのだろうか。
自分を必死で育ててくれる兄の背を見て成長してきた雛姫は、早く大人になりたいとずっと願ってきた。
その気持ちにいまも変わりはない。
だが、心の準備が整わないうちに、唐突に未知の領域へと引き上げられてしまった自分をどう受け容れたらいいのかわからなかった。
もう、戻ることはできない。
少女の中で、明確には説明のつかない苦い思いが涙となって溢れ、頬を伝う。
この日、雛姫はたしかに、ひとつの子供の時代を終えた。