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第十二章 神の目醒め(二)

「自分がこんな怪力の持ち主だったなんて、たったいままで知らなかったよ。なんだかヘラクレスにでもなった気分だな。真尋くん、ひょっとしてダイエットした? 全然ふたりぶんの体重支えてる気がしないんだけど」

 言いながら、司は自分の躰を美守とトキがしっかり押さえるのを待って、もう一方の腕を差し出した。
 雛姫をまず司に、頭ではそう思っていても、雛姫を抱える腕はまったく動かない。落ちてきた雛姫を受け止めた瞬間、肩の関節を痛めたためだった。

「悪いね、ここで一気にふたりとも引き上げられるといいんだけど、さすがにそこまでは無理かな」

 下から吹き上げられる熱風と腕にかかる負荷によって、司の額にみるみる汗が浮き上がる。

「雛、自力で俺の躰をよじ登れ。落ちないように支えててやるから」

 真尋が指示すると、雛姫は履いていた靴を脱ぎ落として自分から真尋の躰にしがみつき、少しずつ上に移動しはじめた。

 逆らっている暇はない。躊躇している暇もない。早く自分が上がって、真尋を引き上げなければ。

 雛姫は歯を食いしばって、差し出された手に腕を伸ばした。
 ふたりぶんの体重を支えている気がしない。司が言ったように、たしかに自分たちを下から支え上げてくれている見えない力が働いているのが感じられる。それは、波子と合流する直前まで包んでいてくれた《気配》だった。

 お願い。あたしはいいから、ヒロ兄を守って──

 気がつけば、躰のあちこちが真尋の血に染まっている。
 涙で視界がぼやける眼を懸命に凝らし、雛姫は自分を奮い立たせた。
 生き神だなんだと言われても、結局こんなときに力を振るえるわけでなく、いちばんお荷物になっているのは自分なのだ。

 お願い。お願い、神様。お父さん、お母さん、ヒロ兄を助けて。雛はどうなってもいいから、だからヒロ兄を助けて──

 啜りあげながら、しゃくりあげながら、雛姫は必死で真尋の躰をよじ登る。そうしなければ、真尋を助け上げることができないから。


【いけませんわ、姫様。真尋様を確実に助ける方法を最初にお教えしましたのに】


 洞全体に、ふたたびどこからともなく波子の声が響きわたった。だが、雛姫はもう、その声に耳を傾けなかった。
 あの声を信じてはいけない。一刻も早く真尋を救うために、いまは最善を尽くすのだ。

「雛、もう少しだ。頑張れ」

 自分を支える真尋の腕から、少しずつ力が弱まっていく。

 早く。早く。


【真尋様を救えるのは姫様だけ。ずっとずっと真実だけをお教えしてきましたのに、姫様は波子を信じてはくださらないのですね。波子はとても悲しゅうございます。本当に嘘つきなのは真尋様。真尋様は姫様に大切なことを隠しつづけておられる。それでも波子ではなく、真尋様をお信じになるのですか?】


 声は、次第に剣呑な気配を帯びていった。低く、昏く、狂気と毒を含んだ棘を併せ持つ。その危険な切っ先で、やわらかな心を抉り出そうとするかのように。


【真尋様は嘘つき。真尋様は卑怯。なにも知らない純真な姫様の心を利用し、弄んで、いいように操ろうとなさっている。なんて恐ろしい方。重大な秘密を自分ひとりの胸におさめて、なにもかもを思いどおりにしようとなさっている】


 耳を塞ごう。思うそばから、抑えきれない怒りがこみあげてくる。なにも知らないくせにと思うその一方で、真尋が自分に語らないなにかがあることもまた事実だった。それでも、真尋が自分に向ける想いに偽りはない。それなのに──


【お可哀想な姫様。姫様は騙されていらっしゃる。兄と信じた、ただひとりの人に】


 ──やめてよ。

 雛姫の感情に、瞋恚(しんい)の灯が灯る。

「雛、余計なことは聞くな。あとで俺が全部話すから」

 掠れた真尋の声が、雛姫に理性を取り戻させようとする。だが、わかっていると頷き、上を目指すその額に、うっすらと赤い輝きが浮かびはじめていた。自分に差し伸べられている司の手はもうすぐそこにある。

 司は苦手だ。美守もトキも信じられない。でも、あの手を掴まなければ。

【真尋様は嘘つき。姫様はご存じですか? 真尋様がずっと想いを寄せていらしたのは、姫様の御母君である美姫様だったのだということを。美姫様の忘れ形見であるからこそ、真尋様は姫様を引き取られた】

 ──やめてよ。それがなんだっていうの。ヒロ兄のこと、そんなふうに言わないで。

「耳を貸すな! 奴の言うことを信じるんじゃないっ。俺たちの血は繋がってる!」


【でもお気の毒に、そんなにまで真尋様が恋い焦がれた美姫様が本当に愛したのは、真尋様のお父上である御堂宗佑(そうすけ)様ただおひとり】


「雛っ、デタラメだ! 聞くなっ!」


【報われない想いを真尋様はいまも独り抱えていらっしゃる。嗚呼、お気の毒。なんて惨めな真尋様。そして、お可哀想な姫様……】


「雛姫! いいから上に上がれっ」

 ──やめて。やめて。ヒロ兄のこと、そんなふうに侮辱するなんて赦(ゆる)さない…っ。

「……めて」
「雛っ、落ち着けっ。挑発に乗るな!」


【なんて無様な真尋様。みっともない男。卑怯で、臆病で、嘘つきで。こんなふうに他人の手に縋りついて、惨めったらしく生に執着しているのが似合いの情けない男】


 響きわたる哄笑。グラグラと煮え滾る怒り。

 額が熱い。頭が痛い。
 赦せない。赦せない。赦せない……っ。


「もういや。やめて……」

 頭が、痛い―――――


「雛姫っ! よせっ!」


【御堂真尋。姫様に慕われる価値すらないおと――】

「やめてェェェ―――ッ!!」


 絶叫とともに輝きを増した額の文字は、先刻より遙かに強い閃光を放った。その反動にみずからも弾き飛ばされ、雛姫の躰は勢いよく宙に投げ出された。

「雛っ!!」

 なおも響きわたる哄笑の中、雛姫の躰が溶岩流の中へと吸いこまれてゆく。その瞬間に、だれもが少女の生存を諦めた。

《御座所》は、やはり《御魂》を鎮める運命にある生贄なのだ。



『其は人にして人に非ず』

 人に生まれながら、その生を人のまままっとうすることができぬ運命を背負ってしまった少女。

 刹那───

 真尋の中で眠っていたなにかが突如頭を擡(もた)げ、覚醒した。そして次の瞬間、それは爆発的な勢いで解き放たれた。


 力は、これまでと比較にならぬ凄まじい烈風となって空間内に吹き荒れ、唸りをあげた空気が渦を巻いて周辺の熱風をも絡めとる。同時に、計り知れないパワーをもって天井へとマグマを吸い上げた。
 彊梁(きょうりょう)としたエネルギーの奔流は、あらゆるものを打ち砕き、弾き飛ばし、あるいは呑みこんでみるみる膨れ上がっていく。司も美守もトキも、地面や隆起した岩に次々に叩きつけられ、ようやく到着した志姫もまた、荒れ狂う凄風に全身を叩かれて、見えない空気の力に背後の岩盤とのあいだで押し潰されそうになった。そして、最後に辿り着いたウキは、やってきたばかりの通路の奥へと吹き飛ばされ、そのまま消えていった。

 人為を超えた、畏怖すべきものが露わにした瞋恚。

 強大なる力を爆発させ、収斂させた結果、空洞内に、見紛いようのない1頭の巨大な灼熱の龍が現出していた。

 息を呑む人間たちをまえに、現れた龍神は、生き物のように大きく長躯を波打たせ、口から火焔を吹いた。
 赤々と燃え上がる視線の先には、熱風を全身に受けて浮かぶ真尋の姿がある。
 龍神は、みずからを呼び起こした主に厳かに前足を差し出すと、その躰を包みこんだ。

 真尋の躰が灼熱の輝きの中へと消えてゆく。

 主を迎え入れ、鋭い眼差しで辺りを睥睨した龍神は、天に向かって一声、恐ろしい咆哮を放つと、そのまま溶岩流の中へと消えていった。

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