第十三章 乾坤の狭間(一)
晦(くら)い隘路を進んでいるときに、波子は言った。
『姫様がお望みになるかたちで真尋様を救う方法はただひとつ。この先に祀られている島の守り神──荒ぶる神を、姫様なりのなさりかたで受け容れられればいいのです』
──あたしなりの、やりかた?
『ええ。真尋様は、それで自由になれます。真尋様が自由になれれば、姫様ご自身も御役目からきっと解放される。波子は、おふたりを信じてますわ』
あのとき、波子の言葉に偽りはないと思った。だからついて行った。
自分に真尋を救うことができる。
波子の後押しで頑張れると思った。それなのに──
【真尋様がずっと想いを寄せていらしたのは、姫様の御母君である美姫様だった。美姫様の忘れ形見であるからこそ、真尋様は姫様を引き取られたのですわ】
ひどい。ひどい。どうしてそんなことを言うの? なぜ、ヒロ兄が言いたくなかったことを雛に聞かせたの? ヒロ兄がつらいなら、ヒロ兄が苦しむなら、雛はそんなこと、知らなくてよかったのに。
あんなに血まみれで、雛のせいで、あんなに酷い目に遭って大怪我して、それでも雛のために必死になってくれたのに。
お願いヒロ兄、もうやめて。もうこれ以上、雛のために頑張らないで。雛のことなんて、置いて東京に帰っちゃっていいから。それでも雛、泣き言も恨み言も言わないから。
ごめんね、いままでいっぱい迷惑かけちゃって。雛は、ヒロ兄の妹でもなんでもなかっんだね。なんにも知らないで、雛、甘えてばっかりで、すごく負担だったでしょう。
雛、どうして生まれて来ちゃったのかな。なんのために生まれて来ちゃったんだろう。
ああ、でも最後の最後で、ちょっとだけ役に立てたのかな。なんか、上手く溶岩の中に飛びこめたみたいだし。
その場に行ってみればわかるって言ってた波子さんの言葉は本当だった。
波子さんに連れられて、あの不思議な洞窟に辿り着いたとき、どうしてかわかんないけど、あそこに飛びこめばいいんだってすぐにわかった。でも、煮込んでるビーフシチューみたいにグラグラグツグツいってるマグマ見てたら、一瞬だけでもすごく熱いのかな、苦しいのかな、痛いのかなって、怖くなってきちゃって、どうしても飛びこめなくて、そしたらヒロ兄が迎えに来てくれて、一緒に帰ろうって……一緒に帰ろうって……。
『――なき…………』
ああ、なんかすごく気持ちいい。
雛、もう死んじゃったのかな。死ぬのって、もっと苦しくて怖いと思ってたけど、案外そうでもなかったみたい。
なんだか最後におでこがものすごく熱くなって、頭が割れそうになって、それでなんか、躰の中でよくわからないものがバーンて爆発して、外に向かって思いっきり弾けたような気がしたんだけど、それが《御座所》の『御役目』だったのかな。雛は上手く『御役目』を果たして、ヒロ兄を『自由』にしてあげることができた?
もしそうなら、死んじゃってもいいや。ヒロ兄ともう会えなくなっちゃうのは淋しいけど、でも、ヒロ兄が元気で生きててくれるほうがずっといい。だって、雛はやっぱりヒロ兄のことが大好きだから。
『――なき……なっ……』
今度生まれてくるときは、本当のヒロ兄の妹に生まれてきたいな──
「……なきっ──ひなき……、雛っ!」
頬に軽い衝撃を受け、そこで雛姫は朦朧としていた意識を引き戻されて目を開けた。
「雛、大丈夫かっ?」
「……ヒロ兄? ──え……あれ? なんで? だって雛、死んだんじゃ……」
そこまで呟いて双眸を見開いた雛姫は、ガバッと跳ね起きた。
「なんでヒロ兄がここにいるのっ!? 雛、ヒロ兄を助けようと思ったのにっ。ヒロ兄まで死んじゃったら意味ないじゃん!」
「落ち着け、雛。だれも死んでない」
「だってヒロ兄ッ、いま、雛はマグマの中にいて──って……」
動転しながら辺りを見渡した雛姫は、そこで言葉を途切れさせた。
「……ここ、どこ?」
雛姫の質問に、真尋も答えることができなかった。
辺り一面、靄がかかったようにぼんやりと白く、なにも見えない。ひどく狭い空間のようでありながら、果てがないようにも感じられる。自分たちが座りこんでいる場所も、床や地面とは感触がまるで違う。浮いているようでもあり、しっかりと足がついているようでもある。
「ヒロ兄……、三途の川って、もう渡っちゃった? それとも、これから?」
「いや、だからふたりともまだ生きてるって」
「だってこんなのおかしいじゃん! こんな変なとこ、普通の場所にあるわけないもん。怪談話でよく聞くみたいに、どっか適当に歩いていったら向こうにすごく綺麗なお花畑が見えたりして、それでその手前で死んじゃったお父さんとお母さんがにっこり笑って手招きしてたりするんだ。絶対そうだよ、ヒロ兄ッ!」
「──おまえ、想像力逞しすぎるぞ」
「だってっ! ヒロ兄こそなんでそんな落ち着いてるのっ? そんな場合じゃ──」
言いかけて、雛姫はそこで真尋の躰に縋りついた。
「ヒロ兄、怪我はっ!?」
「それが、どういうわけかすっかり治ってる」
「ウソッ! そんな簡単に治るわけないもんっ」
「いや、それがほんとなんだ。気がついたらきれいさっぱり、痛みどころか傷口まで見事に消えてる」
そう言って、真尋は真っ赤に染まったシャツを捲り上げてみせた。相当な深手を負っていたはずの腹部には、真尋が言ったとおり傷の痕跡すら見当たらない。ほかも、あちこちに見られた痣や鬱血の跡、腫れなどがすべて消えている。
「骨や関節の損傷も、すっかり元に戻ってる」
「ウソ……。だって、だって…あんなに大怪我して、いっぱい血が流れちゃって、すごく痛い思いまでさせちゃって……」
安心した途端に緊張が解けて、涙腺が一気に弛んだ。
いまはまだそんな場合ではないと頭ではわかっていても、真尋の元気な姿を見てしまったら、もうどうしようもなかった。
「ヒロ兄……ヒロ兄……」
大粒の涙を零して泣きじゃくる少女を、真尋は抱き寄せた。
「心配かけたな。不安な思いをさせて、すまなかった」
「ヒロ兄、ごめんなさい……。雛がいたせいで、いっぱい迷惑かけちゃって」
「迷惑なわけないだろう。おまえは俺の妹なんだから、俺がおまえを守るのは当然だ」
「でも、ほんとの兄妹じゃない……」
真尋はそこで雛姫の両肩を掴むと、自分のほうを向かせて両目を覗きこんだ。
「雛、おまえは思い違いをしてる。だれになにを聞かされたか知らないが、俺たちは本当の兄妹だ。ちゃんと血も繋がってる」
真尋の言葉に、雛姫は目を瞠った。
「え、でも……」
「俺たちの血は、間違いなく繋がってる。ただし、半分だけ」
「……半分?」
「このことを知ってる人間は、ごくわずかしかいない。生きている中では、俺と巫部の長老ぐらいだろう。だから、本当はもっと時期を見て、おまえがもう少し大きくなるまで待ってから話すつもりだった」
おまえには少し、ショックな話だと思うから。真尋はそう言って困ったように笑った。
「俺の見通しが甘すぎた。まさか、こんなに早く覚醒の時期がくるなんて思ってもなかったから」
真尋の言う『覚醒』と初潮が深く関係していることは、雛姫もなんとなく理解していた。そして、そのことを真尋に知られてしまったことも。
雛姫は急に恥ずかしくなって真尋から視線を逸らした。俯いた雛姫の頭を、真尋はこれまでと変わらぬ優しい仕種でくしゃりと撫でた。
「この時期だからこそ、かえってよかったのかもしれませんわ」
唐突に加わった第三の声に、兄妹はハッとして顔を上げた。
いつのまにか、すぐ目の前に波子が佇んでいた。