第5章(2)
『金の鳥 銀の鳥』【作品紹介】
「いやぁ、まさかおなじ軍の先輩にあたる方とはつゆ知らず、大変失礼しました」
口許に浮かびはじめた青タンを痛々しく引き攣らせて、羆ヤロウはヘコヘコと頭を下げた。
あの直後に通報を受けたらしい警官が駆けこんできたため、これ以上面倒に巻きこまれてはそれこそ厄介だと、あわてて店の裏口にまわり、従業員専用の控え室に女とともに逃げこんだのである。その際、女がどうしても羆ヤロウも一緒にと騒ぐので、しかたなく担いで連れてきたのだ。
「もう、どうすんのさ! あんたが殴っちゃったこの人、なんとか部隊とかいう、秘密警察みたいなとこの軍人さんなんだよ!?」
気ぜわしげに濡らしたタオルで羆ヤロウの額や顎を冷やして介抱しながら、女は子供を叱る口調で俺を責め立てた。
叱られようがなんだろうが、殴っちまったもんはどうしようもない。そもそもあそこで応戦しなければ、こっちの身も危なかったのだから、一方的に責められるのは理不尽というものである。ただの通りすがりに、危ない目に遭いかけた女を助けただけの善意の人間を、質の悪い酔いどれ風情と一緒くたにして見境なく襲いかかってきたほうが悪いのだ。
幸いにもと言おうか、俺の右ストレートをまともにくらったわりにダメージはさほどでもなかったようで、羆ヤロウはいくらもしないで正気づいた。瞬間的にうまいこと受け身でもとったのだろう。そのときには奴もだいぶ頭に上っていた血が冷めて、平常心を取り戻していたので、こちらの身分を明かして誤解を解いた、というわけである。
「よかった、目が覚めてまた乱闘騒ぎになったらどうしようかと思ったけど、あんたも軍人さんだったんだね。どーりでタダモノじゃないと思ったよ」
心底安堵した様子の女に、俺は肩を竦めてみせた。タダモノじゃないもなにも、俺はただの公務員である。軍に在籍してドンパチやっていると違和感のある身分だが、実際そのとおりなのだからしかたない。
「それにしてもお見それしやした。まさかこのオレを、あんなに軽々と一発で伸しちまう人がこの世にいようとは」
「突っ込んできた勢いもあったから、そのぶん衝撃の威力もでかかったんだろ」
「いや、目には自信あるほうなんで。避(よ)けられなかったこと自体、普段なら考えられねえっつうか」
「そんだけ酔っぱらってたんだよ。この俺の、どこどう見りゃ悪人になるってんだ」
「す、すんません……」
羆ヤロウはでかい図体を精一杯縮めて恐縮した。
「ところであの、お名前を伺っても? オレはキム・ビョルンてんですが……。軍人っても、まだ軍には入りたてのペーペーでして」
「知ってるよ。新入りの中にえらい変わったのがいるって噂になってたからな」
「いやそんな、噂になるようなことはなんもしちゃいません。体術訓練のときに、うっかり教官絞め墜としちまったんで、大袈裟に尾鰭がくっついたんじゃないですかね」
体術訓練の指導官が去年と変わっていなければ、柔道・合気道ともに世界大会無敗の紅帯有段者だったはずだ。
これは噂になるはずだと、内心ひそかに嘆息しながら、こちらも所属と階級を添えて名乗った。すると、羆ヤロウ――キムの奴は、途端に勢いよく自分の膝を叩いて、目を剥きながら俺を指さし、でかでかと叫んだものである。
「あーっ! するってーと、あんたが非常識の権化と軍で恐れられているという、あの伝説の型破り軍曹か!」
ほかのだれに指をさされたとしても、こいつにだけは絶対非常識呼ばわりされたくない。
心の底から、そう思った。
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