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第三章 巫部島(一)

 その山は、島のほぼ中央に位置した。
 山、というにはだいぶん標高の低いそれは、見栄えのしない外観を呈した、ありふれた丘陵のひとつにすぎなかった。けれども、土地の住民たちにとってそこは、遙か昔から不可侵とされる、神聖唯一なる領域だった。

 その山の頂から、いま、ひと筋の白い煙が立ち上っている。
 目にした人々は皆、一様に動きを止めて立ち尽くし、感歎と畏敬の入り交じった嘆声を発した。

「近々、御渡りがあるそうな」
「なんでもお屋形様が、瑞兆をご覧になられたとか」
「まことか。ならばとうとう本殿に――」
「しっ、皆まで言うてはならん! 畏れ多いことじゃ」

 島民たちは方々で顔を寄せ合い、声をひそめて口々に噂し合った。そして最後には、必ず揃って山に向かい、神妙なる面持ちで手を合わせた。

 それは、山から《御徴(みしるし)》が消えて以来、じつに7年ぶりの出来事だった。



「わぁ、すごいねぇ! 海の色がすっごくきれい!」

 フェリーのデッキで潮風を全身に浴びながら、雛姫は大はしゃぎで歓声をあげた。
 高熱を出して寝込んだ1週間後、真尋は雛姫を連れて東京の自宅アパートをあとにすると、そのまま目的も告げず長い移動時間を経て、ついには瀬戸内海を渡った。
 島の群影が、西陽を存分に浴びて逆光の中に黒々と浮かび上がり、金色に反射した光が海の碧(あお)の至るところで波濤の白とともに儚い輝きを散らした。

 ガイドブックも時刻表も持たない旅。

『瀬戸内に行こう』

 真尋の提案は唐突だった。
 朝起きるなり出し抜けにそう言うと、真尋はポカンとする雛姫を後目(しりめ)に押し入れから旅行バッグを引っ張り出して、次々に着替えを放りこみはじめた。

 どうやら寝ぼけているのでも、冗談を言っているのでもないらしい。
 事態を呑みこむにつれ、雛姫の中で驚愕は次第に大きくなり、目の前の出来事が信じられなくなった。

 なにごとも常にきちんと先を見越して行動する慎重な兄が、どう考えても思いつきだけで行動しているようにしか見えない。昨夜寝るまで、今日出かけるなどという予定はなかったはずだった。それがなぜ、なにをどうしたらこういうことになってしまうのだろう。
 だが結局、真尋は雛姫に質問の余地すら与えることなく身支度を調えると、状況を把握しきれていない雛姫を促して自宅アパートを後にした。
 着替えを持ったところを見ると、最低でも1泊以上はするつもりのようだが、日頃から口数の少ない兄は、道中いつにも増して寡黙がちで、具体的に瀬戸内のどこへ行くとも、いつまで滞在するとも告げなかった。

 ――泊まりで出かけるってわかってたら、昨日のうちに冷蔵庫の中身点検しておいたのに。

 珍しく強引な兄の言動に、最初のうち、雛姫は多少の不満をおぼえてむくれていた。しかし、時間の経過とともに次第に楽しい気分がまさってゆき、海を目の前にしてフェリーに乗るころには、すっかり上機嫌になって旅を満喫していた。


「ねえねえ、ヒロ兄、あそこ見て! お魚が泳いでるのが見えるよ。あれってなんのお魚かな」
「こら雛。あんまり身を乗り出すんじゃない。危ないだろう」
「平気だよーお」

 手摺り越しに下を覗いてはしゃぎたてる雛姫の襟首を、真尋は背後から猫の仔でも扱うように掴んだ。雛姫はそれすらも愉しくてしかたないように、ケラケラと明るい声を立てて笑った。

「ねえ、ヒロ兄。向こうに見えるあの大きな工場はなに? 造船場かなにか?」
「ああ、あれは製塩工場だろう。この辺りは昔から塩業が盛んな地域だからな。伯方の塩なんかはいまでも有名だろう?」
「あ、それって学校の社会の時間に習ったことがある。ヒロ兄、この辺のことに詳しいんだね」

 無邪気なひと言に対する返答はなかった。

 雛姫は特に気にも留めず、デッキから見える海の景色を堪能していた。兄の瞳に一瞬浮かんだ昏(くら)い翳りに、少女が気づくことはなかった。


 フェリーに乗ることおよそ1時間。途中の島で降船したふたりは、今度は小さな連絡船に乗り換えて別の島へと向かった。
 真尋は相変わらずどこへ行こうとしているのかひと言も触れようとしない。けれども、その迷いのない足取りから、目的地はとうに定まっているようだった。
 夏のギラつく太陽も、いつしかだいぶ西に傾き、昼間の射すような輝きを徐々に失いはじめている。
 家を出てからすでに半日以上。見慣れぬ風景がそう思わせるのか、雛姫はなんだか随分遠いところまで来てしまったような気がした。

「もうまもなくだから」

 途中、別の島でもう一度連絡船を乗り継ぐこと40分あまり。
 隣に座る兄が、ついに重い口を開いた。

「なんていうところに行くの?」
「巫部島(かんなぎじま)――あそこに見えている、あの小さな島がそうだ」

 兄の指さしたほうに顔を巡らせた雛姫は、その先に、他の島々からひとつだけポツリと離れた、小さな島影を見つけた。

「今夜はあそこに泊まるの?」

 尋ねた雛姫に、兄は無言で頷いた。
 あんな小さな島に、人が住んでいるのだろうか。宿泊施設どころか、普通の民家すら存在するのかどうかも怪しいようなひっそりとした島の様子に、雛姫は不安をおぼえて兄を振り返った。だが、真尋は依然、なにを考えているのかわからない表情で、ぼんやりと窓外に映る風景を眺めている。雛姫は諦めて、また窓の外に視線を戻した。

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