第一章 夏休み(二)
風呂なし1DKアパートに住む真尋と雛姫は、日頃、アパートから徒歩3分の場所にある銭湯を利用していた。
入り口で男湯と女湯に別れて真尋が料金を番台でふたりぶん支払い、大体40分前後で入浴を済ませて共同スペースで落ち合う。それがいつのまにかふたりのあいだにできた無言の習慣だった。だが、今日は支払いを済ませた際に、風呂釜が壊れたとかで雛姫のクラスメイトが来ていると銭湯の主人が言っていたので、少し長引くかもしれないと真尋は思った。
「雛ァ、先に出て涼んでるぞー」
男湯を出る際、色褪せた富士の絵が描かれた巨大な仕切り壁の向こうにひと声かけると、すぐさま「はぁい!」という雛姫の明るい返事が返ってきた。
「なんだい、お兄ちゃん。新婚さんかい? 若い人は羨ましいねえ」
浴場の出入口付近の洗い場にいた老人にすかさず背後からひやかされ、真尋は返答に窮してその場に固まった。『新妻』の正体が10歳の少女では、照れる気にもなれない。そもそも現代(いま)の『新婚さん』は、あまり銭湯には通わないだろう。
先に着替えを済ませ、共同スペースに設置された冷水器でカップになみなみと水を注いだ真尋は、それを一気に呷ってからエアコンの冷風がよくあたる長椅子に腰掛けてひと息ついた。
寝苦しい熱帯夜がつづく連日の猛暑は、扇風機のぬるい風では凌ぐのもやっとといった感じだった。先日梅雨が明けたばかりでこれでは、この先に控えた夏本番が思いやられる。辛抱強い雛姫は愚痴ひとつ零すこともないが、首筋に汗疹(あせも)ができていることは真尋も気づいていた。
――いい加減、クーラーぐらい買うか……。
内心で思ったとき、頭にタオルを巻いた雛姫が、着替えの入った袋を抱えて駆けこんできた。
「ごめんねえ、ヒロ兄! 待った?」
「いや。友達はもういいのか? もっとゆっくりしててよかったんだぞ」
「うううん。これ以上あったまってたら茹で蛸になっちゃうよ」
雛姫は言いながら真尋の横にストンと腰を下ろした。
「涼しいねえ、ここ」
「ああ」
ポケットの小銭を確認した真尋は、すぐ横の自動販売機で瓶入りのフルーツ牛乳を買うと、雛姫の上気した頬に押しつけた。雛姫はうひゃっと嬉しそうな悲鳴をあげて首を竦めた。
風呂上がりのフルーツ牛乳は、普段、贅沢をいっさいしない雛姫の唯一の楽しみだった。はじめはそれすらも自制してもったいないと渋っていた雛姫だったが、真尋が自分もひと口飲みたいのだと言うと、ようやく納得して素直に買ってもらうようになった。聡い雛姫は、それが自分にフルーツ牛乳を買ってくれるための兄の心遣いであることにすぐに気づいたようであったが、その後も特になにも口にせず、黙って兄の厚意に甘えていた。
「やっぱりお風呂上がりのフルーツ牛乳は美味しいねえ」
真尋が蓋を開けて渡してやると、雛姫は両手でそれを受け取って口に運び、満足そうに息をついた。
「ちゃんと乾かさないと風邪ひくぞ」
雛姫の頭に巻かれたタオルをとって、真尋は濡れた髪を拭きなおす。雛姫は宙に浮いた両足をぶらぶらさせながら、兄のするに任せて機嫌良くフルーツ牛乳を飲んでいた。
「ねえ、ヒロ兄」
「うん?」
「ヒロ兄って、いまいくつだっけ?」
「26だろ? なんだ、藪から棒に」
「んー、べつに。あんまし考えたことなかったんだけど、もしかしたらヒロ兄にもお嫁さん候補がいたりするのかなぁって思っただけ」
どうやらさっきの老人のひやかしは、壁向こうの雛姫の耳にもしっかり届いていたらしい。
「もしいたら、どうするんだ?」
「……よくわかんない。でも、ヒロ兄が好きになった人なら雛もたぶん好きになれるし、仲良くなれると思う。だから、雛姫のことは気にしないで、結婚していいからね」
俯いた雛姫の顔は、後ろに立つ真尋からは見えない。真尋は髪を拭く手を一瞬止め、すぐにタオル越しに妹の小さな頭を軽く叩いた。
「いるわけないだろ、そんな相手」
途端に雛姫は大きく目を瞠って兄を振り返った。
「仕事が忙しくて家のこともおまえに任せっぱなしだっていうのに、どこに恋人とデートする暇がある」
「え、でも……。ヒロ兄って優しいし、背も高くてカッコイイからモテそうなのに」
「そう言ってくれるのはおまえだけだよ。妹の身贔屓だろ」
もう一度ポンと頭を叩くと、雛姫はそんなことないよぉと笑った。その屈託のない笑顔が、真尋の目にやけにホッとしたように映った。
同世代の子供よりずっとしっかりしているとはいえ、雛姫もまだまだ大人の――延いては兄である自分の保護を必要とする子供なのだ。
真尋はこんなとき、あらためてそのことを痛感する。だが、妹を不憫に思うことは、自分の境遇をしっかりと受け容れ、靱(つよ)くまっすぐに生きている雛姫に対して失礼な気もした。
「俺のことより雛、うちにはいま、もっと可及的速やかに必要なものがあるぞ」
「え、なに?」
驚く雛姫に真尋はすました顔で親指を立て、その先端を自分たちのわきにあるものに向けた。それを見た雛姫の瞳がますますまんまるに見開かれる。そして、頓狂な声をあげた。
「うそっ、なんでっ!?」
「さすがに限界だ。夜ぐらい気持ちよく寝たいだろう?」
「えっ、でもでもっ! クーラーってすっごく高いんでしょう? あたし、扇風機で我慢できるよ?」
「俺がきついんだよ。ただでさえ寝苦しいうえに、すぐ横で体温の高い生き物がいびきはかくわ歯ぎしりはすごいわ寝言はうるさいわ寝相はアクロバット並みだわで、そりゃあもう毎夜凄まじくて――」
「そんなのウソだもんっ!」
顔を真っ赤にして振り返りざま兄のお腹を叩く雛姫に、真尋は珍しく声を立てて笑った。
「ま、冗談はともかく、金の心配はしなくていい。今回は夏のボーナスもしっかり入ったことだし、クーラーぐらいなら買えるさ。おまけに秋からは別の大学からも非常勤講師の誘いが2、3入っててほぼ本決まりだ」
「ほんとに? すごいね!」
「このあいだ書いた論文が認められたんだ。雛がいろいろ協力してくれたおかげだ。だから明日、さっそく買いに行こう。大家さんには出がけに許可をもらっていけばいい」
「うん!」
頷いて、雛姫は思い出したようにフルーツ牛乳を兄に差し出した。真尋が受け取ると、自分も空の手で瓶を持つ真似をして、真尋の手に軽くぶつけた。
「ヒロ兄のお仕事の成功に乾杯!」
真尋も気取った仕種で瓶を顔のまえに掲げ、甘い液体をひと口飲んでから妹に返した。
「さあ、そろそろ帰るぞ」
促された雛姫は、「はい」と素直に応じて残りを飲み干すと、空き瓶を自販機わきに置かれたケースに返して戻ってきた。そんな雛姫を見て真尋は言った。
「来年あたりは風呂付きの部屋に引っ越せるといいな」
「うん、そうだね。でも雛は、銭湯もフルーツ牛乳も好きだから、全然急がなくていいよ」
歩き出した兄の横に並んで大きな手を握りながら、雛姫は弾むような足取りで大好きな兄を見上げて言った。真尋はその手を握り返し、黙って微笑した。