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第二章 予兆(二)

 夏休み初日の図書館は、学生や子供たちで思いのほか賑わっていた。
 調べ物がいくつかあるという真尋と、雛姫は正面ホールで別れた。1階の児童図書コーナーで読書感想文用の課題図書を借りてから、雑誌コーナーの設けられている閲覧室に向かった。

 ガイドブックの置いてある棚から数冊選んで抜き取り、それらを抱えて自習室横の読書スペースに席を確保する。好きなように決めていいと言われたが、自分で旅行の計画を練るのもはじめてなら、大学の仕事抜きで真尋と旅行に出かけるのもはじめてのことだった。
 テレビの旅番組などを見ていると、行ってみたい場所はいくらでもあるような気がしていたが、実際にいざこうして話が具体的になってみると、なにを基準に決めればいいのか皆目見当もつかない。思いつく場所といえば、大学の教授たちの慰安旅行も兼ねた学会の開かれる滞在先で、情緒風情あふれる温泉街ばかりというのが我ながらおかしかった。

 ――せっかく行くなら、景色の綺麗なところがいい。それからヒロ兄の好きな、海の幸が美味しいところ。

 そう思い、途中、コンピュータ・ルームでネット検索などもしてみるうちに、ふと、瀬戸内の風景が気になって、雛姫はもう一度雑誌コーナーに戻った。そして、四国方面のガイドブックと、なんの気なしに目に留まったすぐ横の棚の写真集も持って席に着きなおす。
 あまり深く考えずに写真集のほうからページを捲りはじめた雛姫は、その本の中盤あたりに載せられていた、一葉の写真に強く引き寄せられた。

 それは、瀬戸内の海に浮かぶ小さな島の写真だった。

 似通った構図の写真は、おなじ写真集の中にほかにいくらでもあった。だが、その風景写真が目に留まった瞬間、雛姫の中で、なにかが弾け飛ぶような大きな衝撃が奔った。
 悪寒のような、自分でも説明のつかない慄(ふる)えが躰の中心部から湧き起こり、心臓が張り裂けそうなほど激しい動悸を打ちはじめる。息苦しさが咽喉(のど)を圧迫し、全身の毛穴が一気に開いて大量の冷や汗を吹き出させた。

 苦しい。声が出ない。

 だれか助けてっ。

 そして次の瞬間、額に灼けつくような痛みをおぼえると、視界全体を金色の目映い光が覆ってスパークした。

 助けて―――……ヒロ兄…………っ!

 雛姫の記憶は、そこで途絶えた。



「雛っ、雛姫! おい、どうしたっ!」

 激しく肩を揺すられて、雛姫は唐突に我に返った。

「あ……、ヒロ兄……」

 虚ろだった瞳に、ようやく焦点が戻ったのを確認して、真尋はホッと胸を撫で下ろした。

「びっくりするじゃないか、こんなとこでぼんやりして。どうした、なんかあったか?」

 真尋に心配そうに顔を覗きこまれ、雛姫は驚いたように首を振った。

「え、うううん。べつになんにも……あれ? いま何時?」
「もうとっくに2時過ぎてる」
「えー、ほんとにっ? いつのまにそんなに時間が経ってたんだろう」

 本気で仰天している妹を見て、真尋はやれやれと嘆息した。

「集中するのも結構だが、時間を忘れるほど、なにをそんなに真剣に読んでたんだ?」
「べつに、ただ写真集見てただけなんだけど……。夏休みの旅行、どこにしようかと思って」
「で、決まったのか?」
「うん、と……、気になる場所があったんだけど……あったはずなんだけど……、――あれ? どこだっけ?」

 眉間に皺を寄せてうーんと唸る雛姫に、真尋は呆れたような視線を送った。

「あんまり張りきりすぎて、ひとりで空想の旅に出ちゃったんじゃないのか?」
「うーん、そうかなぁ。でも、なんとなくそんな気もする。えー、どうしちゃったんだろう、あたし。途中から全然思い出せないや。居眠りしちゃったのかなぁ」
「目を開けたままでか?」
「え? あたし、目開けてた?」
「………………」

 雛姫はキョトンと兄を見た。

「いいからもう帰るぞ。まともに冷房の風があたる場所に座ってるから、こんなに躰が冷えてるじゃないか。旅行のことならまだたっぷり時間はあるんだから、あとでゆっくり決めればいいだろう」
「うん、そうだよね。そういえば、すっごくお腹空いちゃった」

 あっけらかんと笑う雛姫に、真尋は溜息をついた。

「ほら、行くぞ」

 兄に促されて、雛姫は開いていた写真集をパタンと閉じて立ち上がる。そして、ふと額に手を当てた。

「どうした? 頭でも痛むのか?」
「あ、うううん、平気。ちょっと待ってて。これ、棚に戻してくる」

 雑誌と写真集を抱えてあわただしく駈けていく小さな後ろ姿を、真尋はかすかに眉を顰めて見送った。

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